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「お前など不要だ」と婚約破棄されたので、国を出ました ~私が抜けた途端に王都が壊れ始めても、もう知りません~  作者: 水無月カレン


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第66話:あなたが、去ったから

 マルタは。


 私が何かを言う前に、自分で話し始めた。


「言っとくけどね。あたしは、あんたが誰でもいいんだ」


 彼女は火に手をかざした。


「本物のリシェルでも、その辺の水番でも。……あの池が危ないってことが分かってりゃ、それでいい」


「……あなたは」


 私は聞いた。


「なぜ分かるんですか。あの池が危ないと」


「三十年、ここにいるからさ」


 マルタはあっさりと言った。


「三年前の水も見た。十年前の大水も見た。……あの年は、上の丘まで水が来たよ。あたしの亭主は、そのとき流された」


 火がはぜた。


「川ってのはね。溢れるときは、下からじゃないんだ。上から来る。……上に水を貯めるってのがどういうことか。あたしは知ってる」


 私は頷いた。


「……フィーナさんは」


「あの子は、悪い子じゃないんだよ」


 マルタは少し困ったように言った。


「あの子がこの領に流れてきたのは三年前だけどね。……最初の二年は、誰も相手にしなかったよ。よその小娘の言うことなんて」


 彼女は火に枝を足した。


「風向きが変わったのは去年さ。上と下で鍬を持って睨み合ってたのを、あの子が間に立って収めた。……夜通し走り回って、両方の話を聞いてさ。若いのに大したもんだと思ったよ」


「ええ」


 それは見れば分かった。


 あの人は。


 本物の繋ぐ人だ。


「……ただねえ」


 マルタは火を見たまま言った。


「あの子は、あの人の話をするとき。……ちょっと、目が変わるんだ」


 ◇


 次の日の夕方。


 マルタがフィーナを連れてきた。


 村の外の水番小屋。


 誰も来ない場所だった。


「話だけ、聞いてやんな」


 マルタはそれだけ言って、外へ出ていった。


 カイルも戸口で足を止めた。


 何も言わずに外へ出た。


 そこにいる、という意味だった。


 小屋の中には、私とフィーナだけが残された。


 ◇


「昨日は」


 フィーナが先に頭を下げた。


「村の者が失礼をしました。……申し訳ありません」


 私は驚いた。


 彼女は本当に頭を下げていた。


「あなたを責める権利は、私たちにはありません。あなたはこの土地を思って、言ってくださった」


「……いいえ」


「ただ」


 フィーナは顔を上げた。


「教えを変えることは、できません」


 その目には。


 昨日と同じ。


 揺るぎない光があった。


「……フィーナさん」


 私は言った。


「一つだけ聞かせてください。……もし。もしもリシェル本人がここに来て、“その三つを捨てなさい”と言ったら。あなたはどうしますか」


 フィーナは少しだけ笑った。


 困ったように。


「あの方は、そんなことをおっしゃいません」


「なぜ」


「あの方の教えだからです」


 ――閉じている。


 私は思った。


 これは。


 どこにも隙間がない。


 教えが正しいのは、リシェルが言ったから。


 リシェルが正しいのは、教えが正しいから。


 円はきれいに閉じている。


 その円の外から。


 どんな事実を持ち込んでも。


 中には入れない。


「……では」


 私は別のところから入ることにした。


「あなたが最初にこの村に来たときのことを、聞かせてください」


 ◇


 フィーナはしばらく黙ってから、ぽつり、ぽつりと話し始めた。


 生まれは辺境ヴァレントの隣の谷の、小さな村だったこと。


 水が貧しく。


 冬に人が減る村だったこと。


 ――そして。


「去年の春のころでした」


 フィーナは言った。


「故郷の谷から、便りが来たんです。……隣のヴァレントが変わった、と。水の分け方を変えて。誰も飢えなくなった。よそから来た女の人がやっている、と」


 彼女の目が、少しだけ遠くなった。


「私は谷の水番の爺様に、何度も手紙を書きました。ヴァレントのやり方を教えてください、と。……爺様の返事も、又聞きの又聞きでしたけれど」


 私は膝の上の手を握った。


「私は、リシェル様にお会いしたことがありません」


 彼女は続けた。


「一度も。……お顔も存じ上げません。……お声も知りません。私が持っているのは、谷を越えて届いた言葉だけです」


 ――ああ。


 私はようやく、いちばん大事なことに気づいた。


 この人は。


 私を知らないのだ。


 私の失敗も。


 私の迷いも。


 私が何度間違えて、何度やり方を変えたかも。


 何一つ。


 知らない。


 この人が持っているのは。


 伝え聞いた言葉、だけ。


「私がこの領に来たのは、三年前です」


 フィーナは言った。


「谷を出て。字が読めるという、それだけで拾ってもらいました。……最初の二年は、何もできませんでした」


 彼女の声が、少しだけ震えた。


「上と下は、殺し合いになる寸前でした。……止めたくて、間に入って。何度も言いました。……誰も私の言うことなんて聞きません。当たり前です。よその小娘です」


 彼女は続けた。


「……でも。去年、一つだけ。聞いてもらえる言葉が見つかりました」


 私はその先を聞きたくなかった。


「“辺境の、水の魔女様は、こうおっしゃいました”」


 フィーナは言った。


「その一言だけが。……私の持っている、たった一つの力でした」


 ◇


 火の気のない小屋の中で、風が板を鳴らしていた。


「あの方は」


 フィーナはまっすぐに私を見た。


「なぜ。……書き残してくださらなかったのでしょう」


 私は答えられなかった。


「なぜ、この土地に来てくださらなかったのでしょう。……いえ、責めてはいません。あの方はお忙しい。国を救われた方です」


 彼女は首を振った。


「ただ。……あの方が行ってしまわれたあと。私たちに残されたものは。伝え聞いた言葉だけ、でした」


 彼女の目に、初めて水が光った。


「すがるものが。……それしか、なかったんです」


 ◇


 私はその夜、一睡もできなかった。


 ――私は、不要になるために来た。


 エスタで私はそう言った。


 美しい言葉だと思っていた。


 自分でもそう信じていた。


 けれど。


 去られた側は、どうだったのだろう。


 「あの方は、行ってしまわれた」


 残された人は。


 残された言葉を握りしめるしかなかった。


 握りしめれば、言葉は硬くなる。


 硬くなった言葉は、石になる。


 その石を。


 私は。


 自分の名前で彫っていた。


 ――去るだけでは、足りなかったのだ。


 私は初めて、そのことに気がついた。


 ◇


 明け方。


 小屋の外に、子どもが一人立っていた。


 十四か、十五。


 水番の見習いらしい腰帯をしていた。


「……あんたが」


 その子は言った。


 まだ声変わりの途中の声だった。


「昨日、池のことを言った人か」


「ええ」


「おれ、ヨナ」


 少年はそう名乗って、それから川のほうを見て言った。


「今年の水はさ」


 空は。


 重く、低く垂れていた。


「……去年と、ちがう気がするんだ」

フィーナがこの領に流れてきて二年、誰も彼女の言うことを聞きませんでした。上流と下流は殺し合いの寸前。後ろ盾のない小娘の言葉は、どこにも届かない。

ただ一つだけ、聞いてもらえる言葉が見つかりました。

――「辺境の水の魔女様は、こうおっしゃいました」


「なぜ、書き残してくださらなかったのでしょう」

「あの方が行ってしまわれたあと、私たちに残されたのは、伝え聞いた言葉だけでした。すがるものが、それしか、なかったんです」


「私は不要になるために来た」――その美しい結末には、去られた側という裏側がありました。

残された言葉は、握りしめられて硬くなる。硬くなった言葉は、石になる。


そして空は低く垂れています。ヨナ少年が言います。「今年の水は、去年とちがう気がするんだ」

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