第74話:王都からの、辞令
第五部・第二章「一点」。
王都から早馬で届いた書状の宛名は、リシェルではなくカイルでした。
その中身を、リシェルはまだ知りません。
ミリアは湯を出されても飲まなかった。
まず膝をついて、それから泣いた。
泣いてから、恥ずかしそうに袖で顔を拭いて、それでもう終わりにした。
昔からそうだった。
この人は、泣くのが早くて、切り上げるのも早い。
「四か月です」
ミリアは言った。
「王都でお別れしてから」
「そんなになる」
「なります」
ミリアは私の顔を見て、それから眉を寄せた。
「……お痩せになりました」
「みんな同じこと言う」
「みんな同じことを思うからです」
◇
ミリアは王都に残っていた。
私がエスタへ発つとき、彼女は「王都に、目を置いておきます」と言った。
実際そうしていたのだ。
殿下の周りで、何が決まって、何が決まらないかを、四か月見ていた。
「殿下は」
ミリアは言葉を選びながら言った。
「よく、お働きです」
「そう」
「はい。……前とは、別の方のように」
私は頷いた。
あの人は変わった。
命じる人から、頼む人へ。
王都の地下で、私はそれを見た。
「ですが」
ミリアは言った。
「人が足りません」
「人」
「はい」
ミリアは指を折った。
「仕組みは変わりました。紙の上では、水も人も、領をまたいで動かせます。……ですが、動かせる人がおりません」
「動かせる人」
「その土地へ行って、その土地の言い分を聞いて、その場で組み直せる人です」
ミリアは言った。
「殿下は、この四か月、探しておいでです」
私は黙って聞いていた。
四か月。
私がエスタとレンツにいたあいだ、あの人はずっと人を探していた。
「それで」
私は言った。
「あの書状は」
ミリアは膝の上で手を握った。
「――辞令でございます」
◇
カイルは書状を立ったまま開いた。
目が三度、上から下へ動いた。
それだけだった。
「断る」
カイルは言った。
ミリアが息を呑んだ。
「か、カイル様。まだ、中身を」
「読んだ」
「今、三回しか目を通して」
「三回読めば足りる」
カイルは書状を畳んだ。
「巡回だろう。各領を回って、水と人の割り振りを通してこいと。三年か、四年か」
「……四年です」
ミリアは小さく言った。
「そうか」
カイルは言った。
「断る」
そして部屋を出ていった。
◇
残されたミリアが私を見た。
私は書状を手に取って読んだ。
文面は短く、飾りがなかった。
――王都の地下で作り直した仕組みを、外の領へ通す段になっている。
紙の上では、もう決まっている。
だが領ごとに水の事情も人の事情も違い、紙のとおりには動かない。
だから領を一つずつ回って、その土地に合う形に組み直せる人間が要る。
水と土地の実務を知っていて、領主にも村にも通じ、王都の言葉でも喋れる人間。
名前が一つだけ挙がっていた。
辺境領統治官 カイル。
私は紙を膝に置いた。
紙の下のほうに細かい字で条件が並んでいた。
任期は四年。
起点は王都。
巡回する領は、まず六つ。
三月に一度、王都へ戻って報告。
――辺境ヴァレントの名前は、どこにもなかった。
――正しい人選だった。
腹の立つほど正しかった。
罠でも、追放でもない。
殿下はいちばん要る場所へ、いちばん要る人間を置こうとしただけだ。
私が王都でやったことと、同じことを。
◇
「リシェル様」
ミリアがおずおずと言った。
「あの。……お聞きしても」
「なに」
「カイル様は、なぜ」
私は答えられなかった。
答えは知っていた。
知っていたから、答えられなかった。
「……わからない」
私は言った。
嘘だった。
ミリアはそれ以上聞かなかった。
この人は昔から、私が嘘をつくのを見抜いて、そのうえで黙ってくれる。
◇
夜、私は外でカイルを見つけた。
石積みの上に座って暗い丘を見ていた。
「隣、いい?」
「好きにしろ」
私は隣に座った。
石が冷たかった。
しばらく二人とも黙っていた。
「四年って」
私は言った。
「長いね」
「長いな」
「……そうね」
それだけだった。
私はその先を言えなかった。
行けばいい、とも。
行かないで、とも。
どちらも喉の途中で止まった。
カイルもそれ以上は何も言わなかった。
やがて彼は立ち上がって、詰所へ戻っていった。
◇
その夜、私は寝台の上で天井を見ていた。
胸の中に、はっきりと形のあるものが一つ、残っていた。
それは。
――よかった、だった。
カイルが断ったと聞いたとき。
私は、ほっとしたのだ。
その安堵は温かくて、明るくて、そして。
――今日の夕方、石積みが崩れる音を聞いたときの安堵と、同じ味がした。
私は起き上がった。
暗い部屋の中で膝を抱えた。
あのときは、村が壊れれば私に用ができると思った。
今度は。
――彼が断れば、彼は私のそばにいる。
形は違う。
中身は同じだ。
私はどちらも、自分の要り場所のことしか考えていない。
私は寝返りを打った。
窓の外で風が丘を撫でていた。
四年。
巡回。
それは、私が四つの土地でやってきたことそのものだ。
私がやってきたことを、これからは彼がやる。
彼にはそれができる。
できると、私が誰よりも知っている。
なのに私は、彼が断ったことに、ほっとしている。
――なぜ。
問いは、天井の暗がりの中で、答えを持たずに浮いていた。
答えなら、四日後にセレナが持ってくることになる。
私が、いちばん聞きたくない形で。
ミリアは王都に残って、四か月のあいだ「目を置いて」いてくれました。
そして運んできたのは、カイルへの辞令です。
第二部で作り直した仕組みを、各領へ通していく巡回の役。四年。
水と土地を知っていて、領主にも村にも通じ、王都の言葉でも喋れる人間が要る。
――それは罠でも左遷でもなく、ただ正しい人事でした。
カイルは即答で断りました。三回読んで、それだけで。
リシェルは、その「断る」を聞いたときに、自分がほっとしたことに気づきます。
石積みが崩れる音を聞いたときと、同じ味の安堵に。




