第2話 二千年前の簒奪者
イルの身体の奥底から蒼黒い魔力が溢れ出した。
星々を溶かしたような光。それが脈打つたび、夜の砂浜から現実感が薄れていく。
『ちょっ!それ、一番駄目なヤツ!!』
二千年もの間ひたすら魔術を探求してきた僕ですら、本能が警鐘を鳴らす規格外の異能。
――深淵の幻
それは魔術というより、世界そのものへ嘘を吐き、それを真実だと思い込ませるような異質な力だった。海魔が持つ力として考えても、明らかに度が過ぎている。
「だって、忘れてもらえばいいんでしょ?」
『それはそうなんですけど!』
イルはまるで聞いていない。掌へ凝縮させた蒼黒い光を夜空へ向けて無造作に撒き散らした。
光の粒が舞う。それは深海で明滅する未知の生物のように色を変えながら、気絶した女剣士へ降り注いだ。
ピシリ。
氷に亀裂が入るようなかすかな音。女剣士の意識へ光が沈み込み、記憶と認識の境界を侵していく。
僕はその光景を見つめていた、そのとき――。
胸の奥で、ずっと沈んでいた何かが微かに揺れた。
理由も分からないまま、意識の端に古い記憶が滲み出す。
僕が暗い海へ沈むことになった――二千年前の記憶が。
◆◆
二千年前。大陸中南部。イスカリア王国。
「姉上!見てください!!僕にもできました!!」
バチチッ――ズガァン!!
耳をつんざく轟音とともに、白銀の雷光が神殿の庭を駆け抜けた。僕が放った一閃の雷は、花を摘んでいた少女の背中へ一直線に襲いかかる。
美しい暗紫色の髪が風圧に舞う。しかし着弾する寸前、少女の周囲へ不可視の魔術結界が展開した。
パァン!
雷撃が呆気なく霧散する。
「ハル!いきなり魔法をぶつけるの禁止って言ったでしょ!」
少女――僕の実姉、ルザベリアが振り返る。次の瞬間、その前方へ暗赤色の魔法陣が幾重にも展開した。
嫌な予感がした。
「お返し!」
ゴゴゴゴゴッ――ズドォォォォン!!
禍々しい黒雷が迸る。
「うわぁぁぁぁっ!!」
慌てて展開した多重結界を一枚、二枚、三枚と紙切れのようにぶち抜き、僕の鼻先へ到達する寸前、黒雷はふっと威力を失って煙のように消えた。
「あ、姉上!!禁術はなしって約束したじゃないですか!死ぬところでしたよ!!」
「そっちが先に撃ってきたんだからいいじゃない」
「僕のは普通の雷魔法です!」
「当たったら痛いのは同じでしょ?」
「程度というものがあります!!」
僕が頬を膨らませると、姉上は悪びれもせず笑った。
見上げれば、どこまでも澄み渡った青空。足元には色鮮やかな花々が咲き乱れ、丘の上に建つ白亜の神殿からは魔法国イスカリアの王都が一望できた。
尖塔を持つ魔術院。空を往来する飛行術具。青く輝く水路。そのすべてを見下ろすように白い王城がそびえている。
魔王を討ち滅ぼした勇者である父上と母上が治める、平和で美しい国。
あの頃の僕は、その景色が永遠に続くと本気で信じていた。
「ルズ、ハル。……お待たせ」
聞き慣れた優しい声に振り返る。神殿から一人の女性が歩いてきた。
穏やかな笑み。風に揺れる美しい暗紫色の髪。少し痩せた身体を白い衣に包んだその人は、祈りを終えたばかりのイスカリア王妃。そして、僕たちの母上だった。
「母上!」
姿を認めるなり駆け寄り、その胸へ飛び込む。
「まぁ、ハルったら。ふふふ」
「こら、ハル!母上はお身体が悪いんだから、もっと優しくしなきゃ駄目でしょ!」
姉上の小言など気にせず甘えていると、母上の柔らかな手が僕の髪と肩を撫でた。
「あなたたち……本当に仲が良いのね」
日の光を映した母上の瞳が愛おしげに細くなる。その隣では姉上が少しだけ羨ましそうに唇を尖らせていた。
母上はそれを見逃さない。
「ルズも甘えていいのよ。今は、あの人も家臣も民たちも、誰も見ていないのだから」
「わ、私は別に……」
そう言いながら、姉上も結局その隣へ寄る。
「姉上は素直じゃないですね」
「なっ!ハルこそ、そんなに甘えてばかりじゃ父上みたいな立派な王になれないわよ!」
「姉上がなればいいのです。僕より男らしい姉上が」
「はぁ!?どういう意味よそれ!?」
僕は笑って逃げ、姉上が追いかけてくる。母上はそんな僕たちを、ただ幸せそうに見守っていた。
あの日、母上にもっと強く抱きついていればよかった。もっと声を聞いておけばよかった。もっと、たくさん笑っておけばよかった。
あれが家族三人で笑った最後の穏やかな記憶になるなど、幼かった僕は知るはずもなかった。
◆◆
時が進んだ。
「魔法を捨てろと叫ぶ反逆者に、死を!!」
「悪魔憑きを殺せ!!」
「国を衰退させる魔女を処刑しろ!!」
イスカリア王城西部、大処刑広場。そこを埋め尽くす人々が怒号を上げていた。
民たちが憎悪に顔を歪め、拳を振り上げ、たった一人の女性へ死を求めている。
その視線の先。断頭台にはすっかり衰弱した母上がいた。
「母上っ!!!なんで!?こんなの、めちゃくちゃだ!!」
「父上!!あなたは愛する人を、その手で殺すのですか!?そんな理不尽、あっていいはずがない!!」
僕と姉上は喉が裂けるほど叫び、押さえつける兵士たちから逃れようと必死にもがいた。
だが声は届かない。
「殺せ!」
「殺せ!」
「殺せ!」
広場を埋め尽くす狂気が僕たちの叫びを呑み込んでいく。
王座に座る父上は死人のように青ざめていた。国王としてそこに座っている。だが僕には分かった。父上の心もまた、今この瞬間、殺されているのだと。
民の熱狂によって。王という立場によって。愛する妻へ死刑を宣告することを強いられている。
「…………刑を、執行せよ」
震える声だった。
姉上の身体が止まる。僕も息を呑んだ。
刃の下で、母上が僕たちを見た。その顔には怒りも恨みもない。ただ、悲しそうに笑っていた。
「ごめんね、ルズ、ハル……。母さん、あなたたちと、もう少し一緒にいたかっ――」
ザンッ!!
言葉は最後まで届かなかった。
重い刃が落ち、母上の首が転がった。
断頭台に固定された身体がビクンと一度大きく痙攣し、そのまま動かなくなる。
「母上ぇぇぇぇぇぇぇぇっ!!!!」
僕と姉上の絶叫だけが狂喜する群衆の中へ虚しく溶けていった。
◆◆
母上が体調を崩し始めたのは処刑のおよそ一年前だった。同じ頃から、母上は「神のお告げを受けた」と訴え始めたという。
――イスカリアの行き過ぎた魔法技術は、やがて大いなる災いを招く。
母上はその警告を信じ、魔法技術の発展を止めるよう、王族としての立場も身体も顧みず国中へ訴え続けた。僕と姉上は何も知らされていなかった。きっと母上なりに、僕たちを巻き込みたくなかったのだろう。
だが、魔法によって繁栄してきたイスカリアにとって、「魔法の発展を止めろ」という言葉は国そのものを否定するに等しかった。
魔術師は怒った。商人も怒った。貴族も、兵士も、民衆も。いつしか母上は「国を滅ぼそうとする反逆者」「悪神に惑わされた魔女」と呼ばれるようになり、国中を呑み込んだ熱狂を、国王である父上ですら止めることができなかった。
母上は殺された。
この国に。
僕たちが愛していたイスカリアという国に。
すべてが終わった後、その真実を知った僕と姉上は同じものを憎んだ。父上を。民を。国を。母上を見殺しにしたすべてを。
だから僕たちは母上を取り戻そうとした。
王城最深部の禁書庫。何重もの封印の奥に収められていた魔法書――『メズマラ』。死者の魂を現世へ呼び戻し、肉体へ繋ぎ止める蘇生の禁術が記されている。
幼い僕たちはそれに手を出した。
そして、失敗した。
魔法陣の中央に置かれた遺骨が熱を帯びることはなかった。何度呼んでも、何度魔力を注いでも、あの優しい声は返ってこない。
「母上……母上……っ」
僕はその場に崩れ落ちた。
だが、姉上は泣かなかった。
「……なんで?」
掠れた声がした。
「なんで私たちだけ、こんなに苦しまなきゃいけないの?母上を死に追いやった奴らは、今も笑って、食べて、眠って……何もなかったみたいに生きてるのに」
顔を上げる。
姉上が立っていた。
その瞳から光が消えていた。
「姉上……?」
「誰も断罪しないなら、私がすればいい」
「――何を」
「私が、全部」
あの時、もっと強く止めるべきだった。殴ってでも、閉じ込めてでも、僕自身が憎しみに囚われていようと、姉上を引きずり戻すべきだった。
しかし僕たちは互いの傷を抉り合った。
「復讐して母上が戻るのですか!?」
「じゃあ許せって言うの!?」
「だったら、あなたに何ができるのよ!!」
姉上の声が、震えながら跳ね上がる。
「私より魔術の才で劣るハルに……何が分かるの!?何を取り戻せるっていうのよ!!」
息が止まった。
怒鳴り返す言葉も、すぐには出てこなかった。
魔術の才能で姉上に及ばないことなど、自分が一番よく分かっている。それでも、誰より魔術を愛し、縋るように研鑽を続けてきた僕にとって、その言葉だけは刃物より鋭かった。
姉上も、口にした瞬間に気づいたのだろう。
「……ハル」
見開かれた瞳から怒りが消え、代わりに苦悶が浮かぶ。
けれど、一度放たれた言葉は戻らない。
同じ母を失い、同じ国を憎んだ。だからこそ、僕たちは決定的に違う道を選んだ。
僕は母上を取り戻そうとした。
姉上は、母上を奪ったすべてを壊そうとした。
やがて彼女は、人の力では届かない場所へ手を伸ばした。
――神へ。
◆◆
そして、あの日。
「姉上!!」
鼻につく焦げ臭さ。轟音とともに崩れ落ちる王城。壁の向こうから響く悲鳴と断末魔。
イスカリアは死んでいた。
血塗れの床に膝をつく僕の前には、幼い頃から共に笑い、競い、魔法を高め合ってきた姉が立っている。
かつての面影はもうなかった。
「……ハル」
その瞳にあるのは僕への失望と侮蔑だけ。足元には血に濡れた王冠が転がっていた。
「ガッハッハッハ!見よ!無惨じゃな!」
腹の底を震わせるような哄笑が響く。
姉上の背後。そこに立っていたのは、猪の頭部に禍々しい角と翼を生やした巨大な異形だった。
――饗宴を司る神、ザグロス。
教会に祀られていた石像の面影は確かにある。だが神聖さなど欠片もない。肥えた巨躯。濁った眼。血肉と酒に汚れた牙。むせ返るほどの悪臭。
あれを神と呼ぶくらいなら、悪魔と呼んだ方がまだしっくりくる。
そしてザグロスの太い腕には一人の男が掴まれていた。
豪華な王衣は鮮血に染まり、首は力なく垂れ、瞳はもう二度と開かない。
「…………父上?」
ザグロスは壊れた玩具でも見せびらかすように、父上の亡骸を僕の前へ掲げた。
「一国の王ともあろう者が、随分と呆気ない。脆いものじゃな」
「き、さま……っ!よくも……父上を!!」
視界が赤く染まる。
「ガッハッハッハッ!!」
ザグロスは父上の亡骸を、ゴミのように放り捨てた。
ドサッ。
王冠のそばへ父上が転がる。
「聞こえるか、ルトハールよ!この阿鼻叫喚が!」
奴が歩いてくる。
グチャリ。グチャリ。
足元には兵士や使用人たちの死体が折り重なっていた。剣、槍、矢。血溜まりを踏み荒らすたび、嫌な音が響く。
僕は動けない。魔力も体力も使い果たしていた。
ザグロスが顔を近づけてくる。腐った酒と血肉が混じった息が鼻を突いた。
「貴様も心の底では望んでおったのじゃろう!?母を殺した国が滅べばいいと!父が報いを受ければいいと!民が苦しめばよいと!!」
「違う……!」
僕はそんなものを望んだことなど――。
――本当に?
母上を殺した民を。父上を。国を。一度たりとも憎まなかったと言えるのか。
「黙れェェェェッ!!」
僕は叫んだ。これ以上、その先を考えたくなかった。
「姉上!!これがあなたの望んだ結末ですか!?」
姉上は父上の亡骸にも、惨殺された兵士たちにも目を向けなかった。ただ凍りついた瞳で僕だけを見る。
「……終わらせに来たのよ」
「何を……」
「全部」
「こんな殺戮をして!?母上が喜ぶはずがない!!」
一瞬。姉上の表情が揺れた。
ほんの一瞬だけ、昔のルザベリアがそこに戻ってきた気がした。
けれど。
「……もういいわ。あなたには何を言っても無駄みたい」
消えた。
「姉上……!?」
彼女はザグロスへ目配せする。
ゴゴゴゴゴゴッ……!!
城全体が揺れ、遠くから何か巨大なものが迫ってくる音がした。
「時間がないわ。終わりにしましょう……ザグロス」
「ガッハッハ!貴様は弟に対しても容赦がないな!」
悪神が笑う。姉上は笑わない。
並び立つ二人を前に、僕は血塗れの床へ這いつくばっている。
姉上が僕を見下ろした。
「歴史にしっかり刻んであげる。『イスカリアを滅ぼした、忌まわしき者』として」
「――え?」
次の瞬間。
ドパァァァァァァン!!!
城壁が弾け飛んだ。
夜の王城へ山のような濁流が押し寄せる。視界すべてが荒れ狂う水で埋め尽くされた。
姉上とザグロスが発動させた大規模魔法。
王城を、王都を、国そのものを。地上から消し去るための破壊だった。
「姉上ぇぇぇぇぇッ!!」
返事はない。ただ、濁流に呑まれる直前、姉上が背を向ける。そして、ほんの一度だけ振り返った。
「さようなら、ルトハール」
それが姉上から聞いた最後の言葉だった。
「がっ……あぶっ……!」
水が全身を叩き潰す。瓦礫とともに城外へ押し流され、岩へぶつかり、骨が砕ける。それでも濁流は止まらない。
王都から平原へ、河川へ、そして海へ。
僕の身体は流され続けた。
やがて動かなくなった肉体を魚が食った。肉が削がれ、骨が砕け、僕という人間の痕跡が冷たい海の中で少しずつ消えていく。
それでも、消えなかったものがある。
憎しみ。後悔。姉上への怒り。ザグロスへの殺意。そして、消えたくないという執着。それらが魂を現世へ縫い止め、僕は幽霊になった。
光の届かない海を、ただひたすら沈んだ。
沈んだ。沈み続けた。
どれほど時間が経ったのかも分からない。
やがて深海の底で、僕は一人の少女と出会った。
イル。
彼女は、まるで僕がそこへ沈んでくることを知っていたかのように、暗闇の底でずっと僕を待っていた。
◆◆
――それから、およそ二千年。
「ん……あ、あれ……?」
砂浜へ埋もれていた女剣士の指が動いた。
僕の意識が現在へ引き戻される。
月明かり、波音、コンブのドレスを纏ったイル。そして、ゆっくりと目を開く金髪の女剣士。
『…………』
深淵の幻。世界すら欺くイルの異能。
術そのものは、どうやら成功したらしい。
女剣士の美しい蒼眼が僕たちを捉える。先ほどまでそこにあった殺気は綺麗さっぱり消えていた。
「……えっと、アタシ……なんで砂に埋まってるんスか?」
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■亡霊王子ハル
状態異常:死亡
■溟海のイル( )
所持金:なし
所持品:???、???、立派なコンブ
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