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「お前など不要だ」と婚約破棄されたので、国を出ました ~私が抜けた途端に王都が壊れ始めても、もう知りません~  作者: 水無月カレン


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第70話:名も、不要

第四部「名も、不要」、最終話。

「私は、不要になるために来た」――エスタでそう言ったリシェルに、

まだ、手放していないものが、一つ、残っていました。

 水が引くのに、四日かかった。


 ◇


 村は忙しかった。


 泥を掻き出し。


 橋を架け直し。


 流れた田の東の三軒に、どこの村が何を出すかを寄合で決めていた。


 議論は荒れた。


 声も上がった。


 誰も三つの教えを持ち出さなかった。


 ◇


「種は、上の村が出すよ」


 寄合の板の間で、マルタがそう言った。


「そのかわり、来年の北の見張りは下も半分持つ」


「秋の稗はどうする」


「東の三軒に先に回す。うちらは去年の蓄えがある」


「じゃあ、来年逆になったら」


「そんときは、そっちが出しな」


 笑いが起きた。


 泥の匂いのする笑いだった。


 私は隅でそれを聞いていた。


 誰も私のほうを見なかった。


 それが、どうしようもなく嬉しかった。


 ◇


 フィーナは水が引いたその日から、村を回っていた。


 上の村へ。


 下の村へ。


 東の三軒へ。


 そしてどの村でも、同じことを言った。


 私は一度だけ、その場に居合わせた。


 ◇


 村の井戸端だった。


 子どもたちがいた。


 あの三つを唱えていた子たちだった。


 フィーナはその前にしゃがんで、まっすぐに目を見て言った。


「みんな。……前に私が教えた、三つの決まりを覚えてる?」


 子どもたちが頷いた。


 自信ありげに。


 誰かが唱えようと口を開いた。


「――もう」


 フィーナは言った。


「唱えなくて、いいの」


 子どもたちがきょとん、とした。


「あれは」


 彼女は言った。


「リシェル様の教えでは、ありませんでした」


 彼女の声はもう震えていなかった。


「あれは。……私が。この村を早くまとめたくて。……私が楽をするために。三つにまとめたものです」


 子どもの一人が聞いた。


「じゃあ、まちがい?」


「ううん」


 フィーナは首を振った。


「まちがいじゃない。……この一年、みんなを助けてくれた。……でも、あれは“覚えるもの”じゃなかったの」


 彼女は言った。


「これからは。……川を見て。それからみんなで決めて。……その決めたことを書いておきましょう。この村の決まりとして」


「なんて名前にするの」


 子どもが聞いた。


 フィーナは少しだけ考えて、それから笑った。


「……名前は、要らない」


 彼女は言った。


「うちらのやり方、でいい」


 ◇


 私は井戸端の陰でそれを聞いていた。


 ――うちらの、やり方。


 誰の名前も付いていない。


 辺境の水の魔女も。


 繋ぐ人のフィーナも。


 どこにもいない。


 ただこの土地の人が。


 この土地の川と付き合っていくための。


 名前のない決まりごと。


 それは。


 私がいちばん最初に、辺境の村で作りたかったものだった。


 そして。


 私が名前を持ってしまったせいで、いちばん遠ざかっていたものだった。


 ◇


 発つ日はよく晴れていた。


 村の外れまで、何人かが送りに来た。


 マルタが。


 ヨナが。


 東の三軒の女たちが。


 誰も膝をつかなかった。


 誰も「行かないでください」と言わなかった。


「あんた」


 マルタが言った。


「また来るのかい」


「たぶん」


 私は言った。


「でも、来なくてもいいようになると思います」


「なんだい、それ」


 マルタが笑った。


「せっかく顔を覚えたのに」


 私も笑った。


 ◇


 最後に。


 フィーナが少し離れたところに立っていた。


 私はそちらへ歩いた。


「……リシェル様」


 彼女は言った。


 その呼び方に、もうあの閉じた円の響きはなかった。


 ただ、人が人を呼ぶ呼び方だった。


「一つだけ。……お願いがあります」


「なんでしょう」


「私に。……何か、言葉をください」


 フィーナは言った。


「実は。……先月、辺境から手紙が来たんです。セレナ様、という方から」


 私は思わず彼女を見た。


「各地に出ている者に、声をかけていらっしゃるそうです。……集まって話をしよう、と。私もいずれ、別の土地へ行くことになると思います」


 フィーナは言った。


「そのときに。……持っていく言葉を」


 私はその頼みに、思わず笑ってしまった。


「フィーナさん」


 私は言った。


「それは、いちばん渡してはいけないものです」


 彼女は困った顔をして。


 それから。


 自分でも気づいたように、少しだけ笑った。


「……そうでした」


「一つだけ言うなら」


 私は言った。


「あなたは。……私の言葉を、覚えなくていい」


 私は彼女を見た。


「あなたの言葉で、間違えてください」


 フィーナの目が揺れた。


「間違えたら」


 私は続けた。


「その土地の人が直してくれます。……直してもらえる人になってください。……“あの方がそう言った”では、誰も直せない」


 彼女は長いこと黙っていた。


 それから深く頭を下げた。


 弟子が師にする下げ方ではなかった。


 水番が水番にするような。


 同じ仕事をする者どうしの下げ方だった。


 ◇


 馬車は北へ向かった。


 街道の両側に、泥の乾いた田が続いていた。


 東の二十枚は流れたままだ。


 来年また植えるのだろう。


 私がいなくても。


「……で」


 カイルが御者台から聞いた。


「次は、どこだ」


 私はしばらく答えなかった。


 風が馬車の幌を鳴らしていた。


「ねえ、カイル」


 私は言った。


「私、ずっと。……“いなくなること”ばかり考えてた」


「知ってる」


「でも、足りなかった」


 私は言った。


「いなくなっても。……名前が残る。名前が残ると、その土地のいちばん上に私が居座り続ける。……私が死んだあとでも」


 私は幌の外を見た。


「本当に不要になるっていうのは」


 私は言った。


「名前まで要らなくなることだった」


 カイルはしばらく黙っていた。


 それから言った。


「……で。お前は、それでいいのか」


 私はその問いに少し驚いた。


「どういうこと」


「誰にも覚えられずに終わるってことだ」


 カイルは前を向いたまま言った。


「お前がやったことは全部、その土地のやり方になる。“うちらのやり方”になる。……誰もお前の名を言わなくなる。……それは」


 彼は少し言葉を探した。


「……寂しくないのか」


 ◇


 私はその問いを、胸の中でゆっくりと転がした。


 寂しくない、と言えば嘘になる。


 私はあの村で四日、誰にも呼ばれずに泥を運んだ。


 嬉しかった。


 同時に。


 少しだけ、空っぽだった。


 「私は、不要でいい」


 そう言い続けるということは。


 自分の居場所を、自分で消していくということだ。


 ――それでも平気だと、私はずっと思っていた。


 平気なふりをしていた。


「……カイル」


 私は言った。


「一つ、頼みがあるの」


「なんだ」


「あなたは」


 私は言った。


「私の名前を。……忘れないでいてくれる?」


 カイルの手が、手綱の上で止まった。


「……どの土地でも、私は要らなくなる。それでいいの。それが私の仕事だから」


 私は言った。


 声が少しだけ掠れた。


「でも。……全部の場所で要らなくなったら。私はどこにもいなくなる」


 風が吹いた。


「だから。……一つだけ。私が要る場所が欲しい」


 私は言った。


「……私には、あなたが必要なの」


 ◇


 長い沈黙があった。


 馬が蹄を鳴らしていた。


 カイルは前を向いたまま、やがて言った。


「……当たり前だろう」


 短い言葉だった。


「一生付き合う、と言った。……お前が要らなくなる場所を増やすなら。俺は、お前が要る場所を一つ持っておく。それだけの話だ」


 私は何も言えなかった。


 カイルの耳は、やっぱり赤くなっていた。


 私は笑って、それから彼の隣に座り直した。


 ◇


「……で」


 カイルが咳払いをして言った。


「行き先は」


「北へ」


 私は言った。


「一度、帰りたいの」


「どこへ」


「ヴァレント」


 私は言った。


 自分の口からその名前が出たとき、胸の奥が温かくなった。


「私がいちばん最初に、要らなくなった場所」


 私は言った。


「セレナがいる。トマスがいる。ハンナ婆さんの孫が水番をしてる。……たぶん、私のやり方はもう、めちゃくちゃに直されてる」


 私は笑った。


「……それを、見に行きたい」


 カイルは頷いて、馬の腹を軽く蹴った。


 ◇


 街道が北へ伸びていく。


 かつて私は、一つの言葉にすべてを奪われた。


 ――お前など、不要だ。


 あの夜、それは呪いだった。


 やがてそれは、私が自分で選ぶ祝福になった。


 ――私は、不要になるために来た。


 そしていま。


 私はもう一つ手放した。


 私の名前を。


 水は流れる。


 畑は実る。


 人は笑う。


 そのどこにも、私の名前は要らない。


 ――誰も私を覚えていなくても。


 ――どの土地も私の名を呼ばなくても。


 水が流れているなら。


 それでいい。


 それが、いちばん遠くまで届くやり方だった。


 ◇


 馬車は進む。


 北へ。


 私を必要としなくなった土地を、いくつも越えて。


 私を待っている、一つの村へ。


 風はどこまでも自由に流れていた。


 もう。


 誰の名前も、背負わずに。

第四部「名も、不要」、これで一区切りです。

最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。


フィーナは村々を回り、自分の口で三つの教えを取り消しました。

かわりに残ったのは、名前のない決まりごと――「うちらのやり方」。

それは、リシェルが辺境でいちばん最初に作りたかったもので、彼女が名前を持ってしまったせいで、いちばん遠ざかっていたものでした。


「本当に不要になるというのは、名前まで要らなくなることだった」


そして、すべての土地で要らなくなろうとする人は、どこにもいなくなってしまう。

だからリシェルは、生まれて初めて「必要だ」と口にします。――一つだけ、自分が要る場所を持つために。


馬車は北へ向かいます。彼女がいちばん最初に要らなくなった場所、辺境ヴァレントへ。

やり方はもう、めちゃくちゃに直されているでしょう。それを見に行くために。


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