第48話:選ばせる
その日の夕刻。
私は、王城の、東の外れに立っていた。
人気のない、古い井戸の前。
もう、何十年も、使われていないという。
「……ここが、いいわ」
私は、しゃがみ込む。
井戸の底に、意識を沈める。
――あった。
微かな流れ。
固定に押さえつけられ、ほとんど死にかけている、細い水の脈。
都の、隅の、隅。
中央から見れば、どうでもいい場所。
だからこそ、固定の力も、ここまでは、行き届いていない。
「本当に、やるのか」
背後で、カイルが言う。
「ええ」
私は、頷いた。
「言葉だけでは、あの人たちは動かない。……“見せる”しかないの」
昨日、大神官は、恐怖を撒いた。
「固定を解けば、都は滅びる」と。
その恐怖に、私は、恐怖では、対抗しない。
小さな、確かな事実を、一つ。
目の前に、置く。
「アルトリウス殿下と、何人かの貴族には、声をかけたわ。……ここで、見ていてもらう」
やがて。
足音が、いくつも近づいてきた。
アルトリウス。
そして、昨日、広間にいた貴族が、数人。
半信半疑の顔で。
あるいは、警戒の目で。
「……何を、見せるつもりだ」
一人の貴族が、硬い声で問う。
「この井戸の水を、動かします」
私は、静かに答える。
「固定を、解かずに。……固定の“隙間”に、分散を、通してみせます」
「そんなことが」
「できるかどうか、見ていてください」
私は、井戸に、両手をかざした。
目を、閉じる。
中枢の、あの巨大な欠落に触れるのは、まだ、早い。
だが、この小さな脈でなら。
証明できる。
私は、細い流れに、触れた。
固定の圧が、それを、押さえつけている。
一点に。
動くな、と。
「……押し返しはしない」
私は、呟く。
「押し返せば、固定とぶつかって、壊れる。……そうじゃなく」
流れに、「向き」だけを、与える。
固定された壁の、その隙間を、縫うように。
染み込ませる。
広げる。
ほんの、少し。
その瞬間。
井戸の底で。
ぴちゃり、と。
水が、跳ねた。
「……!」
貴族の一人が、身を乗り出す。
枯れかけていた井戸に。
細い水の筋が、いくつも生まれ。
互いに、支え合いながら。
ゆっくりと、湧き上がってくる。
固定は、解いていない。
都の秩序は、乱れていない。
その、すぐ隣で。
小さな流れが、自分の力で、巡り始めた。
「……動いた」
アルトリウスが、掠れた声で言った。
「固定を、解かずに。……水が、動いている」
「ええ」
私は、額の汗を拭う。
小さな脈、一つ。
それでも、体が、重かった。
中枢は、この、何万倍もの規模だ。
――だが、原理は、同じ。
「これが、分散です」
私は、立ち上がる。
「一点に押さえつけるのではなく。……たくさんの流れが、それぞれの向きで、支え合う。一つが枯れても、他が補う。誰か一人が、命を削る必要は、ありません」
貴族たちは、井戸を、覗き込んでいた。
湧き続ける、小さな水。
その、静かな事実の前で。
昨日の、大神官の「恐怖」が、少しずつ、色褪せていく。
「……だが」
一人の、年老いた貴族が、口を開いた。
「中枢は、この井戸とは、比べものにならぬ規模だ。……同じように、いくとは限らぬ」
「その通りです」
私は、即座に、認めた。
「保証はできません。危険も、あります。……だから、私は、あなたたちに“やれ”とは言いません」
私は、彼らを、見回した。
「選ぶのは、あなたたちです。この国の、民を預かる、あなたたちが。……押さえ続けて、聖女と共に倒れるのを待つか。危険を承知で、作り替えるか」
沈黙。
風のない、王都の空気の中で。
その沈黙だけが、重く、流れた。
やがて。
「……私は」
アルトリウスが、口を開いた。
「私は、一度、間違えた」
彼は、拳を握る。
「聖女がいれば足りると判断して、リシェルを切り捨てた。その結果が、これだ。……国が崩れ、聖女が死にかけている。私の、あの選択の、代償だ」
彼は、顔を上げた。
「だからこそ、今度は、逃げずに選ぶ。……私は、作り替えに、賭ける」
王太子の、宣言。
それは、広間の恐怖より、ずっと、重かった。
一人、また一人と。
貴族たちが、頷き始める。
全員ではない。
だが、確かに。
流れが、変わり始めていた。
――押さえるのではなく。
変わることを、選ぶ、という流れに。
「……面倒な連中を、よく動かしたな」
カイルが、隣で、ぽつりと言った。
「動かしてない」
私は、首を振る。
「選んでもらっただけよ。……押さえつけて動かしたら、それは、ただの、別の固定だもの」
カイルは、小さく、笑った。
「相変わらず、面倒な女だ」
「ええ」
私も、少しだけ、笑う。
空を見上げる。
固定された、動かない空。
だが、その、いちばん端で。
ほんの少し。
雲が、動いた気が、した。
第48話まで読んでいただき、ありがとうございます。
リシェルは、恐怖には、恐怖で対抗しませんでした。
小さな、確かな事実を一つ、目の前に置く。
枯れた井戸に、固定を解かずに、分散の水を通してみせる。
大きな恐怖より、小さな事実のほうが、人を動かすことがあります。
そして、アルトリウス。
かつて「聖女がいれば足りる」と間違えた男が、
今度は逃げずに「作り替えに賭ける」と選びました。
これは、彼なりの、後悔の引き受け方です。
準備は、整いました。
次話からいよいよ、王都の中枢――リシェルが切り離された「欠落」そのものの、再設計が始まります。
固定する者セレナと、流す者リシェル。
二つの理を、編み合わせて。




