第76話:断る、理由
次の日、私は詰所の隅に座って、一日中カイルを見ていた。
邪魔にならないところに座って、ただ見ていた。
彼はそのことに何も言わなかった。
◇
朝のうちに男が三人来た。
薪の割り当てでもめていた。
カイルは両方に喋らせて、二つ質問をして、それで終わりにした。
「上は去年多かった。今年は下だ」
「けど統治官様、うちは家が増えて」
「増えた分は来年に乗せる。台帳につける」
カイルは筆を取ってその場で書いた。
「文句あるか」
「……ないです」
男たちは帰っていった。
二つ質問して、その場で書いて、半刻もかかっていない。
◇
昼前に女が来た。
東の畑の水が去年より遅いという。
カイルは地図を出して女に指ささせた。
「ここか」
「ここです」
「トマスを呼べ」
トマスが来た。
三人で地図を覗き込んで、しばらく話して、トマスが「見てきます」と言って出ていった。
カイルは女に言った。
「明日わかる」
「はい」
「わからなかったら、また来い」
◇
昼に老人が来た。
用件はなかった。
座って、茶を飲んで、天気の話をして、帰っていった。
カイルはそのあいだ筆を置いて相手をしていた。
老人が出ていったあとで私は聞いた。
「今の、何」
「北の山の下の爺さんだ」
カイルは言った。
「用がないときに来る。……用があるときに来やすくするためだ」
私はその答えを、しばらく噛んでいた。
それは、教わって身につくものではない。
この土地に五年いた人間の手つきだった。
◇
昼を過ぎて人が途切れた。
カイルは机に向かった。
紙を繰る音だけがしていた。
私はその横顔を見ていた。
――この人は、うまい。
うまい、という言い方は、乱暴だと思う。
けれどほかに言いようがなかった。
彼はその場で決める。
決めたことを書く。
書いたものを次に来た人が読める形にしておく。
それだけのことを、彼は五年、この土地で一人でやってきた。
私がここへ来る前から。
私がいた一年も。
私が出ていった四か月も。
◇
――だから、王都が欲しがるのだ。
私はようやくその当たり前のことを理解した。
殿下は思いつきで彼を選んだのではない。
この国に、こういう仕事ができる人間が、どれだけ少ないかを知ったのだ。
王都の地下で、私と一緒に。
◇
日が暮れてミリアが夕飯を運んできた。
置いて、下がっていった。
カイルは筆を置いて椀を取った。
私は口を開いた。
「カイル」
「なんだ」
「あの辞令」
彼の手が止まらなかった。
「断ったぞ」
「知ってる」
私は言った。
「理由を、聞いてない」
◇
カイルは椀を置いた。
しばらく黙っていた。
それから、ごく普通の声で言った。
「お前が、要る場所を一つ持っておく、と言った」
「……言った」
「持っておくには」
カイルは言った。
「そこに居なきゃならん」
◇
私は膝の上の手をぎゅっと握った。
「四年」
私は言った。
「四年、要らないってこと?」
「要らんとは言ってない」
カイルは言った。
「行けば、四年ここにいない。ここにいなければ、お前が帰ってくる場所がない。……それだけの話だ」
「私は」
私は言った。
「私は、あなたが行くなとは言ってない」
「言ってない」
カイルは頷いた。
「お前は言わん。……だから俺が決めた」
◇
それが、いちばんこたえた。
彼は私に頼まれたのではない。
私が頼まないとわかっているから、自分で決めたのだ。
私が何も言わないという性質を計算に入れて、そのぶんを自分で引き受けた。
――それは、たぶん、優しさと呼ばれるものだ。
そして、セレナに誰もしなかったことと、まったく同じ形をしていた。
「カイル」
私は言った。
「あなた、あの役、やりたい?」
カイルは、初めて答えるのに間を置いた。
長い間だった。
「……そういう聞き方をするな」
彼は言った。
「答えると、面倒になる」
◇
答えはそれで十分だった。
やりたいのだ。
この人は、水と人の割り振りを組み直すのが好きなのだ。
好きで、うまくて、そして国がそれを必要としている。
私は椀を見ていた。
湯気が細く上がっていた。
「……ごめん」
私は言った。
「なにがだ」
「わからない」
私は言った。
「わからないけど、たぶん、ごめん」
カイルは怪訝な顔をして、それから、椀を持ち上げた。
「食え」
彼は言った。
「冷める」
私は椀を取った。
汁はまだ温かかった。
二口飲んで、それから私は、自分が何を怖がっているのかをやっと言葉にした。
――彼が行ってしまうことが、怖いのではない。
彼が、行かないことを選び続けるのが、怖いのだ。
四年。
そのあと、また四年。
そうやって、この人の一生から、少しずつ何かが引かれていく。
誰にも見えない引き算として。
セレナの一年が、誰にも見えなかったように。
◇
外へ出ると、風が変わっていた。
鋭くて、重い。
顔に当たったものが、雨ではなかった。
私は空を見上げた。
白いものが、灯りの中を斜めに落ちていた。
「――姉ちゃん!」
声がした。
テアが、詰所の前で両手を広げていた。
初雪の中で、その子は笑っていた。
「うちの、言ったとおりでしょ」
一日カイルを見ていて、リシェルはようやく当たり前のことを理解します。
――この人は、うまい。
その場で決めて、書いて、次の人が読める形にしておく。それを五年、一人でやってきた。
だから王都が欲しがるのです。殿下は思いつきで選んだのではありませんでした。
断った理由も、飾りがありませんでした。
「お前が要る場所を一つ持っておく、と言った。持っておくには、そこに居なきゃならん」
リシェルは頼んでいません。頼まないとわかっているから、彼が自分で決めたのです。
――それは優しさと呼ばれるもので、同時に、誰もセレナにしなかったことと、まったく同じ形をしていました。
「あの役、やりたい?」
「……そういう聞き方をするな。答えると、面倒になる」
その夜、初雪が降りました。テアの言ったとおり、冬が早い。




