第55話:正しさの、押し売り
問題がはっきり形になったのは、トマスの一件だった。
◇
その日、私はドラン家の当主に面会を申し入れていた。
水利を握る旧家の当主バルド。
彼の承諾なしに水路をいじれば、それは領の諍いになる。
だから、まず話を。
そう思って館を空けていた、その間に。
事件は起きた。
◇
下流の村で、トマスが村人たちと揉めていた。
私が戻ったとき。
トマスは顔を真っ赤にして叫んでいた。
「違います! そのやり方じゃ、駄目なんです! リシェル様のやり方は、こう! 水は、こう分けるって、決まってるんです!」
村人の年老いた男が、鍬を握ったまま俯いていた。
「……だが、トマスさん。ここの土は上が固くて。あんたの言う通りに掘っても、水はそっちには流れねえ」
「流れます! だって、リシェル様がそう言ったんだから!」
私はその光景に立ち尽くした。
トマスは。
私のやり方を。
「正しさ」にしていた。
この土地の土の癖も。
この村の人の事情も。
何も見ずに。
ただ、「リシェル様がそう言った」という一点だけを。
絶対の正解として。
振りかざしていた。
「トマス」
私は静かに呼んだ。
トマスが振り返る。
「あ、リシェル様。この人たちが、言うことを聞かなくて」
「……あなたがいま言ったことは」
私は一歩近づく。
「私のやり方?」
「はい! リシェル様の教えを――」
「違うわ」
私は首を振った。
「私はあなたに、“こう分けろ”とは教えていない。私が教えたのは、“その土地を見て、水の向きを、その土地に合わせろ”。……それだけよ」
トマスの顔が強張った。
「でも……辺境では、こう、やって」
「辺境の土は柔らかかった。だから、あのやり方で流れた。……でも、ここの土は固い。同じやり方が通じるはずが、ないでしょう」
私は年老いた村人を見た。
彼はこの土地を、何十年も耕してきた人だ。
「……あなたの言う通りです。上が固いなら、そちらには流れない。私の弟子が間違いました。ごめんなさい」
私が頭を下げると、村人は慌てて手を振った。
「い、いえ、そんな。リシェル様が、謝ることじゃ」
トマスは呆然と立っていた。
自分が何をしてしまったのか。
まだ分かっていない顔だった。
◇
その夜。
私は一人、水路の脇に座っていた。
月が細い流れに映って揺れていた。
トマスを責める気にはなれなかった。
あの子はただ、私を信じすぎていただけだ。
私のやり方を絶対の正解だと。
そう思い込んでいただけ。
――そして。
それを作ったのは。
私だ。
私が崇められることを。
どこかで拒まなかった。
「奇跡の人」と呼ばれることを。
黙って受け入れていた。
その結果が、これだった。
私は。
かつてこの国を壊した、あの「一つの循環」を。
この土地でもう一度。
作りかけていたのだ。
私という、たった一つの正解を中心にした循環を。
「……同じだわ」
私は呟いた。
かつてアルトリウスたちが私に寄りかかっていたように。
いま、この土地の人々は私に寄りかかっている。
私はそれを。
壊しに来たはずだった。
なのに。
「私は、また、一点になろうとしていた」
水面の月が揺れる。
風が吹いて、細い流れがさらさらと鳴った。
私は膝を抱えて。
その音を、長い間、聞いていた。
トマスは、リシェルのやり方を「正しさ」にしてしまいました。
土地の癖も、人の事情も見ずに、「リシェル様がそう言った」だけを振りかざして。
けれど、それを作ったのはリシェル自身。
崇められることを、どこかで拒まなかった。
「私は、また、一点になろうとしていた」――
かつて壊した“一つの循環”を、自分が再生産しかけている。
第三部の第1章は、この気づきで幕を閉じます。
次章「一点になる罠」へ。ここからリシェルは、やり方そのものを変えていきます。




