第73話:何も、することがない
三日たった。
私は、何もしていなかった。
◇
朝、起きる。
顔を洗う。
外へ出る。
――そこから先が、ない。
村は動いている。
人はそれぞれの持ち場へ行く。
水番は水路へ。
女たちは畑へ。
男たちは薪を割りに、丘の裏へ。
私は、どこへも呼ばれない。
◇
二日目に、私は畑を手伝おうとした。
女たちは喜んで場所を空けてくれた。
私は根菜を掘った。
三十ばかり掘ったところで、隣の女がそっと言った。
「あの、そっち、まだ早いんですよ」
「……早い?」
「もう十日置くと、太るんで」
私は手を止めた。
言われてみれば、私が掘った根は細かった。
「すみません」
「いえいえ」
女は笑った。
「あの」
私は聞いた。
「十日って、どうやってわかるんですか」
女は不思議そうな顔をした。
「どうって……」
彼女は少し考えて、言った。
「毎年、そうなんで」
「毎年」
「はい。ここらは、だいたい」
私は頷いた。
書き留めるようなことではないのだ。
毎年そうだから、知っている。
私が一年半かけて覚えなかったことを、この人は生まれたときから知っている。
「よかったら、そっちの籠、運んでもらえます?」
私は籠を運んだ。
それは、誰でもできる仕事だった。
誰でもできる仕事を渡された、ということだった。
◇
三日目に、私は水番についていった。
テアの番だった。
テアは棒で氷を割り、深さを見て、板を一枚だけ動かした。
「これでいいの」
私は聞いた。
「いいよ」
「どうしてわかるの」
「んー」
テアは首をひねった。
「昨日と、ちがうから」
私は黙った。
――それは、正しい。
恐ろしいほど正しい。
私がレンツで、二十日かけて言葉にしようとしたことだ。
この子は、それを教わってすらいない。
毎朝見ているから、知っている。
それだけだ。
「姉ちゃん」
テアが言った。
「なんか、手伝う?」
私は口を開いた。
開いて、閉じた。
この子の番に、私が手を出す理由が、一つも見つからなかった。
「……ううん」
私は言った。
「見てるだけでいい」
◇
昼に、トマスが私を訪ねてきた。
私は、少しだけ胸が動いた。
「リシェル様。ちょっと、見ていただきたいものが」
「なに」
「北の水路の、板の位置です」
私は詰所へ行って、彼の描いた図を見た。
よくできていた。
直すところが、なかった。
「……いいと思う」
私は言った。
「ほんとですか」
「うん。これでいい」
「よかった」
トマスは笑った。
「じゃあ、明日やります」
彼は図を巻いて、行ってしまった。
私はその背中を見送った。
彼は、私に許可を求めに来たのではなかった。
もう決めていた。
決めたあとで、見せに来ただけだ。
――嬉しいことだ。
私はそう思おうとして、うまくいかなかった。
夕方。
私は詰所の外の石に座っていた。
中でカイルの声がしていた。
低く、短く、ときどき紙をめくる音。
彼は忙しかった。
四か月留守にした統治官の机の上には、四か月分の紙が積んである。
昼も夜も、その前にいる。
二日目の夜、私は一度だけ声をかけた。
「手伝おうか」
カイルは顔も上げずに言った。
「いや」
それだけだった。
「何かあったら言って」
「ああ」
「ほんとに言ってね」
「言う」
彼はそこで一度だけ顔を上げた。
「……悪いな」
「ううん」
私は言った。
「忙しいのは、いいことだから」
悪気は、なかったと思う。
彼はただ、正確に答えただけだ。
私にできる仕事ではなかった。
この村の四か月分の記録を、私は何一つ知らない。
◇
石に座って、私は村を見ていた。
薪が積まれていく。
屋根が直されていく。
子どもが走っていく。
水が流れている。
――全部、回っている。
私がいなくても。
私がいなくても、と、私は胸の中で言った。
それは私が四つの土地で言い続けた言葉だ。
誇っていい言葉だ。
なのに、その言葉を自分の村に向けて言った瞬間。
喉の奥に、鉄の味がした。
◇
そのとき。
丘の下で、何か重い音がした。
石が崩れる音だった。
村の誰かが「おおい」と呼んだ。
人が走った。
――私は立ち上がっていた。
立ち上がって、丘のほうへ一歩踏み出して。
そして、自分の胸の中を、はっきりと見た。
そこにあったのは、心配ではなかった。
安堵だった。
何かが壊れた、という報せに。
私は、ほっとしていた。
◇
足が止まった。
丘の下では、もう人が集まっていた。
石積みの一部が崩れただけだった。
男が三人がかりで、崩れた石を積み直している。
誰も慌てていない。
やり方を知っている手つきだった。
私は、その光景を遠くから見ていた。
見ながら、震えていた。
寒さではなかった。
◇
――私は、この村が壊れることを、望んだ。
一瞬だった。
一瞬でも、望んだ。
なぜなら、壊れれば、私に用ができるからだ。
私は口を押さえた。
押さえなければ、声が出そうだった。
「不要でいい」
私はそう言い続けてきた。
言い続けて、四つの土地から歩き去ってきた。
その底に、こんなものが溜まっていた。
誰にも要らないということに、私は、耐えていなかった。
ただ、耐えているふりが、うまくなっただけだった。
◇
その夜。
村の入り口で、馬の音がした。
夜に馬が来るのは、いい報せではない。
私はそれを、王都で覚えた。
詰所から人が出ていく。
松明が上がる。
馬から降りたのは、外套を着た小柄な人影だった。
泥だらけの裾。
髪をきつく結い上げた形に、私は見覚えがあった。
その人は、松明の輪の中で私を見つけて、大きく息を吸った。
「――リシェル様」
その声を、私は四か月、聞いていなかった。
王都で別れて以来だった。
「ミリア」
私は言った。
ミリアは膝から崩れるように頭を下げて、それから、震える手で懐から油紙の包みを出した。
中から出てきたのは、封蝋のある書状だった。
王家の紋。
アルトリウス殿下の印。
私はそれを受け取ろうとして――手を止めた。
宛名を見たからだ。
そこに書かれていたのは、私の名前ではなかった。
――辺境領統治官 カイル殿。
帰ってきて三日。リシェルには、何もすることがありません。
畑では手が早すぎ、水番では見ているだけでよく、統治官の机は四か月分の知らない紙で埋まっています。
村は回っています。彼女がいなくても。それは彼女がずっと言い続けてきたことでした。
石積みが崩れる音を聞いたとき、彼女の胸に最初に来たのは、心配ではなく安堵でした。
壊れれば、自分に用ができる。――一瞬でも、彼女はそう思ってしまった。
「不要でいい」と言い続けた人の底に溜まっていたものが、故郷でようやく見えます。
その夜、王都から早馬が来ました。
書状の宛名は、リシェルではありません。




