第61話:不要になるために
第三部「不要という祝福」、最終話。
「お前など不要だ」――その言葉から、始まった物語が。
いま、ひとつの円環を、閉じます。
旱魃は、越えられた。
◇
二十日あまり。
エスタの人々は、眠らずに、水と向き合った。
バルドの古い北の水路が活きた。
夜に水を動かす、若い者の工夫が活きた。
子どもたちが一滴を惜しむ心が活きた。
全部の田が潤ったわけではない。
いくつかの田は諦めた。
だが。
どの村も。
枯れ果てることはなかった。
誰も。
死なな、かった。
そして、それを成したのは。
私の力ではなかった。
この土地の人々の手だった。
◇
空に雲が戻った日。
久しぶりの雨が、乾いた田を叩いた。
人々は雨の中で笑い、抱き合った。
私は。
館の軒下から。
それを見ていた。
その輪の中に、私はいなかった。
でも。
それでよかった。
それが。
いちばん良い形だった。
◇
エスタを発つ日。
門の前に、また人が並んでいた。
来たときと同じように。
だが。
その顔は。
もう、「奇跡を待つ」顔ではなかった。
自分たちで旱魃を越えた者の。
静かな自信を湛えた顔だった。
「リシェル様」
ロヴィス代官が進み出た。
その目に涙があった。
「行ってしまわれるのですか。……どうか、この領に留まってはいただけませんか。あなた様がいてくだされば、私たちは」
「代官殿」
私は静かに遮った。
「あなたたちは、もう。私がいなくても。旱魃を越えました」
「それは……あなた様が、教えてくださったから」
「いいえ」
私は首を振った。
「あなたたちが自分で考えたからです。……私は答えを渡していません。ただ、問いを渡しただけ」
私は集まった人々を見回した。
バルドがいた。
村の古老たちがいた。
水番を覚えた子どもたちがいた。
「いいですか」
私は言った。
「私がこの土地に来たのは。……あなたたちを救うためでは、ありません」
人々が息を呑む。
「私は。……この土地に、“私を必要としない人”を育てるために来たんです」
私は微笑んだ。
「そして、あなたたちは。もう、私を必要としない。……だから、私は去ります。それが、私のいちばんの成功、なんです」
沈黙が落ちた。
ロヴィスが。
村人たちが。
私の言葉の意味を。
ゆっくりと。
噛みしめていた。
「……私は」
私は続けた。
自分に言い聞かせるように。
「かつて、ある人に言われました。“お前など、不要だ”と」
風が吹いた。
「その言葉に、私はすべてを失いました。役割を、居場所を、名前を。……“要らない”と言われることが、この世でいちばん恐ろしいことだと思っていました」
私は空を見上げた。
雨上がりの、青い空を。
「でも。……いまは分かります。“要らなくなる”ことは。呪いでは、ありません」
私は人々を見た。
「私が要らなくなるほど。……あなたたちが強くなった、ということ。それは。……いちばん美しい別れなんです」
バルドが。
ゆっくりと。
頭を下げた。
深く。
旧家の頑固な当主が。
「……達者で、な。水の、魔女殿」
それに続いて。
村人たちが。
子どもたちが。
みな、頭を下げた。
命じられて、ではなく。
崇めて、でもなく。
ただ、一人の人間を見送る。
対等なまなざしで。
◇
街道を行く馬車の中で。
私は窓の外を見ていた。
エスタの田が遠ざかっていく。
雨に濡れた緑が。
私がいなくても育つ緑が。
「……行き先は」
カイルが聞いた。
「まだ、決めてない」
私は答える。
「この国には、まだ、たくさんの土地がある。同じ問題を抱えた場所が。……一つずつ。私がいなくても回る場所を、増やしていく」
「一生かかる、と言ってたな」
「ええ」
私は笑った。
「でも。……一人じゃ、ないから」
カイルがこちらを見た。
私は続けた。
「セレナが辺境で繋ぐ人を育ててる。トマスみたいな子が、これから増えていく。……いつか、私が行かなくても。誰かが行く。……そういう広がりを作れたら」
「お前が、いなくても、いい、世界か」
「ええ」
私は頷いた。
「私がいなくてもいい世界。……それを作るのが、私の仕事なの」
カイルは少し黙って。
それから、窓の外を見たまま言った。
「妙な仕事だな。……自分を要らなくするために働くなんて」
「そうね」
私は笑った。
「でも。……私を要らなくしても」
私はちらりと隣を見た。
「あなたは、隣にいてくれるんでしょう」
カイルは。
答えなかった。
ただ。
その耳が。
また少しだけ。
赤くなっていた。
「……一生、付き合う、と、言った、だろう」
やがて、彼はぽつりと言った。
「一度、言ったことは。……変えない」
私は。
何も言わずに。
ただ微笑んで。
彼の肩にそっと頭を預けた。
カイルは振り払わなかった。
馬車は進んでいく。
崩れなかった世界の中を。
私を必要としなくなった土地を後にして。
次の、名も知らぬ土地へ。
◇
かつて、私は言われた。
「お前など、不要だ」と。
あの夜、私はすべてを失った。
役割を失うことが終わりだと思っていた。
でも。
長い、長い旅の果てに。
私はようやく分かった。
「不要」とは。
誰かに切り捨てられる言葉ではなかった。
それは。
自分の手で掴み取る。
いちばん優しい祝福だった。
私がいなくても。
水は流れる。
畑は実る。
人は笑う。
――それを見届けるために。
私は。
今日も。
風の向かう先へ。
旅を続ける。
窓の外で。
風は。
どこまでも。
自由に流れていた。
もう、誰の命も削らずに。
第三部「不要という祝福」、これで一区切りです。
第一部は「役割を失った私が、一つの土地を作り直すまで」。
第二部は「そのやり方を、国の中心へ届けるまで」。
そして第三部は――「私自身が、要らなくなるまで」の物語でした。
かつて彼女を追放した言葉、「お前など不要だ」。
その「不要」を、リシェルは、自らの手で祝福に変えました。
――私が要らなくなるほど、あなたたちが強くなった。それは、いちばん美しい別れだ、と。
けれど、彼女の旅は、まだ続いています。
「私がいなくても回る場所」を、一つずつ増やしながら。
そして、その隣には、ずっと、カイルがいます。
――次の土地には、なぜか、彼女の名前のほうが、先に着いていました。




