第71話:知らない、村
第五部「要る場所」、はじまります。
レンツ領を発ったリシェルが北へ向かった先は、辺境ヴァレント。
彼女がいちばん最初に、要らなくなった土地です。
北へ行くほど、風が乾いていった。
レンツの重たい空気が、日ごとに薄くなる。
道の両側から、低い田が消えた。
かわりに、痩せた丘が戻ってきた。
石の多い、赤茶けた土。
覚えのある色だった。
「……近いな」
カイルが言った。
その声が、いつもより少しだけ高かった。
私は気づかないふりをした。
「カイル」
「なんだ」
「あなた、四か月ぶりよね」
「そうだな」
「嬉しい?」
カイルはしばらく黙っていた。
「……別に」
嘘だと思った。
彼の背中は、朝からずっと、前のめりだった。
◇
ヴァレントの入り口には、石積みがある。
私が初めてここへ来た日、それは崩れていた。
馬車から降ろされて、荷物のように置かれて、私は最初にその崩れた石を見た。
一年半あまり前のことだ。
石積みは、直っていた。
直っているどころではなかった。
高くなり、幅が広くなり、上に木の柵まで載っている。
私の知らない形だった。
「――統治官様!」
声が飛んだ。
柵の上から、男が身を乗り出している。
「統治官様が帰ったぞ!」
その声が、村の内側へ転がっていった。
人が出てきた。
思っていたより、ずっと多く。
「カイル様、お帰りで」
「ずいぶん長かったねえ」
「東の畦、去年の話、あれ通しましたよ」
カイルは片手を上げて、短く応じている。
名前で呼ばれ、用件で呼び止められ、それに一つずつ返している。
この土地の統治官の顔だった。
◇
誰も、私を呼ばなかった。
それは当たり前のことだ。
私は四か月いなかった。
その前だって、私はここの人間ではない。
王都から捨てられて転がり込んだ、よその女だ。
わかっている。
わかっていて、足が止まった。
「あんた」
と、荷を担いだ女が私を見た。
知らない顔だった。
「連れの人かい」
「……はい」
私は言った。
「連れです」
女は頷いて、行ってしまった。
連れ。
私はその言葉を、口の中で一度転がした。
悪くない響きだと思った。
思おうとした。
◇
村の中を歩いた。
家が増えていた。
道の幅が広がっていた。
井戸の周りに石が敷かれ、桶を置く台ができていた。
私が作らなかったものばかりだ。
顔見知りとすれ違った。
水番の老人だった。
私を見て、目を細めて、それから思い出したように会釈した。
「……ああ」
老人は言った。
「あんた、いたねえ」
「……はい」
私は言った。
「いました」
「そうかそうか」
老人は頷いて、そのまま行ってしまった。
いたねえ。
その言い方があまりに正確で、私は少し笑ってしまった。
詰所の壁に、板が打ってある。
字が彫ってある。
読んだ。
――上の三軒、雪解けまで北の水を使わぬこと。
――冬の見回りは二人。一人で行かぬこと。
――決めごとは、月の初めの晩に。
私は板の前に立ったまま、しばらく動けなかった。
「どうした」
カイルが戻ってきていた。
「……知らない決まりだと思って」
私は言った。
「私、こんなの、教えてない」
「だろうな」
カイルはあっさり言った。
「お前がいなくなってから、この村は四か月生きてる」
そのとおりだった。
何一つ、おかしいことは言われていない。
◇
子どもが走ってきて、私の前で急に止まった。
六つか、七つ。
まったく見覚えがない。
子どものほうも、私を下から上まで見た。
「だれ?」
と、その子は言った。
「……お客さん?」
私は答えようとして、少し詰まった。
なんと言えばいいのか、わからなかった。
水を引いた人です、とは言えない。
言ってはいけない。
それは四か月前に、レンツで捨ててきた名乗り方だ。
「うん」
私は言った。
「お客さん」
「どっから来たの」
「南から」
「ふうん」
子どもは少し考えて、言った。
「南って、あったかい?」
「あったかかった」
私は言った。
「ここより、ずっと」
子どもは満足したらしく、走っていった。
私は自分がうまく笑えていることを確かめた。
嬉しいはずだった。
私が要らなくなった村。
私の名前を知らない子ども。
私が四つの土地で作ろうとして、ようやくレンツで届いたもの。
それが、ここにはもう、当たり前にあった。
◇
昼を過ぎたころ、カイルが私を探しに来た。
「どこ行ってた」
「歩いてた」
「そうか」
彼は少しのあいだ、私の顔を見ていた。
「顔色が悪い」
「そう? そんなことないと思うけど」
「疲れたんだろ」
カイルは言った。
「四か月、歩き通しだ」
「……そうね」
私は頷いた。
疲れた、ということにしておいた。
◇
夕方、私は一人で村の西へ出た。
用があったわけではない。
歩く場所が、そこしか思いつかなかった。
水路の音がした。
私はその音のほうへ曲がった。
――そして、足を止めた。
水が、逆に流れていた。
私が引いた向きの、逆に。
西の丘から東の畑へ落とすはずの水が、東から西へ、ゆっくりと動いている。
目を疑って、二度見た。
見間違いではなかった。
水路そのものが、掘り直されていた。
石の組み方も違う。
底が浅く、幅が広い。
私の設計ではなかった。
私は水路の縁にしゃがみこんだ。
指先を水に入れた。
冷たかった。
秋の水にしては、冷たすぎるほどに。
「……これ」
私は誰にともなく言った。
「誰が、変えたの」
第五部が始まりました。
第四部の最後で、リシェルは「北へ帰りたい」と言いました。
自分がいちばん最初に要らなくなった場所、辺境ヴァレントへ。
やり方はもう、めちゃくちゃに直されているだろう。それを見に行きたい、と。
そのとおりでした。
石積みは高くなり、知らない決まりが板に彫られ、子どもは彼女を「お客さん」と呼びます。
そして水路は、彼女が引いた向きと、逆に流れていました。
望んだとおりの村です。
望んだとおりのはずの村で、リシェルは、なぜか足を止めています。




