第79話:要る場所
第五部「要る場所」、最終話。
「不要になるために来た」と言い、「名前も要らない」と言った人に、
まだ言っていない言葉が、一つだけ残っています。
「追い出さない」
私は言った。
「追い出さないけど、行っていい」
「どっちだ」
「両方」
私は言った。
カイルは長いあいだ黙っていた。
それから、雪を蹴った。
「……面倒な女だな」
「知ってる」
◇
冬は、長かった。
板は十日ごとに書き足された。
名前は、書き足されるたびに増えた。
最初は十八人だった。
二月の終わりには、三十人を越えていた。
書き足したのは私ではない。
ある回から、トマスが勝手に足すようになった。
そのうち、水番の老人が勝手に足すようになった。
最後のほうは、誰が最初に書き始めたのか、もう誰も覚えていなかった。
◇
冬は、無傷では終わらなかった。
山際の集落が、家畜を六頭失った。
北の二軒が、冬の蓄えを半分失った。
橇が一台、谷で壊れた。
――人は、全員生きていた。
六つの集落の、誰一人。
それは、この土地では珍しいことだ、と水番の老人が言った。
珍しいことなんですか、と私が聞いたら、老人は笑った。
「わしがガキの頃は、冬に二人か三人、いつのまにかいなくなった」
彼は言った。
「気づくのが、春だった」
◇
ハンナは、持ち直した。
持ち直して、痩せて、それでも春には畑へ出た。
私が挨拶に行くと、老女は私の顔をしばらく見て、それから言った。
「あんた、うちの孫を、番に入れたな」
「……はい」
「あの子、いい顔してたよ」
ハンナは言った。
「あんたが来る前は、水番の見習いなんぞ、女の子のする仕事じゃないと言われてたんだ」
私は驚いた。
私は、そんな話を一度も聞いていなかった。
「……誰が変えたんですか」
「知らんよ」
ハンナは言った。
「いつのまにか、そうなってた」
◇
春が来た。
雪が緩んで、道が出た。
道が出て、最初にヴァレントを出ていったのは、私ではなかった。
トマスだった。
◇
「東の、フェルという領だそうです」
トマスは荷を背負いながら言った。
「セレナ様が、話をつけてくださって」
「一人で行くの」
「はい」
トマスは頷いた。
少し怖い顔をしていた。
怖い顔をしたまま、行くと決めていた。
「リシェル様」
彼は言った。
「一つだけ、聞いていいですか」
「なに」
「向こうで、俺が間違えたら」
トマスは言った。
「どうしたらいいですか」
私は笑ってしまった。
同じことを聞いた人が、レンツにもいた。
「直してもらいなさい」
私は言った。
「その土地の人に」
「……直してもらえますかね」
「もらえるように、なりなさい」
私は言った。
「間違えたときに、その土地の人が『違うよ』って言える人になりなさい。……偉くなりすぎたら、誰も言ってくれない」
トマスは、しばらく考えていた。
それから、笑った。
「じゃあ、俺、偉くならないようにします」
「うん」
私は言った。
「それが、いちばん難しいよ」
◇
トマスが行った日の夕方、テアが私を探しに来た。
水番の棒を担いでいた。
もう見習いではない、と本人は言い張っている。
「姉ちゃん」
「なに」
「うちも、いつか、姉ちゃんみたいになれる?」
私は、その問いを胸で受けた。
――四か月前の私なら、うまく答えられなかったと思う。
私は、しゃがんでテアと目を合わせた。
「ならなくていい」
私は言った。
「なんで」
「あなたはもう、水を見てるから」
私は言った。
「私は、水を見るのに一年かかった。……あなたは、毎朝見てる。昨日と違うことが、わかる」
私は言った。
「私みたいになったら、遠回りになる」
テアは、しばらくぽかんとしていた。
それから、真っ赤になって、棒を振り回した。
「なにそれ! ずるい!」
私は笑った。
久しぶりに、腹の底から笑った。
◇
カイルの辞令は、書き換えられた。
書き換えたのは、カイル自身だった。
彼は返書に三行だけ書いた。
――起点は王都ではなく、辺境ヴァレントとする。
――巡回は三月ごとに一度、ヴァレントへ戻る形とする。
――辺境領の統治は、村の寄合と当番でこれを回す。
三つ目が、いちばん驚かれたらしい。
統治官が、自分の仕事を村へ返した。
ミリアが王都から持ち帰った話では、殿下はその返書を読んで、しばらく黙っていたという。
それから、こう言ったそうだ。
「……あの男は、リシェルの弟子か」
私はその話を聞いて、笑った。
違う。
逆だ。
私が、あの人から習ったのだ。
◇
発つ日は、よく晴れていた。
村の外れまで、たくさん来た。
水番の老人が。
テアが。
畑の女たちが。
ハンナが、杖をついて。
セレナが、いちばん後ろに立っていた。
「三月で帰る」
カイルが言った。
「板は、勝手にやっとけ」
「言われなくてもやるよ」
水番の老人が言った。
「あんたの名前、もう二回しか入れてやらんからな」
笑いが起きた。
◇
セレナが、私のところへ来た。
「行くのですね」
「うん」
私は言った。
「ついていく」
「必要だから?」
セレナは、少しいたずらっぽく聞いた。
私は首を振った。
「ううん」
私は言った。
「必要じゃないよ、もう」
私は言った。
「彼は一人でやれる。私がいなくても、たぶん、ちゃんとやる。……私も、ここに残って一人分歩くことはできる」
私は言った。
「必要じゃない。……でも、行く」
セレナは、目を細めた。
それから、深く頷いた。
「それが」
彼女は言った。
「いちばん、いい形です」
◇
馬車が動き出した。
村が、後ろへ遠ざかっていく。
石積み。
板の打たれた詰所の壁。
水路。
逆に流れる、私の知らない水路。
「……なあ」
カイルが御者台から言った。
「一つ、聞いていいか」
「なに」
「あの冬、お前は、俺に行くなと言わなかった」
「言わなかった」
「言いたかったのか」
私はしばらく答えなかった。
春の風が、幌を鳴らしていた。
「言いたかった」
私は言った。
「すごく」
◇
「じゃあ、なんで言わなかった」
カイルが聞いた。
私は、幌の外を見た。
丘に、雪が残っている。
残っている雪は、もう白くない。
春の色をしている。
「言ったら」
私は言った。
「あなたが、私だけのものになるから」
私は言った。
「そうしたら、あなたは休めなくなる。……病気になっても、言えなくなる。言ったら、私が困るから」
私は言った。
「セレナが、そうだった」
◇
カイルは、しばらく黙っていた。
「……お前は」
彼は言った。
「よく、そこまで考えるな」
「四つの土地で、同じことばっかりやってきたから」
私は言った。
「他人の分散は、うまく設計できるの。……自分の分だけ、忘れてた」
私は膝を抱えた。
「私、ずっと、要らない人になろうとしてた」
私は言った。
「要らない人になれば、誰も傷つけないと思ってた。……でも、要らない人になりきると、こんどは、誰か一人にしがみつくの」
私は言った。
「不要でいる、っていうのは。……たぶん、それだけじゃ、足りなかった」
◇
馬車は、街道を東へ向かっていた。
最初の領へ。
カイルの、最初の巡回へ。
私は、幌の柱に頭を預けた。
――あの夜、私は言われた。
お前など、不要だ。
それは呪いだった。
私はその呪いを、四つの土地で、少しずつ形を変えて受け取り直した。
私は、不要になるために来た。
それは祝福だった。
私の名前も、いっしょに要らなくならなければ。
それは、手放しだった。
――そして。
この冬、私は、もう一つ憶えた。
誰にも要らない人になる、ということと。
誰かに要ると言う、ということは。
矛盾しない。
◇
一点にしなければ。
一本の水路に全部を流さなければ。
要る場所は、いくつあってもいい。
六つの集落があってもいい。
板に三十人の名前があってもいい。
私が要る場所も、いくつあってもいい。
――要ると言ってはいけない、とは。
誰も、言っていなかった。
私が、そう決めていただけだった。
◇
「カイル」
私は言った。
「なんだ」
「三月後、帰るよね」
「帰る」
「私も帰る」
「知ってる」
カイルは前を向いたまま言った。
「板に、名前が入ってるんだろ」
「二回だけね」
「二回でいい」
彼は言った。
「二回入ってりゃ、帰る理由になる」
◇
街道が伸びていく。
東へ。
私を必要としない土地を、これからいくつも越えていく。
越えて、また戻る。
戻る場所がある。
水が流れて。
畑が実って。
人が笑って。
そのどこにも、私の名前は要らない。
――それでも。
あの板の上には。
二回だけ、私の名前が書いてある。
それで、じゅうぶんだった。
風が、東から吹いていた。
雪の匂いは、もうしなかった。
第五部「要る場所」、これで一区切りです。
最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。
冬は無傷では終わりませんでした。家畜が六頭、蓄えが半分、橇が一台。
――けれど、六つの集落の誰一人、いなくなりませんでした。
かつては、冬のあいだに人が減るのが当たり前だった土地です。
板に並んだ名前は、十八人から三十人あまりになりました。
最後には、誰が最初に書き始めたのかも、誰も覚えていませんでした。
カイルは辞令を受けました。ただし、三行だけ書き換えて。
起点は王都ではなくヴァレント。三月ごとに帰る。そして――辺境領の統治は、村の寄合と当番で回す。
リシェルは彼についていきます。必要だから、ではありません。
第一部で彼女が奪われたのは、「役割」でした。
そして第五部で彼女が憶えたのは、役割ではないつながり方です。
いちばん最初に要らなくなった土地で、彼女は、要ると言ってもいいことを知りました。
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