第69話:うちらなら
その夜がいちばん長かった。
◇
雨は夜半から強くなった。
村の篝火がいくつも焚かれた。
濡れた薪はよく燃えず、煙ばかりが雨に押し潰されて低く這っていた。
人が集まった。
上の村からも。
下の村からも。
去年まで憎み合っていた両方の村が、同じ雨の中に立っていた。
――それだけは。
フィーナがこの一年で作ったものだ。
誰にも壊せない。
◇
「聞いてください」
そのまんなかで、フィーナが声を上げた。
濡れた髪が頬に貼りついていた。
顔は蒼白だった。
彼女がいつ、私を本物だと信じたのかは分からない。
たぶん、信じたのではない。
川を、見たのだ。
「今夜は」
彼女は言った。
「――リシェル様の教えを。忘れてください」
◇
村がしん、となった。
雨の音だけが残った。
「フィーナ、さん」
誰かが言った。
「……何を」
「三つの教えを」
フィーナは繰り返した。
声が震えていた。
それでも彼女は顔を上げていた。
「私がこの村に持ち込んだ、あの三つを。……今夜だけは忘れてください」
彼女は言った。
「あれは辺境の水の話です。エスタの旱魃の話です。……ここの話じゃない」
誰かが息を呑む音がした。
「私は」
フィーナは言った。
「この一年、間違えていました」
◇
「――違います」
私は思わず口を開いた。
言うつもりはなかった。
けれど、言わずにはいられなかった。
「あなたがこの一年で作ったものは、間違いではありません」
私は言った。
「上の村と下の村が、いま同じ火の前に立っている。……それを作ったのはあなたです。それは、どんな教えより、この土地の財産です」
フィーナが私を見た。
「間違えたのは」
私は言った。
「あなたが私の名前を使わないと、話を聞いてもらえなかったこと。……それはあなたの罪ではありません。私の罪です」
雨が私たちを叩いていた。
「だから」
私は言った。
「今夜は。……私の名前だけを捨ててください。あなたが作ったものは、捨てないで」
フィーナの目から、雨とは違うものが落ちた。
彼女は一度だけ、深く頷いた。
◇
「――で」
マルタが腕を組んで言った。
「捨てたとして。あたしらは今夜、どうするんだい」
全員が黙った。
それは当たり前のことだった。
この一年。
この村は、迷ったときは教えを開けばよかった。
その本がいま、閉じられた。
――そして。
人々の目がまた、私に向いた。
私は首を振った。
「私は答えを持っていません」
私は言った。
「そのかわり。……問いを置きます」
私は雨の中で言った。
「北の丘を回り込んで来る水は、今夜どこへ行きますか」
◇
誰も答えなかった。
三十を数えるほど、誰も。
それから。
マルタが口を開いた。
「……東だ」
彼女は言った。
「北から来た水は、必ず東へ下る。地面がそっちへ傾いてるからね。……十年前もそうだった」
「東の沼は」
年寄りが言った。
「もう田だ。畦があって、水が入りにくい」
「畦を切れば、いい」
若い衆の一人が言った。
自分で言って、自分で驚いた顔をしていた。
「……いや、でも。稲が」
「稲は駄目だよ」
ヨナが言った。
「三日前から根が水に浸かってる。……もう、たぶん駄目だ」
「本当かい」
「見てくる」
少年はそう言って走り出し、マルタに襟を掴まれた。
「一人で行くんじゃない。……三人つけな」
◇
そこから先は早かった。
誰も、私に聞かなかった。
「じゃあ、東の畦を切る」
「切るなら上のほうから順にだ。いっぺんに切ったら、下の三軒が浸かる」
「三軒は先に上げるよ。うちの納屋に入れな」
「北の見張りが足りない。上の村から五人回してくれ」
「五人も出せるかい。……いや、出そう。うちは今夜、水門を二つ閉めて置く」
――閉める。
私は聞いていた。
水門を閉めるというのは。
三つの教えでは、誰かが水を独り占めすることだ。
禁じられたことだ。
けれど。
いまそれを言い出したのは、上の村の男だった。
自分の水を止めて、下へ行く水を増やすためだった。
教えは今夜、この村になかった。
そのかわりに。
この土地の人が。
この土地の川を見て。
自分たちの頭で決めていた。
◇
私は泥の中で土嚢を運んでいた。
誰かが私を押しのけて走っていった。
誰も私を見ていなかった。
「リシェル様」と呼ぶ声もしなかった。
ただ。
一度だけ。
ヨナが私の隣にしゃがんで、息を切らしながら聞いた。
「なあ。……こういうときってさ。おれたち、正しいの」
私は少年の泥だらけの顔を見た。
「分からない」
私は言った。
「でも。……あなたたちが決めたことなら。間違えても、次に直せる」
ヨナは少し考えて。
「ふうん」
と、言った。
それからまた走っていった。
土嚢の列の向こうにカイルがいた。
黙って泥を積んでいた。
誰にも指図をしていなかった。
一度だけ、目が合った。
それだけだった。
◇
夜明け前。
東の畦が切られた。
水は黒い舌のように田を渡り、昔の川筋へ落ちていった。
稲が倒れ、沈んだ。
東の三軒の家族は、高いところでそれを黙って見ていた。
誰も泣かなかった。
誰も罵らなかった。
◇
北の丘から水が来たのは、その半刻後だった。
マルタの言ったとおり。
水は村の背中から来た。
そして。
開けられた東の口へ、吸い込まれるように流れていった。
上手の溜め池は持たなかった。
夜明けに堤の一角が崩れ、水が下の水路へなだれ込んだ。
だが。
その水路の水は。
前の晩に上の村の男が水門を閉めた分だけ、空いていた。
◇
朝。
雨が細くなった。
村は泥だらけだった。
田は、東の二十ほどが流れた。
橋が一つ落ちた。
納屋が二つ傾いた。
――けれど。
家は残っていた。
人も残っていた。
誰も流されなかった。
◇
水が引き始めた東の田の際で、フィーナが膝をついていた。
泥の中に両手をついて。
私はその隣に立った。
彼女は顔を上げた。
泥と雨と涙で、ぐしゃぐしゃの顔で。
「……あなたは」
彼女は言った。
息が続かない声で。
「あなたは今夜、一度も。……“こうしろ”とおっしゃらなかった」
「ええ」
「なぜ」
私は東の田を見た。
流れた稲を。
その向こうの、残った村を。
「あなたたちが」
私は言った。
「越えたからです」
その夜、フィーナは自分の手で言いました。「今夜は、リシェル様の教えを、忘れてください」
伝道者が、自分の広めた偶像を壊す側に回った夜でした。
けれど教えを閉じたあと、人々の目はまたリシェルに向きます。
彼女は答えを持ちませんでした。かわりに問いを置きます。
「北の丘を回り込んで来る水は、今夜、どこへ行きますか」
答えたのは村でした。三十年ここに住むマルタが。毎朝川を見ていたヨナが。
そして上の村の男が、自分の水門を閉めて、下へ行く水を空けました。――教えでは禁じられていたことを。
田は二十、流れました。橋も落ちました。
けれど誰も流されませんでした。越えたのは、この土地の人たちでした。




