第75話:あなたは、あの人を
セレナに呼ばれたのは、四日後の午後だった。
教え小屋、と村の人は呼んでいる。
もとは麦を置く小屋で、いまは机が三つ置いてある。
朝のうちは若い者が来て、昼を過ぎると誰もいない。
私が入っていくと、セレナは窓のところで薬草を選り分けていた。
◇
「座ってください」
セレナは言った。
私は座った。
彼女は薬草を布に包んで、それから向かいに座った。
その動きが滑らかだった。
王都で最後に見たとき、彼女は立っているだけで精一杯に見えた。
「元気そう」
私は言った。
「はい」
セレナは頷いた。
「よく眠れます。……いまは」
「いまは」
「はい」
彼女は少し笑った。
「一年、眠っていませんでした。眠れない、のではなく、眠らない、でした」
◇
そして、セレナは話し始めた。
私が王都で見なかった側の話だった。
あの一年、この国の中枢には穴が空いていた。
私が抜けた穴だ。
そこを、彼女が一人で押さえていた。
「朝、目が覚めると、まず穴を確かめました」
セレナは言った。
「まだ空いている。まだ塞がっていない。……では、今日も私が押さえる。そう思って起き上がるところから、一日が始まりました」
「……代わりは」
私は聞いた。
「いなかったの」
「いませんでした」
セレナは言った。
「――いえ」
彼女は言い直した。
「立てようとした人が、いませんでした」
◇
私は黙った。
セレナは、机の木目を見ていた。
「誰も、悪くありません」
彼女は言った。
「神殿の者も、殿下も、みな私を大事にしてくださいました。休め、とも言われました。何度も。……ただ、誰も、代わりを立てようとはしなかった」
「どうして」
「私がいれば、済んだからです」
セレナは言った。
「私がいるあいだは、何も困らない。困らないものを、人はわざわざ作り直しません」
彼女は顔を上げた。
「だから、私が倒れるまで、誰も動きませんでした。……倒れて初めて、みんなが必死になりました。……十日で、代わりの形ができました」
「十日」
「十日です」
セレナは静かに言った。
「一年やらなかったことが、十日でできました」
◇
私は口の中が乾くのを感じた。
「あなたは」
セレナは言った。
「あの方に、同じことを、させようとしています」
私は顔を上げた。
「――カイル様のことです」
セレナは言った。
声を荒げも、責めもしなかった。
薬草を選るのと同じ手つきで、彼女はそれを机の上に置いた。
「あなたは、あの人を、私にしようとしています」
◇
私は、すぐには言い返せなかった。
言い返す言葉は、いくつも浮かんだ。
浮かんだ端から、自分で潰れた。
「……違う」
やっと出たのは、その一言だった。
「そうでしょうか」
「私は、彼に何も背負わせてない」
「四年の役を、断らせました」
「私が断らせたわけじゃ」
「断る理由を、あなたが作りました」
セレナは言った。
私は口を閉じた。
◇
「聞かせてください」
セレナは言った。
「レンツで、何をおっしゃったのですか」
私は、しばらく答えなかった。
それから、言った。
「……一つだけ、って言ったの」
「一つだけ」
「私はどこの土地でも要らなくなる。それでいい。それが私の仕事だから。……でも、全部の場所で要らなくなったら、私はどこにもいなくなる」
私は膝の上で指を組んだ。
「だから、一つだけ。……一つだけ、私が要る場所が欲しい、って」
セレナは、長いこと黙っていた。
窓の外で、鳥が鳴いた。
「――リシェル」
彼女が私を名前で呼ぶのは、めずらしかった。
「一つだけ、が」
セレナは言った。
「いちばん重いんです」
◇
私は息を止めた。
「二つなら、片方が倒れても、もう片方があります。十なら、三つ欠けても回ります」
セレナは言った。
「一つは、欠けたら終わりです。……だから、その一つになった人は、絶対に欠けられません」
彼女は自分の手のひらを見た。
「絶対に欠けられない人は、休めません。……病んでも言えません。言えば相手が終わるからです」
セレナは言った。
「私は一年、それをしていました」
◇
私は何も言えなかった。
私は、四つの土地でそれを説いてきた。
水を一本の水路に集めるな。
答えを一人に集めるな。
決めごとを一人に持たせるな。
――集めれば、そこが切れたときに全部が死ぬから。
私はそれを、村に説き、都に説き、教義になったものすら壊した。
そして自分の帰る場所は。
一本しか、引いていなかった。
「セレナ」
私は言った。
声がうまく出なかった。
「私は。……どうすればよかったの」
「それは」
セレナは言った。
「私が答えることではありません」
彼女は少しだけ笑った。
「あなたなら、村の人にそう言うでしょう」
◇
小屋を出ると、日が傾いていた。
丘の稜線が、赤く縁取られている。
空気が、朝よりさらに冷えていた。
詰所のほうを見た。
窓に、灯りがついている。
カイルの机の灯りだ。
この四日、あの灯りは、私が寝るときにもまだ点いていた。
――私が要る場所を、一つ持っておく。
彼はそう言った。
持っておく、というのは、そこに居続けるということだ。
居続けるというのは。
――どこへも行かない、ということだ。
私は詰所へ向かって歩き出して、三歩で止まった。
なんと声をかければいいのか、わからなかった。
私は灯りをしばらく見ていた。
それから、自分の小屋へ戻った。
その夜、あの灯りがいつ消えたのか。
私は、知らない。
セレナが語ったのは、第二部の裏側でした。
一年、たった一人で国の穴を押さえ続けた日々。
休め、とは何度も言われた。けれど誰も「代わりを立てよう」とはしなかった。
――彼女がいれば困らなかったからです。困らないものを、人はわざわざ作り直しません。
倒れて十日で、代わりの形はできました。一年やらなかったことが、十日で。
セレナがその話をしたのは、昔語りのためではありませんでした。
リシェルは「一つだけでいい」と願いました。
けれど一つは、欠けたら終わりです。だから、その一つになった人は、絶対に欠けられない。
――休めず、病んでも言えない。言えば相手が終わるから。
「一つだけ、が、いちばん重いんです」
四つの土地で「一点に集めるな」と説いてきた人が、自分の帰る場所には、水路を一本しか引いていませんでした。




