↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
「お前など不要だ」と婚約破棄されたので、国を出ました ~私が抜けた途端に王都が壊れ始めても、もう知りません~  作者: 水無月カレン


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
69/70

第69話:うちらなら

 その夜がいちばん長かった。


 ◇


 雨は夜半から強くなった。


 村の篝火がいくつも焚かれた。


 濡れた薪はよく燃えず、煙ばかりが雨に押し潰されて低く這っていた。


 人が集まった。


 上の村からも。


 下の村からも。


 去年まで憎み合っていた両方の村が、同じ雨の中に立っていた。


 ――それだけは。


 フィーナがこの一年で作ったものだ。


 誰にも壊せない。


 ◇


「聞いてください」


 そのまんなかで、フィーナが声を上げた。


 濡れた髪が頬に貼りついていた。


 顔は蒼白だった。


 彼女がいつ、私を本物だと信じたのかは分からない。


 たぶん、信じたのではない。


 川を、見たのだ。


「今夜は」


 彼女は言った。


「――リシェル様の教えを。忘れてください」


 ◇


 村がしん、となった。


 雨の音だけが残った。


「フィーナ、さん」


 誰かが言った。


「……何を」


「三つの教えを」


 フィーナは繰り返した。


 声が震えていた。


 それでも彼女は顔を上げていた。


「私がこの村に持ち込んだ、あの三つを。……今夜だけは忘れてください」


 彼女は言った。


「あれは辺境の水の話です。エスタの旱魃の話です。……ここの話じゃない」


 誰かが息を呑む音がした。


「私は」


 フィーナは言った。


「この一年、間違えていました」


 ◇


「――違います」


 私は思わず口を開いた。


 言うつもりはなかった。


 けれど、言わずにはいられなかった。


「あなたがこの一年で作ったものは、間違いではありません」


 私は言った。


「上の村と下の村が、いま同じ火の前に立っている。……それを作ったのはあなたです。それは、どんな教えより、この土地の財産です」


 フィーナが私を見た。


「間違えたのは」


 私は言った。


「あなたが私の名前を使わないと、話を聞いてもらえなかったこと。……それはあなたの罪ではありません。私の罪です」


 雨が私たちを叩いていた。


「だから」


 私は言った。


「今夜は。……私の名前だけを捨ててください。あなたが作ったものは、捨てないで」


 フィーナの目から、雨とは違うものが落ちた。


 彼女は一度だけ、深く頷いた。


 ◇


「――で」


 マルタが腕を組んで言った。


「捨てたとして。あたしらは今夜、どうするんだい」


 全員が黙った。


 それは当たり前のことだった。


 この一年。


 この村は、迷ったときは教えを開けばよかった。


 その本がいま、閉じられた。


 ――そして。


 人々の目がまた、私に向いた。


 私は首を振った。


「私は答えを持っていません」


 私は言った。


「そのかわり。……問いを置きます」


 私は雨の中で言った。


「北の丘を回り込んで来る水は、今夜どこへ行きますか」


 ◇


 誰も答えなかった。


 三十を数えるほど、誰も。


 それから。


 マルタが口を開いた。


「……東だ」


 彼女は言った。


「北から来た水は、必ず東へ下る。地面がそっちへ傾いてるからね。……十年前もそうだった」


「東の沼は」


 年寄りが言った。


「もう田だ。畦があって、水が入りにくい」


「畦を切れば、いい」


 若い衆の一人が言った。


 自分で言って、自分で驚いた顔をしていた。


「……いや、でも。稲が」


「稲は駄目だよ」


 ヨナが言った。


「三日前から根が水に浸かってる。……もう、たぶん駄目だ」


「本当かい」


「見てくる」


 少年はそう言って走り出し、マルタに襟を掴まれた。


「一人で行くんじゃない。……三人つけな」


 ◇


 そこから先は早かった。


 誰も、私に聞かなかった。


「じゃあ、東の畦を切る」


「切るなら上のほうから順にだ。いっぺんに切ったら、下の三軒が浸かる」


「三軒は先に上げるよ。うちの納屋に入れな」


「北の見張りが足りない。上の村から五人回してくれ」


「五人も出せるかい。……いや、出そう。うちは今夜、水門を二つ閉めて置く」


 ――閉める。


 私は聞いていた。


 水門を閉めるというのは。


 三つの教えでは、誰かが水を独り占めすることだ。


 禁じられたことだ。


 けれど。


 いまそれを言い出したのは、上の村の男だった。


 自分の水を止めて、下へ行く水を増やすためだった。


 教えは今夜、この村になかった。


 そのかわりに。


 この土地の人が。


 この土地の川を見て。


 自分たちの頭で決めていた。


 ◇


 私は泥の中で土嚢を運んでいた。


 誰かが私を押しのけて走っていった。


 誰も私を見ていなかった。


 「リシェル様」と呼ぶ声もしなかった。


 ただ。


 一度だけ。


 ヨナが私の隣にしゃがんで、息を切らしながら聞いた。


「なあ。……こういうときってさ。おれたち、正しいの」


 私は少年の泥だらけの顔を見た。


「分からない」


 私は言った。


「でも。……あなたたちが決めたことなら。間違えても、次に直せる」


 ヨナは少し考えて。


「ふうん」


 と、言った。


 それからまた走っていった。


 土嚢の列の向こうにカイルがいた。


 黙って泥を積んでいた。


 誰にも指図をしていなかった。


 一度だけ、目が合った。


 それだけだった。


 ◇


 夜明け前。


 東の畦が切られた。


 水は黒い舌のように田を渡り、昔の川筋へ落ちていった。


 稲が倒れ、沈んだ。


 東の三軒の家族は、高いところでそれを黙って見ていた。


 誰も泣かなかった。


 誰も罵らなかった。


 ◇


 北の丘から水が来たのは、その半刻後だった。


 マルタの言ったとおり。


 水は村の背中から来た。


 そして。


 開けられた東の口へ、吸い込まれるように流れていった。


 上手の溜め池は持たなかった。


 夜明けに堤の一角が崩れ、水が下の水路へなだれ込んだ。


 だが。


 その水路の水は。


 前の晩に上の村の男が水門を閉めた分だけ、空いていた。


 ◇


 朝。


 雨が細くなった。


 村は泥だらけだった。


 田は、東の二十ほどが流れた。


 橋が一つ落ちた。


 納屋が二つ傾いた。


 ――けれど。


 家は残っていた。


 人も残っていた。


 誰も流されなかった。


 ◇


 水が引き始めた東の田の際で、フィーナが膝をついていた。


 泥の中に両手をついて。


 私はその隣に立った。


 彼女は顔を上げた。


 泥と雨と涙で、ぐしゃぐしゃの顔で。


「……あなたは」


 彼女は言った。


 息が続かない声で。


「あなたは今夜、一度も。……“こうしろ”とおっしゃらなかった」


「ええ」


「なぜ」


 私は東の田を見た。


 流れた稲を。


 その向こうの、残った村を。


「あなたたちが」


 私は言った。


「越えたからです」

その夜、フィーナは自分の手で言いました。「今夜は、リシェル様の教えを、忘れてください」

伝道者が、自分の広めた偶像を壊す側に回った夜でした。


けれど教えを閉じたあと、人々の目はまたリシェルに向きます。

彼女は答えを持ちませんでした。かわりに問いを置きます。

「北の丘を回り込んで来る水は、今夜、どこへ行きますか」


答えたのは村でした。三十年ここに住むマルタが。毎朝川を見ていたヨナが。

そして上の村の男が、自分の水門を閉めて、下へ行く水を空けました。――教えでは禁じられていたことを。


田は二十、流れました。橋も落ちました。

けれど誰も流されませんでした。越えたのは、この土地の人たちでした。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。