第58話:自分たちの、水
やり方を変えてから。
エスタの田は。
ゆっくりと、しかし確かに、変わり始めた。
◇
私はもう「どこを掘れ」とは言わなかった。
村人が聞きに来ても。
「バルド殿は、この土をなんと言った」
「あなたは、どの田がいちばん水を欲しがっていると思う」
そう返した。
最初、村人たちは戸惑った。
答えをくれない私に。
苛立つ者もいた。
だが。
バルドが水路を案内し。
村の古老が土の癖を語り。
若い者がそれを鍬で試し。
少しずつ。
彼らは。
「自分たちの水」を語り始めた。
「この下の田は、朝に水が要る。だから、夜のうちに上から細く流しておけば」
「いや、それだと途中の畑でしみて消える。ここに一本、浅い溝を」
「バルド様の言う、あの古い水路。あれを活かせば、遠回りだが、末端まで――」
私は。
その輪の外で。
黙って聞いていた。
彼らはもう、私を見ていなかった。
互いを見て。
土を見て。
水を見ていた。
私の指の先を追う代わりに。
自分たちの田を見ていた。
◇
トマスも変わった。
「あなたは、どう思う」
その問いを覚えた弟子は。
いつしか村の子どもたちに囲まれていた。
「トマス兄ちゃん、この溝、どっちに掘る」
「うーん、お前は、どっちだと思う」
「えー、教えてよ」
「自分で考えた方が面白いぜ。……間違えても、いいから」
私はそれを遠くから見て、少しだけ笑った。
あの、私を崇めていた少年は。
もう。
「答えを配る、小さな聖女」ではなかった。
「問いを渡す人」になっていた。
◇
その夜。
バルドが私を酒に誘った。
ドラン家の板の間で。
彼は濁り酒を器に注ぎながら言った。
「魔女殿。……お前、不思議な女だ」
「よく、言われます」
「わしはな。ずっと思っておった。この領の水は、わしが守らねばならん、と。わし一人が背負って、切る痛みも、わし一人が引き受けて」
バルドは酒を呷った。
「だが。……いまは、村の若い者が水を語りおる。わしの知らんことまで考えおる。……わしは少し、楽になった」
彼は遠くを見る目をした。
「わしは、もう。……いなくても、いいのかもしれん」
「いいえ」
私は首を振った。
「あなたは必要です。……ただ、“一人で全部を背負う”あなたが要らなくなった。それだけ。あなたはこれからも、いちばん水を知る人として、皆の輪の中にいます」
バルドは。
器を置いて。
少し笑った。
「……お前は」
彼は言った。
「自分のことも、そう思っているのか」
私は答えられなかった。
自分が要らなくなること。
それを目指しながら。
私は本当に。
それを寂しいと思わずにいられるのか。
まだ、分からなかった。
窓の外で。
エスタの水路が。
細く、確かに。
流れる音を立てていた。
私がいなくても。
もう流れる、水の音を。
やり方を変えたリシェルは、もう「どこを掘れ」と言いません。
「あなたは、どう思う」と問いを返すだけ。
すると村人たちは、リシェルの指の先ではなく、自分たちの田を見始めました。
弟子トマスも、「答えを配る小さな聖女」から「問いを渡す人」へ。
旧家の当主バルドの「わしは、もう、いなくてもいいのかもしれん」。
それは諦めではなく、肩の荷が下りた者の、静かな解放でした。
けれどリシェル自身は、まだ答えを持っていません。
「自分が要らなくなること」を、寂しいと思わずにいられるのか――
第2章は、その問いを残して閉じます。次は最終章「不要になる」へ。




