第43話 【番外編】辺境の、何でもない一日
朝。
辺境領ヴァレントの朝は、静かだ。
王都のように、鐘は鳴らない。
代わりに、風が知らせてくれる。
今日も、流れは穏やかだと。
私は寝台を出て、外套を羽織る。
ミリアがまだ眠っているのを確かめて、そっと戸を開けた。
冷たい空気。
だが、刺すような乾きは、もうない。
水の匂いが、する。
……見回り、と私はそれを呼んでいた。
毎朝、領の流れを確かめて歩く。
以前は、念じなければ感じ取れなかった。
いまは、違う。
歩いているだけで、流れのほうから、手触りを返してくる。
ここが繋がっている。
ここは、少し細い。
ここは、もう私がいなくても、回り続ける。
まるで、土地と会話しているようだった。
――根を張った、ということなのかもしれない。
追放された、この場所で。
水路沿いを歩くと、畑が見えてくる。
ハンナの畑だ。
あの日、私が「切れなかった」場所。
枯れかけていた苗は、もう、ない。
代わりに、背の低い作物が、整然と並んでいる。
豊かではない。
だが、確かに、実っている。
「……水の姉ちゃん!」
声がした。
ハンナの孫だ。
あの日、空を見上げて雨を待っていた子供。
いまは、空ではなく、私を見ている。
駆けてきて、両手いっぱいの何かを差し出す。
小さな、青い実。
「ばあちゃんが、姉ちゃんに渡せって」
「……ありがとう」
受け取る。
まだ温かい。
子供の手の熱が、移っている。
「水、動かしてくれて、ありがとうって」
その一言は。
どんな評価よりも。
胸の奥に、深く落ちた。
王都では。
私の価値は、いつも数字で測られた。
礼法の点数。
外交の成果。
王妃候補としての、適性。
けれど、ここでは違う。
水が、動いた。
それだけで、こうして実が返ってくる。
役割ではなく。
結果でもなく。
ただ、繋がりで。
「朝から、油を売ってるな」
背後から、低い声。
振り返らなくても、分かる。
カイルだ。
「見回りよ。あなたこそ、私を探してたんでしょう」
「……まあな」
彼は、一枚の書状を手にしていた。
封蝋に、見覚えのある紋章。
聖女の、紋章。
あの夜から、セレナの手紙は、何度も届いている。
止めろ。
関わるな。
固定を乱すな。
文面は、いつも同じだった。
けれど、今日のものは。
「……短いわね」
私は、それを読む。
たった一行。
『一度、会えませんか』
止めろ、でもなく。
乱すな、でも、なかった。
「どうする」
カイルが問う。
私は、青い実を、そっと外套の隠しに入れた。
「……いつか、会うわ」
空を見上げる。
固定された王都の空とは違う。
雲が、流れている。
「あの人は、塞ぐ人。私は、流す人」
「敵同士だろう」
「そうね」
私は、少しだけ笑う。
「でも、たぶん、同じものを見てる。崩れていく国を、なんとかしたいと思ってる。それだけは、きっと、同じ」
塞ぐか、流すか。
答えは、正反対。
だが、問いは、同じだった。
だから、いつか。
会って、話す日が来る。
今日では、ない。
けれど、遠い日でも、ない。
「面倒な土地になったな」
カイルが、ぽつりと言う。
領を見渡しながら。
かつて、一本の流れに、すべてを託していた土地。
いまは、無数の細い流れが、あちこちで支え合っている。
一つが詰まっても、別の流れが補う。
効率は、悪い。
手間も、かかる。
だが。
「ええ」
私も、領を見渡す。
「面倒で、壊れにくい」
一極ではなく。
分散で。
支配ではなく。
繋がりで。
それが、この土地の、新しいかたち。
そして、たぶん。
いつか、この国そのものの、かたちになる。
「……帰るか」
「ええ」
私たちは、並んで歩き出す。
特別なことは、何もない。
ただ、流れが、穏やかに巡っている。
風が止まらず。
水が溢れず。
ただ、自然に。
何でもない、一日。
けれど、私は知っている。
この“何でもなさ”を作るために、どれだけのものが、繋がっているかを。
追放された日には、想像もしなかった。
役目を終えたはずの私に。
帰る場所が、できるなんて。
最後までお読みいただき、本当にありがとうございました。
番外編は、本編のその後の「日常」を描きました。
壊れにくい世界は、派手ではありません。
けれど、誰も切り捨てずに積み上げた流れは、
こうして静かに、巡り続けます。
リシェルとカイル、そして「塞ぐ者」セレナ。
彼らの物語に、もし続きを望んでくださる方がいれば、
いつか、また書けたらと思っています。
評価・ブックマーク・感想、どれも大きな励みになります。
ここまでの旅に、お付き合いいただき、心から感謝を。




