第65話:私が、置いてきたもの
第四部・第二章「名を残した罪」。
村を追われたリシェルは、川原で、自分の去り方を振り返ります。
そして、辺境のトマスから届いていた手紙を、もう一度、開きます。
朝の川原は、白く光っていた。
夜のあいだに、上流で雨が降ったらしい。
水の色が、昨日より濁っていた。
私は火の跡のそばに座って。
膝の上で一通の手紙を開いていた。
エスタを発つ前に、辺境から届いていた手紙。
トマスの字だった。
まだ少し下手な。
力の入りすぎた字。
◇
――リシェル様。
――こちらは、みんな元気です。
――ハンナ婆さんの孫が、水番をしっかりやってます。
――セレナ様が村に来られてから、人が増えました。
――遠くの領から、学びに来る人がいます。
そこまで読んで、私はいつも少しだけ笑ってしまう。
トマスは報告が下手だ。
大事なことをいちばん後ろに書く。
――ひとつ、ご報告です。
――俺の教え方が、村で変えられました。
――俺が教えた水の回し方を。
――村の爺さんたちが、勝手に直しました。
――夏のあいだだけ、順番を逆にするんだそうです。
――俺は最初、腹が立ちました。
――でも、やってみたら、そっちのほうがよかったです。
――だから、いまはそっちでやってます。
――リシェル様の教えとは、違ってしまいました。
――怒らないでください。
私は手紙を持つ手を下ろした。
――怒らないでください。
そう書いてあった。
馬鹿ね、と思う。
怒るわけがない。
それがいちばん良い形だ。
私が望んだ、いちばんの形だ。
◇
「……なあ」
カイルが火の跡に水をかけながら言った。
「その手紙の村と、昨日の村と」
「ええ」
私は頷いた。
「同じものを渡した、はずなの」
辺境では。
私のやり方は勝手に直された。
名前も付かなかった。
誰も「リシェル式」なんて呼ばない。
村の爺さんたちは。
私の教えを自分たちの都合でいじって。
いじったことを忘れて。
それを自分たちのやり方だと思っている。
――それでいい。
それが根づいた、ということだ。
なのに。
このレンツ領では。
私のやり方は直されなかった。
三つに揃えられ。
節をつけて覚えられ。
――変えてはいけないものになった。
何が。
違ったのだろう。
◇
答えは。
考えるまでもなく。
最初から分かっていた。
辺境には。
私がいた。
一年、いた。
毎日間違えて。
毎日直して。
村の人の前で、何度も失敗してみせた。
だからあの村の人は知っている。
――リシェルのやり方は、間違うことがある。
――間違ったら、変えていい。
私という人間を知っているから。
私の言葉をいじる勇気があった。
けれど。
この土地の人は。
私を知らない。
この土地に届いたのは。
私の失敗ではなく、私の結論だけ。
いちばんうまくいった話だけ。
――辺境の奇跡。
――王都を作り替えた、水の魔女。
そんな人が間違うわけがない。
そんな人の言葉を、変えていいわけがない。
「……私が」
私は言った。
「置いてきたものが、悪かったんだ」
カイルがこちらを見た。
「私はやり方を置いてきた、つもりだった。……でも、本当に置いてきたのは」
私は濁った川を見た。
「私の名前だった」
◇
「有名になりすぎたな」
カイルはそう言って、荷を馬車に積み直した。
いつもの無愛想な言い方だった。
なのに。
私の胸には、やけに深く刺さった。
「……有名っていうのは」
私は言った。
「たぶん、私の仕事にとっては。……失敗の名前なの」
いなくても回る場所を増やす。
そう言いながら。
私は行く先々で名前を置いてきた。
置いてきた名前は。
その土地で。
私の代わりに命令をし始める。
私がいちばん嫌ったもの。
――一点。
――固定。
それを。
私は自分の名前で作っていた。
◇
その夜。
川原の火に、人影が近づいてきた。
カイルが先に立ち上がった。
「……あたしだよ」
マルタだった。
肩に雨具をかけて。
手には包みを持っていた。
「食い物。……村じゃ、渡せなかったからね」
彼女は火のそばに腰を下ろした。
そして。
しばらく火を見て。
それから私を見て言った。
「あんた」
マルタは言った。
「本物だろ」
辺境ヴァレントでは、リシェルの教え方は、村の爺さんたちに勝手に直されていました。
トマスは「怒らないでください」と手紙に書きます。――怒るわけがありません。それがいちばん良い形です。
同じものを渡したはずなのに、レンツ領では直されなかった。
違いは、彼女がその土地で「間違って見せたかどうか」でした。
辺境に届いたのは、リシェルが毎日間違えて毎日直していた、その一年ぶんの姿。
レンツ領に届いたのは、彼女の結論だけ。――「辺境の奇跡」という、間違えるはずのない名前だけ。
「有名っていうのは、私の仕事にとっては、失敗の名前なの」




