第63話:教えの、通りに
次の日。
私は村を歩いた。
朝のうちから。
カイルは黙って後ろをついてきた。
こういうとき、彼は何も聞かない。
私が自分で確かめ終わるまで。
◇
見るほどに、分からなくなった。
水路の分け方は丁寧だった。
当番も公平だった。
――ただ。
水が。
貯めてあった。
村の上手に、新しく掘られた大きな溜め池。
その水を少しずつ下へ流す仕組み。
私はしばらく、その池を見ていた。
エスタで私たちが作ったものと、よく似ていた。
あちらは水が涸れる土地だった。
だから貯めた。
一滴を惜しんで分けた。
けれど。
ここは。
「……この川は」
私は言った。
「溢れる川なのに」
貯めた水は、雨が続けば行き場を失う。
しかもこの池は、村の上手にある。
もし堤が緩めば。
水は村へ下りてくる。
◇
「見りゃ、分かるかい」
声がした。
畦の向こうから、女が一人歩いてきた。
四十を少し過ぎたくらい。
肩幅の広い。
泥の跳ねた脚絆。
目つきの鋭い人だった。
「……あんた、旅の人だろ」
女は私を上から下まで見て言った。
「水路の見方が、旅の人の目じゃない」
私は少し驚いた。
「マルタ」
女はそう名乗った。
「下の村々の寄合をまとめてる。……で、あんたは」
「……水を見る仕事を、していました」
私はそう答えた。
名は言わなかった。
なぜか。
言えなかった。
マルタはふうん、と鼻を鳴らして、それから溜め池を顎で指した。
「どう、思う」
「……貯めすぎだと、思います」
私は正直に言った。
「この川は足りない川ではなくて、溢れる川です。貯めるより、逃がす道を作るほうが」
「あたしも、そう思うよ」
マルタはあっさりと言った。
そして笑わずに続けた。
「言ったさ。何度もね。……でも、駄目だった」
「なぜです」
「教えに書いてないから」
私は。
その一言を。
うまく飲み込めなかった。
「……教え」
「リシェル様の教えさ」
マルタは肩をすくめた。
「水は貯めて、分ける。ひとりが持たない。……そうやって、辺境もエスタも救われたんだと。ありがたい話だよ。実際、上と下の水争いは収まった。……ただねえ」
彼女は川のほうを見た。
「あたしらの川は。あの人の川じゃないんだけどねえ」
◇
午後。
寄合の小屋に人が集まった。
私は隅で見ていた。
そこに。
その人はいた。
若い女の人だった。
二十歳を少し過ぎたくらいだろうか。
髪を後ろで結って。
袖をまくって。
板の上に村の絵図を広げていた。
村の人が次々に問いかける。
彼女はその一つ一つに、丁寧に答えていた。
感じのいい人だった。
声を荒げない。
誰の話も途中で切らない。
人が慕うのが、よく分かった。
「フィーナ、さん」
村の男が聞いた。
「東の新しい田だがね。水が要るんだ。当番を増やしちゃ、いかんかね」
「増やしても構いません」
フィーナ、と呼ばれた人は頷いた。
「ただ、その分、上の池の水を多く使うことになります。……リシェル様はこうおっしゃいました。“水は、ひとりが持たない”。当番を増やすなら、上の村にも声をかけてからにしましょう」
「そりゃ、そうだ」
男は納得して下がった。
私はそのやりとりを、じっと聞いていた。
――ひとつ、気づいたことがある。
彼女の言葉の選び方だった。
「水は、切るんじゃなくて、流すんです」
彼女は村の男にそう言った。
私は。
息が止まりそうになった。
それは。
私が。
辺境の村で。
冬の夜に。
水番の爺さんに向かって言った言葉だった。
その場の。
その人に向かって言った言葉。
どこにも書いていない。
誰にも教えていない。
それが。
三つの山を越えたこの土地で。
若い女の人の口から。
そのままの形で出てきた。
胸の奥が温かくなり。
同時に。
冷たくなった。
◇
「では、次に」
フィーナは絵図の上手を指した。
「雨季の備えです。池の水位を上げておきます。……去年と同じように」
村の人たちが頷く。
誰も異を唱えなかった。
マルタが私をちらりと見た。
ほら、ごらん。
そういう目だった。
私は膝の上で手を握った。
言うべきではない、とどこかで思っていた。
私はこの村の者ではない。
まだ何も知らない。
昨日来たばかりの旅人だ。
――それでも。
雨季は来る。
池は村の上手にある。
「……あの」
私は立ち上がっていた。
小屋の全員が、こちらを向いた。
「その配り方は」
私は言った。
「この川には、合っていないと思います」
レンツ領の水は、丁寧に分けられていました。ただし――貯めて。
涸れる土地エスタで正しかったやり方が、溢れる川の土地に、そのまま持ち込まれていました。
寄合をまとめるマルタは気づいています。「あたしらの川は、あの人の川じゃないんだけどねえ」
けれど変えられません。理由は「教えに書いてないから」。
そして伝道者フィーナ。誠実で、丁寧で、人に慕われる若い女性。
リシェルは彼女の言葉に、聞き覚えのある一節を見つけます。
――どこにも書いていない、誰にも教えていない、自分の言い回しを。




