第68話:溢れる
第四部・第三章「名も、不要」。
雨は三日、止みませんでした。
涸れる土地のために作られた手順が、溢れる川の前で、裏目に回り始めます。
三日、降った。
雨は強くも弱くもならなかった。
ただ。
止まなかった。
◇
三日目の朝。
ラウ川は昨日の岸を飲んでいた。
水は茶色く。
渦を巻き。
川ではない速さで流れていた。
村の鐘が鳴った。
人が走り出す。
私は雨具を被って、その流れに混ざった。
カイルもいた。
誰にも指図をしなかった。
村の男に混じって、土嚢を積んでいた。
◇
村は動いていた。
ちゃんと動いていた。
当番の割り振りがあった。
どの組がどの水門を見るか。
誰も慌てていなかった。
この一年で、フィーナが変えた村だ。
――それでも。
私は水門の一つ一つを見ながら、背中の冷たさが濃くなっていくのを感じていた。
人が散っている。
村の決まりでは、水門はすべて平等に見張ることになっていた。
“水は、ひとりが持たない”。
だから、どの村のどの水門にも、同じ数の人が立つ。
公平だった。
揉め事は起きない。
――けれど。
大水は公平には来ない。
いま危ないのは、上手の溜め池と、その下の細い水路だけだ。
なのにそこにも。
遠くの安全な水門にも。
同じ数の人が立っていた。
◇
「――池が、持たない」
男が走ってきて叫んだ。
「堤の内側から、水が噴いてる!」
村の寄合が開かれた。
立ったまま。
雨の中で。
「水位を下げる」
「どこへ落とすんだ」
「下の水路だ」
「駄目だ、下の村がいま、いちばん水を被ってる」
声が飛び交った。
誰も間違ったことは言っていなかった。
みんな必死だった。
――そして。
そのまんなかで。
誰かが私の名を呼んだ。
「リシェル様!」
◇
全員の顔がこちらを向いた。
昨日まで私を追い出そうとした若い衆も。
膝をつこうとした年寄りも。
みんな同じ目をしていた。
――教えてください。
――どうすればいいのですか。
私はその目を知っていた。
エスタで見た目だ。
辺境で見た目だ。
私がいちばん嫌いな目だった。
――力で、どうにかできる水では、なかった。
エスタの旱魃は、涸れかけた池の水を動かすだけでよかった。
けれど、これは。
国のまんなかを流れる大河だ。
私が全部を使って倒れたところで、指の先ほども向きは変わらない。
だから私が持っているのは、力ではなかった。
答えだった。
この三日、川を歩いて。
水の色を見て。
どこがいちばん先に抜けるかも。
どこへ逃がせば村が残るかも。
だいたい見当がついていた。
言えば。
この村は助かるかもしれない。
◇
――言えば。
私は口を開きかけて、止まった。
言えば。
この村は。
「リシェル様があのとき、こうしろと言った」
を。
次の百年の教えにする。
三つの教えが四つになるだけだ。
私がこの場で正しい答えを出せば、出すほど。
この村は自分の川を、自分の目で見なくなる。
――だが。
いま目の前で、池の堤から水が噴いている。
子どもがいる。
年寄りがいる。
マルタの亭主は、十年前の大水で流された。
私の口の中がからからに乾いた。
――出さないほうが難しい。
エスタで私はそう思った。
旱魃の田を前にして、力を使わずにこらえた。
あれでいちばん難しいことをやったと思っていた。
違った。
あれよりも。
もっと。
難しいことがあった。
◇
「……皆さん」
私は言った。
できるだけ静かに。
「私はこの川を、三日しか見ていません」
人々の顔が戸惑いに揺れた。
「だから答えは出せません。……代わりに一つだけ、聞かせてください」
私は言った。
「十年前の大水のとき。……水はどこから来ましたか」
◇
沈黙があった。
雨の音だけがしていた。
それから。
マルタがゆっくりと口を開いた。
「……上から、来た」
彼女は言った。
「北の丘を回り込んで。……あたしらが下ばかり見てるあいだに、後ろから来た」
「そのとき」
私は聞いた。
「水はどこへ抜けましたか」
マルタの目が見開かれた。
「……東の沼」
彼女は言った。
「昔の川筋だ。……あそこへ落ちて、それで村は残った」
村の年寄りが、あっ、という顔をした。
「あそこはいま」
誰かが言った。
「……田に、してる」
◇
「駄目だ」
若い男が言った。
「あそこの稲はもう穂が出てる。あれを流したら、東の三軒は今年、食えなくなる」
「じゃあ、村ごと流されるかい」
マルタが言い返した。
「まだ決まっちゃいない」
「決まってから、じゃ遅いんだよ!」
声が荒れた。
私は何も言わずに、それを聞いていた。
言いたいことがあった。
喉まで来ていた。
――東の沼へ落としてください。
――稲は諦めてください。
――そのかわり、三軒の来年の種は村で持ってください。
全部。
言葉になって、口の中にあった。
私は奥歯を噛んだ。
◇
そのとき。
人垣の後ろから、小さな声がした。
「……あの」
ヨナだった。
誰も聞いていなかった。
「あのさ」
少年はもう一度言った。
声が裏返った。
「東の沼のとこ。……三日前から、田の際がじくじくしてる」
何人かが振り向いた。
「おれ、毎朝見てる。あそこ、もう下から水が来てる。……あの田は、たぶん放っといても駄目だ」
誰かが笑おうとした。
「子どもが、何を」
「――待ちな」
マルタがその男を止めた。
「ヨナ。あんた、毎朝見てるのかい」
「見てる」
ヨナは言った。
「水番の当番じゃない日も見てる。……だって、川、毎日ちがうし」
◇
その一言に、私は息が詰まった。
――川は、毎日ちがう。
三つの教えより、その一言のほうが千倍正しかった。
そしてそれを言ったのは。
辺境から来た伝道者でも。
旅の水の魔女でもなく。
この土地で毎朝川を見ている、十四の子どもだった。
◇
人々がざわめく中で、私は一人だけ動かない人を見ていた。
フィーナだった。
彼女は雨の中に立って、ヨナを見ていた。
そして。
その視線をゆっくりと、東の沼のほうへ向けた。
彼女の唇が微かに動いた。
声にはならなかった。
けれど。
私には読み取れてしまった。
――この川は。
――エスタの川では、ない。
雨は三日、止みませんでした。
村はきちんと動いています。当番も、割り振りも、公平です。
けれど大水は公平には来ません。危ないのは上手の池だけなのに、遠くの安全な水門にも同じ数の人が立っている。「水はひとりが持たない」という教えのとおりに。
そして人々はリシェルの名を呼びます。「どうすればいいのですか」
彼女には答えが見えていました。言えば村は助かるかもしれない。けれど言えば、三つの教えが四つになるだけです。
エスタでは「手を出さない」ことがいちばん難しいと思っていました。
それより難しいことが、ありました。
代わりに彼女は問いました。「十年前の大水のとき、水はどこから来ましたか」
そして答えたのは――毎朝ひとりで川を見ていた、十四歳のヨナでした。




