第60話:出さない手
私はその夜、眠れなかった。
◇
月の下、水路の脇に座っていると、足音がした。
カイルだった。
彼は隣に腰を下ろした。
何も言わずに。
しばらく。
二人で、涸れかけた池の方を見ていた。
「……出せば、済む」
私は呟いた。
「私が力を使えば、この領は旱魃を越えられる。誰も死なない。……なのに、私はそれをこらえてる。そんな私は、冷たい人間なのかしら」
カイルは答えなかった。
ただ、しばらくして。
低く言った。
「お前が辺境で最初に水を通したとき。……鼻血を出して倒れた」
「……ええ」
「王都で欠落を埋めたときも。……死にかけた。セレナと二人がかりで、やっとだった」
カイルは私を見た。
「この池を、お前一人で押さえたら。……お前、どうなる」
私は答えなかった。
答えは分かっていた。
私はまた倒れる。
そして、私が倒れれば。
この領は、次から私を失うことを恐れて生きる。
「それに」
カイルは続けた。
「お前がいま手を出したら。……この二月、お前がやってきたことは、全部、無駄になる」
その言葉は。
鋭く。
けれど、正しかった。
「バルドも、トマスも、村の連中も。せっかく自分で水を考え始めた。……それをお前が、“やっぱり、私が”と手を出したら」
カイルは静かに言った。
「あいつらは、またお前の指の先を追い始める。……二月かけて育てた芽を。お前が踏み潰すことになる」
私は目を閉じた。
その通りだった。
私が手を出すことは、優しさではなかった。
それは彼らから。
「自分たちで乗り越えた」という経験を。
奪うことだった。
私がいなくても生きていける、という。
いちばん大切な自信を。
「……分かってる」
私は言った。
「分かってるの。頭では。……でも、もし。私がこらえて。それで、誰かが死んだら」
声が震えた。
「私は。……その人を、見殺しにしたことになる」
カイルはしばらく黙って。
それから、ぽつりと言った。
「お前は一人で全部背負おうとする。……昔から、そうだ」
彼は立ち上がった。
「見殺しにするんじゃない。……信じるんだ。あいつらが自分で越えられるって。……お前が育てた、あいつらを」
私は顔を上げた。
月の光の中で。
カイルはこちらに背を向けて立っていた。
「それに」
彼は言った。
「もし、あいつらがどうしても駄目なら。……そのときは、俺もいる。トマスもいる。バルドもいる。……お前、一人じゃない」
私はその背中を見た。
一人じゃない。
その言葉が。
じんわりと。
胸に沁みた。
私はずっと、一人で背負うことに慣れすぎていた。
役割を失った、あの夜から。
誰も頼れないと。
私がやらねばと。
でも。
いまは。
私の隣にカイルがいた。
◇
翌朝。
私は寄り合いの人々の前に立った。
みなが期待の目で私を見上げる。
私は。
深く息を吸って。
言った。
「私は。……この池に、力を使いません」
どよめきが起きた。
ロヴィスが青ざめる。
「そんな、リシェル様。では、この領は」
「あなたたちが救うんです」
私はまっすぐ言った。
「私では、ありません。……あなたたちが、この二月、学んだやり方で。この旱魃を越えるんです」
「で、できません、そんな。私たちだけでは」
「できます」
私はバルドを見た。
古老たちを見た。
トマスを見た。
「あなたたちは、もう知っている。水の向きの与え方を。どの田を活かし、どこをしばらく休ませるか。どの水路を繋げば、少ない水が末端まで届くか。……私より、あなたたちの方が、この土地を知っている」
人々は。
不安げに。
互いを見た。
その沈黙を破ったのは、バルドだった。
「……魔女殿の言う通りだ」
老いた当主が立ち上がった。
「わしらは、もう知っておる。少ない水を殺さずに配るやり方を。……いつまでも、この方に頼ってはおられん」
バルドは村人たちを見回した。
「わしに案がある。上の古い水路を使う。遠回りだが、日の当たらん北を通る。蒸けて消える水を減らせる。……どうだ、みんな」
「それなら、俺、下の溝を掘り直します」
「夜のうちに水を動かせば、昼の暑さで失う分が」
「子どもらにも手伝わせよう。少ない水だ、一滴も無駄にできん」
声が重なっていく。
私を飛び越えて。
互いへ。
土地へ。
水へ。
私は。
その輪の外で。
黙って立っていた。
誰も、もう。
私を見ていなかった。
そして、それが。
どうしようもなく嬉しかった。
「出さない手」。
リシェルは、力を使わないと宣言します。人々の期待を、真っ向から裏切って。
カイルの言葉が、彼女を支えました。
「見殺しにするんじゃない。信じるんだ。あいつらが、自分で越えられるって」
そして――「お前、一人じゃない」。
旧家の当主バルドが立ち上がり、村人たちが声を重ねる。
リシェルを飛び越えて、互いへ、土地へ、水へ。
「誰も、もう、私を見ていなかった。そして、それが、どうしようもなく、嬉しかった」
次回、第61話。第三部、完結です。




