第77話:凍る
第五部・第三章「要る場所」。
エスタは涸れる土地でした。レンツは溢れる川でした。
辺境ヴァレントの冬は、凍ります。
寒波は記録にない早さで来た。
初雪から六日目の朝。
外へ出た瞬間に息が喉で固まった。
空は晴れていた。
晴れているほど冷える、と村の人は言った。
◇
私は西の水路へ走った。
走りながら最悪の形を思い描いていた。
縁が凍って、割れて、水が抜ける。
去年の冬に二か所で起きたという、あの形を。
――水路は、生きていた。
浅く、広く、傾きを殺した水路の底を、水がゆっくりと動いていた。
縁に氷が張っている。
張っているが、割れていない。
流れが遅いぶん、氷は縁に薄く貼りついて、真ん中の水を守る蓋になっていた。
私は、しゃがみこんだ。
――トマスたちが正しかった。
私の設計なら、この朝で二か所が割れていた。
彼らが三度やり直して作った形が、この寒さを越えた。
「リシェル様」
声がした。
トマスが棒を担いで立っていた。
「割れてない」
私は言った。
「うん。……割れてないね」
「はい」
トマスは頷いた。
得意がりもしなかった。
「そういうふうに作りましたから」
◇
村は冬の支度を終えていた。
薪が家ごとに積んである。
根菜は土に埋けてある。
屋根の雪止めも直してある。
どれも私が教えたものではない。
この土地の人が何代も繰り返してきた形だ。
私は初めてそれを見る側に回っていた。
――去年の冬、私はこれを見ていなかった。
◇
その日の昼過ぎから雪が降り始めた。
夜のあいだも降り続けた。
次の日も降った。
三日目の朝、村の外へ出る道は、腰まで埋まっていた。
◇
村が困り始めたのは、水ではなかった。
水は回っていた。
困ったのは、村と村のあいだだった。
ヴァレントは一つの村ではない。
丘の下に本村があり、川沿いに三つ、山際に二つ、離れた集落がある。
水も、薪も、決めごとも、その六つで分け合う形になっていた。
――分け合う形は、行き来があって初めて動く。
雪が積もって行き来が止まった。
「上の二軒に、薪が回ってません」
「北は、先月から人が二人減ってます」
「山際は、そもそも誰も行ってない。四日」
詰所の板の間で報告が積み上がっていった。
カイルは地図に印を打っていた。
打つほどに、地図の上の空白が見えてきた。
◇
私は、その地図を見ていた。
見ながら背中が冷えていくのを感じた。
これは、私が作った形の弱点だった。
一点に集めない。
一つの村に全部を持たせない。
六つで分け合う。
――それは、六つのあいだを歩く人がいる前提の形だ。
夏なら歩ける。
秋も歩ける。
冬は。
歩けない。
私は一年ここにいて、冬を一度越したはずだった。
あの冬、私は王都の地図を見ていた。
村の冬を、見ていなかった。
「……分散は」
私は呟いた。
「繋ぎ手がいないと、死ぬ」
カイルが顔を上げた。
「なんだって」
「なんでもない」
私は言った。
言いながら胸のどこかが熱くなっていた。
――仕事があった。
私にできる仕事が、この村に、四か月ぶりに、あった。
私はその熱をはっきりと自覚した。
自覚して、また、恥ずかしくなった。
◇
その夜、テアが詰所へ駆け込んできた。
髪にも肩にも雪が積もっていた。
顔が白かった。
寒さで白いのではなかった。
「ばあちゃんが」
テアは言った。
「起きない」
◇
ハンナの家は村のいちばん外れにあった。
薄い明かりの中で老女は寝床に横になっていた。
息はしていた。
浅く、速く。
額に触れると、熱かった。
「三日前から咳をしてた」
テアが言った。
声が震えていた。
「うち、水番の番だったから。……朝と夕方しか、いなかった」
「テア」
「うちが、いれば」
「テア」
私はその子の肩を掴んだ。
「あなたのせいじゃない」
「でも」
「あなたのせいじゃない」
私はもう一度言った。
テアは唇を噛んで、それから、頷いた。
◇
セレナが来た。
脈を見て、胸に耳を当てて、しばらく黙っていた。
「熱を下げる薬が要ります」
彼女は言った。
「私が持っているのは、あと二日分です」
「二日分」
「はい。……あとは、山際の集落にあります。あそこの婆さまが作っています」
「代わりの薬は」
「ありません」
セレナは言った。
「あの家にしか作れない薬です」
私は顔を上げた。
「山際は」
カイルが言った。
「四日、誰も行ってない」
◇
誰かが行かなければならない。
雪の中を、山際まで。
そして、それは一度で済む話ではなかった。
薬は続けて要る。
上の二軒には薪が要る。
北には人が要る。
山際には、四日ぶんの報せが溜まっている。
冬は、まだ始まったばかりだった。
これから三月、この状態が続く。
板の間で、誰も口を開かなかった。
全員が、同じことを考えていた。
誰が行くのか。
――誰が、行き続けるのか。
カイルが口を開いた。
「俺が行く」
私は、その声を聞いた瞬間に、立ち上がっていた。
「だめ」
自分でも驚くほど、強い声が出た。
全員が私を見た。
カイルも私を見た。
私は、自分がなぜ立ち上がったのか、まだ言葉にできていなかった。
わかっていたのは一つだけだった。
――この人に、行き続けさせてはいけない。
私は、震える息を吐いた。
そして、詰所の全員を見回して、言った。
「……手が、足りないんじゃない」
私は言った。
「手を、一人に集めようとしてる」
トマスたちの水路は、寒波を越えました。
浅く、広く、傾きを殺した形。リシェルの設計なら割れていた朝を、村の判断が守り切りました。
けれど冬は、別のところに穴を開けます。
ヴァレントは六つの集落で分け合う形でした。――分け合う形は、あいだを歩く人がいて初めて動きます。
雪が積もり、行き来が止まりました。
「分散は、繋ぎ手がいないと、死ぬ」
仕事ができたことに、リシェルはまた、胸が熱くなる自分を見つけます。
ハンナが倒れました。薬は二日分。残りは、四日誰も行っていない山際にあります。
誰かが行かなければならない。――そして、行き続けなければならない。
「俺が行く」と言ったのは、カイルでした。




