第62話:先に、着いていた名
第四部「名も、不要」、はじまります。
エスタを去ったリシェルが、次に向かったのは、ラウ川沿いの低地――レンツ領。
けれどその土地には、彼女より先に、彼女の名前が着いていました。
エスタを発って、十日あまりが過ぎた。
街道は、ゆるやかに下っていく。
乾いた丘が途切れて。
やがて、いちめんの平らな土地が広がった。
ラウ川。
王国のまんなかを流れる、大きな川。
その両側に、田がある。
どこまでも低く。
どこまでも平らに。
「……水が、多いな」
カイルが御者台から言った。
私もそう思った。
エスタでは、水は足りないものだった。
ここでは。
水はあふれるものらしい。
川の縁が、白く削れている。
去年か、一昨年か。
この川は一度、外へ出たのだ。
◇
街道沿いの宿場に入った。
茶屋の軒先で、私たちは湯を頼んだ。
旅の埃を落としながら、私はいつものように耳を澄ませていた。
その土地の水のことは、その土地の人がいちばんよく話す。
畑の話。
雨の話。
寄合の話。
そして。
「――ああ、うちらは、もう、いいんだよ」
隣の卓で、日に焼けた男が言った。
「上の村と下の村で揉めてたのも、去年で終いさ。いまは、リシェル様のやり方で回してるからね」
私は。
湯呑みを持つ手を。
止めた。
「リシェル様の、やり方」
男は誇らしげに続けた。
「知らんのかい。辺境の、水の魔女様さ。国を作り替えた、お人だよ。……そのお方の教えってのが、うちの領にも入ってきてね」
私の隣で、カイルがゆっくりと湯呑みを置いた。
その音が、やけに大きく聞こえた。
「……ずいぶん、早いな」
カイルが低く言った。
私は答えられなかった。
早いどころではない。
私はこの領に来たことがない。
誰にも教えたことがない。
なのに。
私の名前だけが。
私より先に。
ここに着いていた。
◇
村へ入った。
驚いた。
整っていたのだ。
用水は幾筋にも分かれて。
村の外れの掲示板には、水番の当番が貼り出されて。
寄合の小屋には、人が集まって。
誰も偉ぶっていなかった。
誰かが一人で全部を決めてはいなかった。
――私が辺境で作ろうとしたもの。
それが。
ここにあった。
「……お前の仕事は」
カイルが村を見回して言った。
「もう済んでるみたいだな」
そう見えた。
私も一瞬、嬉しくなった。
広がっている、と。
私が行かなくても、誰かが行った。
セレナが育てた繋ぐ人が、この土地に根を下ろしたのだ、と。
◇
井戸端を通りかかったのは、そのすぐあとだった。
子どもが四、五人。
桶のまわりにしゃがんでいた。
水番の見習いらしい。
その一人が、節をつけて何かを唱えていた。
「――ひとつ。水は、ひとりが持たない」
ほかの子が続ける。
「ふたつ。答えを渡さない。問いを渡す」
私の足が止まった。
「みっつ。その土地のことは、その土地の者がいちばん知っている」
子どもたちは。
揃ってそれを唱え終えると、満足そうに顔を見合わせた。
誰かが笑った。
覚えられた、と。
私は立ち尽くしていた。
言葉は。
どれも。
私が言ったことだった。
辺境で。
王都で。
エスタで。
私がその場その場で、その人に向かって言った言葉。
それが。
三つに揃えられて。
節をつけて。
覚えるものになっていた。
「……リシェル」
カイルが呼んだ。
私の顔を見ていた。
私はたぶん、ひどい顔をしていたと思う。
嬉しさはもう、どこにもなかった。
背中を、冷たいものが下りていく。
みっつめ。
――その土地のことは、その土地の者がいちばん知っている。
いちばんそのとおりだ。
いちばん私が信じていることだ。
けれど。
それが。
外から来た教えとして。
覚えるものになってしまったら。
それは。
もう。
正反対の意味になる。
「……私は」
私は呟いた。
「こんなものを、作った覚えは、ない」
第四部が始まりました。
リシェルが次に向かったレンツ領には、彼女より先に「リシェル様のやり方」が着いていました。
村は整っています。誰も一人で決めていません。理想どおりに見えます。
けれど子どもたちが節をつけて唱えていたのは、彼女がその場その場で、その人に向かって言った言葉が、三つに揃えられ、覚えるものになったものでした。
「その土地のことは、その土地の者がいちばん知っている」――
いちばん正しいはずのその一行が、外から来た教えとして覚えられたとき、何が起きるのか。
リシェルの第四の旅は、自分の名前と向き合うところから始まります。




