第57話:問いを、渡す
私はまず、ドラン家の当主に会いに行った。
バルド・ドラン。
水利を代々握ってきた、旧家の当主。
厳しい、と村人が声を潜めた、その人。
◇
ドラン家の館は古く、そして隙がなかった。
通された板の間で、バルドは腕を組んで座っていた。
白髪の、頑固そうな老人だった。
私を見る目は、明らかに警戒していた。
「王都から来た、水の魔女殿か」
彼は皮肉げに言った。
「わしの水路を、壊しに来た、と聞いたが」
「壊しに来たのでは、ありません」
私は静かに答えた。
「ですが。……いまのやり方では、下の村が枯れます。それは、ご存じですね」
バルドの眉が動いた。
「……知っておる」
意外な答えだった。
「知っていて、なぜ」
「知っていて、どうしろと言うのだ」
バルドは声を荒げた。
「水は限りがある。全部の田を潤すことは、できん。ならば、どこかを切るしかない。上を切るか、下を切るか。……わしは、上を選んだ。それだけだ」
私は。
その言葉に。
かつての自分を見た。
いや。
かつてのセレナを。
「切るしか、ない、と」
私は繰り返した。
「あなたは、そう信じてこられた。……全部は守れない。だから、どこかを切る。その痛みを、あなた一人で背負ってこられた」
バルドの顔が、微かに揺れた。
「……分かった風な口を、きくな」
「いいえ、分かります」
私は言った。
「私も、そう思っていました。全部は守れない、と。……でも、あるとき気づいたんです。“切る”のと“流す”のは、違う、と」
「……なに」
「切れば、そこは死ぬ。でも、流せば。……全部を満杯にはできなくても、全部を死なせずに済む。少しずつ、みんなに行き渡らせる。……その向きの与え方が、あるんです」
バルドは黙っていた。
私は続けた。
「でも、そのやり方を、私が決めてはいけない。……この土地の水をいちばん知っているのは、私ではありません。あなたです、バルド殿」
バルドが顔を上げた。
「だから、教えてください。……どこの土が固いか。どの村の田が、いつ水を欲しがるか。どの水路が古くて脆いか。……私は知りません。あなたが知っている」
「……お前が教えるのでは、ないのか」
バルドは訝しげに言った。
「わしに教えを乞うために、来たのか。水の魔女が」
「ええ」
私は頷いた。
「私が教えられるのは、“考え方”だけ。……“答え”は、あなたが持っている。私とあなたで、それを編むんです」
板の間に風が通った。
バルドは長い間、私を見ていた。
そして。
ふ、と。
肩の力を抜いた。
「……妙な、女だ」
彼は言った。
「王都の連中は、みな、“こうしろ”と命じていった。……お前は、初めて“教えてくれ”と言った」
「では」
「……いいだろう」
バルドは立ち上がった。
「水路を見せてやる。この領の水をいちばん知っている、わしが。……その代わり、魔女殿。お前の言う“流す”とやらが本物か。この目で確かめさせてもらう」
私は微笑んで頷いた。
これでいい。
私が答えを配るのではなく。
この土地の人が、自分の知っていることを持ち寄って。
自分たちで答えを見つける。
私は。
その手伝いをするだけ。
◇
館を出ると、トマスが待っていた。
あの一件から、ずっと。
しょげた顔をしていた弟子。
「リシェル様……俺」
「トマス」
私は彼の前にしゃがんだ。
「あなたに一つ、頼みがあるの」
トマスが顔を上げる。
「これから村を回って。……村の人に“どうすればいい”って聞かれたら。あなたは、こう返して」
私は言った。
「“あなたは、どう思う”って」
トマスの目が揺れた。
「……でも、それじゃ、答えにならない」
「なるのよ」
私は笑った。
「答えを渡すと、その人はあなたに寄りかかる。でも、問いを渡すと。……その人は自分で考え始める。……あなたがいなくても、いいように」
「俺が、いなくても……」
トマスは戸惑っていた。
「それって……俺、要らなくなりませんか」
私は。
その言葉に胸を突かれた。
それは、かつて私が恐れた言葉だった。
役目を終えたのか、と。
お前など不要だ、と。
でも。
いまは。
「トマス」
私は彼の肩に手を置いた。
「“要らなくなる”のは。……いちばん上手くいった証なの」
トマスは。
分からない、という顔で、私を見ていた。
でも、いつか。
分かる日が来る。
私がこの長い旅で、ようやく分かったように。
リシェルは、水利を握る旧家の当主バルドに、「教えてくれ」と頭を下げます。
答えを配るのではなく、土地の人が持っている答えを、一緒に編むために。
そして弟子トマスには、「問いを渡せ」と教えます。
「答えを渡すと寄りかかる。問いを渡すと、自分で考え始める。あなたがいなくてもいいように」
「要らなくなるのは、いちばん上手くいった証」――
かつてリシェルを苦しめた「不要」という言葉が、静かに、意味を変え始めます。




