第67話:私の名を、壊しなさい
その日の昼。
私は村へ戻った。
マルタが寄合の鐘を鳴らしてくれた。
小屋には昨日より多くの人が集まった。
私を追い出した若い衆もいた。
フィーナもいた。
私は板の間のまんなかに立った。
◇
「まず」
私は言った。
「昨日、名乗らなかったことを。……お詫びします」
村の人たちが顔を見合わせた。
「私の名前は」
私は息を吸った。
この一言を。
どう言うかで、すべてが決まる。
「リシェル・アークライト、です」
◇
小屋が静まり返った。
誰も声を出さなかった。
やがて。
村の年寄りの一人がふらふらと立ち上がり。
私の前に膝をつこうとした。
「――やめてください」
私は鋭く言った。
自分でも驚くほど鋭い声だった。
「膝をつかないでください。……お願いします」
年寄りは戸惑って、腰を浮かせたまま止まった。
「私は」
私は村の全員を見回した。
「証を立てるものを持っていません。杖も、印も、書き付けもありません。……ですから、信じなくても構いません」
私は続けた。
「その代わりに。……これから私が言うことを、聞いてください」
私はフィーナを見た。
彼女は蒼白な顔で私を見ていた。
「あなたたちが守っている、三つの教え。……あれを言ったのは私です」
私は言った。
「そして私は。……いま、この場で、あの三つを否定します」
◇
ざわめきが小屋を揺らした。
「――ひとつ。“水は、ひとりが持たない”」
私は指を一本立てた。
「これは辺境の話です。あそこは水が少なく、一人の村長が水路の鍵を握っていました。だから私はそう言いました」
二本目。
「――ふたつ。“答えを渡さない。問いを渡す”」
私は言った。
「これは弟子のトマスに言った言葉です。十六の男の子に。彼が教えるのが上手すぎて、村の人が彼に寄りかかり始めたから。……あの子に向かって言った言葉です」
三本目。
「――みっつ。“その土地のことは、その土地の者がいちばん知っている”」
私はそこで少し間を置いた。
「これはエスタの旧家の当主に頭を下げたときの言葉です。……水利を握っていた頑固な老人に。“教えてください”と言うために」
私は村の人を見た。
「三つとも。……その場の、その人に向かって言った言葉です」
声が震えないように。
ゆっくりと。
「誰かがどこかで覚えて、他の土地でそのまま使うために言った言葉では、ありません」
◇
「とくに」
私は言った。
「三つめは。……いちばん、ひどい」
フィーナの肩が動いた。
「“その土地のことは、その土地の者がいちばん知っている”。……それを、よその者が持ってきて、“こう覚えなさい”と渡した」
私は言った。
「これは、言っていることとやっていることが逆です」
誰も言い返さなかった。
マルタが腕を組んだまま、小さく頷いた。
「あなたたちの川は」
私は言った。
「私の川ではありません。私はこの川を一日しか見ていない。……あなたたちは三十年見ている」
私は頭を下げた。
深く。
「教えてください。……この川のことを」
◇
「――お待ちください」
声が上がった。
フィーナだった。
彼女は立ち上がっていた。
その顔から血の気が引いていた。
「あなたが……本当にリシェル様なら」
彼女の声は震えていた。
「なおのこと。……教えは正しいはずです」
私はその言葉に、何も言えなかった。
「あなたがおっしゃった。だから正しい。……あなたが否定なさっても。あなたがおっしゃったことの正しさは、変わりません」
フィーナは言った。
もう涙を隠さなかった。
「私はこの一年、それでやってきました。……たった一年です。でも、その一年で。上と下の水争いを止めて。橋を直して。子どもに字を教えて。……全部、“リシェル様がこうおっしゃった”でやってきたんです」
彼女は私に詰め寄った。
「それを。……その、あなたが。……いま来て。“あれは間違いだった”と」
彼女の声が途切れた。
「……それでは。私のこの一年は。……なんだったんですか」
◇
私は答えられなかった。
どんな言葉も。
この人の一年の前では、軽すぎた。
「あなたのしたことは、無駄ではない」
――そんな慰めを言えば。
私はまた、上から答えを配る人になる。
私はただ立っていた。
黙って。
彼女の言葉を受け取っていた。
◇
「……失礼します」
フィーナは頭を下げて、小屋を出ていった。
誰も追えなかった。
村の人たちは。
どうしていいか分からない顔で。
私と。
彼女の出ていった戸口を見比べていた。
私はその場に残ったままで、小さく言った。
「……池の水位だけ」
私は言った。
「下げてください。それだけお願いします。……理由は私の名前ではなく。あなたたちが三十年見てきた川で、決めてください」
マルタが顔を上げた。
◇
その夜、雨が降り始めた。
最初は細かった。
屋根を撫でるような音だった。
私は水番小屋の軒下でそれを聞いていた。
隣にカイルがいた。
傘も差さずに、軒の外を見ていた。
「壊せなかったな」
「ええ」
私は言った。
「壊すのは、私の仕事じゃなかったみたい」
カイルはそれきり何も言わなかった。
ただ、そこにいた。
夜半を過ぎても、雨は止まなかった。
朝になっても、止まなかった。
川の音が、昨日とは違う太さで闇を押していた。
リシェルは名乗りました。ただし、権威としてではなく、反証として。
「あの三つを言ったのは私です。そして私は、いま、この場で、あの三つを否定します」
三つの教えは、それぞれ、その場のその人に向けて言われた言葉でした。
とくに三つめ――「その土地のことは、その土地の者がいちばん知っている」。
それを、よそから持ってきて「こう覚えなさい」と渡す。言っていることとやっていることが逆です。
けれどフィーナは受け入れられません。
「あなたがおっしゃった。だから正しい。あなたが否定なさっても、その正しさは変わりません」
「――それでは。私のこの一年は、なんだったんですか」
その夜、雨が降り始めました。朝になっても、止みませんでした。




