第56話:辺境は、いま
第二部で「いつか辺境に学びに行きたい」と言ったセレナ。
その約束が、思わぬ形で、リシェルの背中を押します。
翌朝、私はカイルに話を聞いた。
辺境ヴァレントの、いまのことを。
「トマスも私も、ここに来てひと月になる。……辺境の水は、どうなってるの」
「回ってる」
カイルは短く答えた。
「お前がいなくても。トマスがいなくても。……村の連中が、自分で見て、直してる」
「……そう」
私は少しだけ息を吐いた。
「ハンナの畑も」
「ああ。孫が水番を覚えたらしい。“水の姉ちゃんに教わった通りにやってる”と、言ってたそうだ」
私は笑った。
水の姉ちゃん。
それは、かつて私が切り捨てなかった老女の畑。
その孫が、いま。
私がいなくても。
自分で水を繋いでいる。
「……辺境は、もう、私を必要としてない」
私は言った。
寂しさはなかった。
むしろ。
それこそが。
私の目指したものだった。
「なのに」
私はエスタの田を見た。
「ここは、まだ、私に集まってくる」
カイルは何も言わなかった。
ただ、水筒の水を一口飲んで。
ぽつりと。
「辺境と、ここの、何が違う」
と、言った。
問いの形をしていたが。
それは答えを促す声だった。
私は考えた。
辺境で、私は何をしたか。
この土地で、私は何をしているか。
――違いは。
一つだった。
「……辺境では、私、途中から。何も教えなかった」
私はゆっくりと言った。
「“こうしろ”と言うのをやめた。……村の人が“どうしたらいい”と聞いても、“あなたは、どう思う”と返した。答えを渡さなかった」
「ここは」
「答えを渡してる。……全部」
私は自分の手を見た。
この一年、私は。
答えを持っている人だった。
王都でも、辺境でも。
正しい向きを知っている人。
だから、みな、私に集まった。
でも。
答えを渡し続ける限り。
人は、答えを持つ人に寄りかかり続ける。
私は永遠に。
その土地の「一点」であり続ける。
「……渡しちゃ、駄目だったのよ」
私は呟いた。
「答えを。……渡した瞬間に、私は聖女になる。かつてのセレナに」
◇
その日の昼過ぎ。
辺境から早馬が届いた。
文を開くと。
見慣れた、けれど以前より力強くなった字が並んでいた。
『リシェルへ
辺境ヴァレントに、着きました。
あなたのいない、辺境を、見ています。
驚きました。誰も、私を、崇めません。
水番の子どもに、教わっています。「聖女様、そこは、そう掘っちゃ駄目だよ」と、叱られました。
可笑しくて、涙が、出ました。
私は、ずっと、崇められて、生きてきた。
崇められないことが、こんなに、楽だとは、知りませんでした。
あなたが、育てたのは、水路では、ないのですね。
「あなたを、必要としない人」を、育てたのだと。……ようやく、分かりました。
セレナ』
私はその文を握りしめた。
あなたを必要としない人を育てた。
セレナは辺境で、それを見た。
私がエスタで忘れかけていた、それを。
「……そうよ」
私は立ち上がった。
「私が育てるべきなのは。……私を必要としない人、なんだわ」
カイルがこちらを見た。
私は彼を見返して言った。
「やり方を変える。……今日から」
セレナからの手紙が、リシェルの忘れかけていたものを、思い出させます。
「あなたが育てたのは、水路ではない。“あなたを必要としない人”を育てたのだ」
辺境が、もうリシェルを必要としないこと。
それは寂しさではなく、成功のかたち。
第二部でセレナが言った「辺境に学びに行きたい」が、ここで回収されました。




