第64話:お前など、不要だ
小屋の空気が。
すっと。
温度を失った。
三十ほどの目が、私に集まっている。
フィーナは驚いた顔をしなかった。
絵図から顔を上げて。
こちらを見て。
それから静かに微笑んだ。
「旅の方、ですね」
彼女は言った。
咎める響きはなかった。
「どちらから」
「……エスタから、来ました」
私は答えた。
「まあ」
フィーナの目が明るくなった。
「エスタ。……リシェル様が旱魃を越えさせた、あの」
「越えたのは」
私は言った。
「あの土地の人たちです」
「ええ。そうおっしゃると思います」
フィーナは嬉しそうに頷いた。
「リシェル様も、きっとそうおっしゃる」
――違う。
私は思った。
そう言うと思う、のではない。
本当に越えたのは、あの人たちなのだ。
けれど。
その違いをどう言えばいいのか。
私にはすぐに分からなかった。
◇
「その上で」
私は続けた。
「上手の池のことです。……この川は雨季に水が増える川だと聞きました。だとしたら、貯めるより先に、逃がす道を」
「逃がす」
フィーナが繰り返した。
初めて。
その顔から微笑が消えた。
「捨てる、ということですか。水を」
「捨てるのでは、なく」
「リシェル様は」
彼女は私の言葉を遮った。
声は荒げなかった。
ただ。
迷いがなかった。
「“水は、ひとりが持たない”とおっしゃいました。……貯めた水を、みんなで分ける。そのために、上と下が話し合う。だから、この領の百年の水争いが終わったのです」
村の人たちが、うん、うん、と頷いた。
それは本当のことだった。
この村は確かに、それで救われている。
「あなたがおっしゃっているのは」
フィーナは言った。
「元のやり方に戻す、ということです。上の者が、要らない水を下へ流す。……昔のこの土地はそうでした。だから下の村は、いつも後回しにされたのです」
私は息を呑んだ。
そのとおりだ。
彼女は私よりも、この土地の去年までを知っている。
「……失礼ですが」
フィーナは言った。
初めて、少しだけ硬い声で。
「あなたは、どこでリシェル様の教えを」
聞いた口の。
その先。
私は分かってしまった。
「……聞きかじっただけの方ですね」
彼女は静かに言った。
悪意はなかった。
本当になかった。
それが。
いちばん応えた。
◇
私は口を開こうとした。
――私がリシェル・アークライトです。
その一言で済む。
この場は収まる。
池の水位も下げさせられる。
村は雨季を越えられる。
簡単なことだった。
息を吸った。
そして。
吸ったまま。
止めた。
――待って。
私がいま名乗ったら。
どうなる。
この人たちは、私の言うことを聞くだろう。
水位を下げるだろう。
なぜなら。
私がリシェルだから。
教えの出どころだから。
……それは。
いま目の前で起きていることと、まったく同じことだ。
「リシェル様がそうおっしゃったから」
「リシェル様がいまそう言ったから」
どちらも。
この土地の人が。
この土地の川を見て決めたことではない。
私が名乗るということは。
この村のいちばん重い石を。
もっと重くすることだ。
私は。
吸った息を。
ゆっくりと。
吐いた。
何も言わなかった。
◇
沈黙を。
村の人たちは。
別の意味に受け取った。
「……おい」
誰かが言った。
「まさか、あんた。リシェル様の名を騙って」
「そんなつもりでは」
「じゃあ、なんだ」
男の声が大きくなった。
「よその者がふらっと来て、あの方の教えにけちをつけたのか」
「やめな」
マルタの声が飛んだ。
だが。
空気はもう戻らなかった。
村の若い衆が立ち上がる。
誰かの母親が、子どもを後ろへやった。
私を見る目が。
昨日までの旅人を見る目から。
変わっていた。
そして。
入口のほうで。
誰かが吐き捨てるように言った。
「――あんたなんか、要らない」
◇
その言葉を。
私は。
どこか遠くで聞いていた。
あんたなんか、要らない。
――お前など、不要だ。
あの夜。
まばゆい大広間で。
私は同じ言葉を聞いた。
あのときは。
私からすべてを奪う言葉だった。
二度目は。
私が自分で選び取った言葉だった。
私は不要になるために来たのだ、と。
そして。
三度目が。
いま。
私が教えたやり方の口から返ってきた。
――お前など、不要だ。
私が私の手で作ったものに。
私は要らないと言われている。
◇
村の外れまで、マルタが送ってきた。
彼女は途中まで何も言わなかった。
別れ際に一度だけ私を見て。
「……悪かったね」
と、言った。
それだけだった。
◇
その夜。
私たちは川原に火を焚いた。
水の音がしていた。
思っていたより太い音だった。
「……名乗れば、済んだ話だ」
カイルが言った。
枝を折って、火にくべながら。
責める口調ではなかった。
ただ事実を置くように。
「ええ」
私は答えた。
「済んだと思う」
「なら、なぜ」
私はしばらく火を見ていた。
水の音を聞いていた。
「……名乗ったら」
私は言った。
「もっと、壊れるの」
カイルは黙っていた。
「あの人たちはいま、“リシェル様がそう言ったから”で動いてる。……そこに本物のリシェルが来て、“いや、こうしろ”と言ったら」
私は膝を抱えた。
「その村は。……もう二度と、自分で考えられなくなる」
火がはぜた。
「私がいなくても回る場所を増やす。……そう言って旅をしてきた」
私は笑おうとして、うまく笑えなかった。
「私はいなくなった。ちゃんといなくなった。……なのに、私の名前だけが残って。あの村のまんなかに居座っている」
――私は去った。
――けれど、去りきれていなかった。
「……カイル」
私は言った。
「私、たぶん。……いちばん大事なところで、間違えたの」
カイルは火の向こうで少しの間黙って。
それから言った。
「じゃあ、直せ」
短い言葉だった。
「お前は、いつもそうしてきた」
私はその言葉に、うまく返せなかった。
直せるだろうか。
人の心に根を下ろした名前を。
――自分の名前を。
川の音が、夜通し太く鳴っていた。
雨季は、もうすぐそこに来ていた。
リシェルは名乗りませんでした。名乗れば、その場は収まる。村は雨季を越えられる。
けれど「リシェル様がそう言ったから」で動く村に、本物のリシェルが来て「いや、こうしろ」と言えば――その村は、二度と自分で考えなくなる。
だから彼女は黙り、そして言われます。「あんたなんか、要らない」
第一話で彼女を追放した言葉が、三度目に、彼女自身が広めたやり方の口から返ってきました。
「私は去った。けれど、去りきれていなかった」
残っていたのは、彼女の名前でした。




