第3話 消失した祖国
女剣士の表情に、ほんの僅かな困惑が浮かんだ。
(マズい。失敗したか!?)
そう思った次の瞬間、彼女はぱっと顔を明るくした。
「あぁ、思い出した!夜の砂風呂を楽しみに来たんスよ」
褐色の頬に砂をつけた女剣士は、自分が砂浜へ半身埋まっている異常事態など意にも介さず、爽やかな笑顔を向けてきた。
「まるで根っこが生えたみたいに身体が砂に馴染んで、すっごく気持ちいいッス。君たちもどうッスか?」
その瞳には、一点の曇りもない。
『うわぁ……』
思わず声が漏れた。
恐るべき、イルの記憶改ざん能力。
深淵の幻によって、女剣士から「海魔に襲われた」という記憶は綺麗さっぱり消え去り、代わりに「夜の砂風呂を楽しんでいた」という、意味不明でありながら本人にとっては疑いようのない記憶へと置き換えられていた。
イルの異能はあまりに美しく――そして、完成されすぎている。
二千年もの間ザグロスを殺すため魔術の深淵を探求してきた僕ですら、その術理をまるで理解できない。人の記憶を傷一つ残さず書き換え、本人に偽物だと気づかせることさえない。魔術というより、現実そのものへの冒涜だ。
(……やはり、この力には頼りすぎない方がいい)
加えて、術の発動後には蒼黒い星屑のような魔力の「澱」が僅かに残っている。並の術者には感じ取れないだろうが、腕の立つ者ならこの残滓から異常な存在の接近を察知するかもしれない。
この力は万策尽きた時の最後の手段。
それ以外の障害なら、二千年積み重ねた僕の魔術と知恵でどうにかする。
そう決意を新たにし、僕は思考を切り替えた。
今、何より知るべきことがある。
『イル。彼女に聞いてくれませんか?僕の故郷、「イスカリア王国」の場所を。この辺りにあるはずなのですが』
「うん」
イルは頷き、砂から上半身だけ生えている女剣士と視線を合わせた。
「ねぇ、『イスカリア』って国、知ってる?」
「イスカリア……ッスか?」
女剣士はきょとんと首を傾げた。
その反応に胸の奥がざわつく。
(……なんだ、その表情は)
思い出そうとしているのではない。
本当に、生まれて初めて聞いた言葉に対する反応だった。
「知らないッスね。これでも世界中を旅してきたんスけど、そんな名前の国は聞いたこともないッス」
『…………』
そんなはずはない。
イスカリアは小国などではなかった。
かつて大陸最大級の版図と魔術技術を誇り、世界各地から魔術師や学者が集まっていた魔術大国だ。たとえ二千年の間に滅亡していたとしても、その名まで完全に忘れ去られるなどあり得ない。
国が滅びても。歴史は残る。遺跡も、文献も、伝承も。何かしら残るはずなのだ。
なのに、世界を旅したという彼女がその名前すら知らない。
(……まさか)
背筋を冷たいものが這った。
(姉上とザグロスは、イスカリアという国そのものを……歴史から消した?)
「それより、お嬢さん」
女剣士の声で我に返る。
「どこの貴族様か知らないッスけど、最近この辺りの魔物は妙に殺気立ってるんス。護衛もつけずに歩くのは危険ッスよ」
「そうなの?」
「あのワイバーンもそうッス。本来は山脈から滅多に下りてこないのに、急に近くの村を襲い始めたんス。空へ逃げたから、しがみついて倒したんスけど」
「すごい!空飛んだんだ!」
「まあ、気合ッスね!」
(気合でワイバーンに……)
「まあ、こんな時期に旅を続けるのはお勧めしないッス。ここから西へ行けば『オルトゥーラ』って国がある。そこでしばらく様子を見るといいッスよ」
『オルトゥーラ……』
知らない国だ。
二千年前の僕の記憶には存在しない。
なのに。なぜだろう。
その響きだけが妙に耳に引っかかった。
「大陸でもかなり歴史の古い国ッス。街には古書を扱う店も多いし、王城の書庫には昔の文献が山ほど眠ってるって話ッスよ。探してる国についても、何か分かるかもしれないッスね」
『――!』
書店。古書。王城の書庫。
そこになら、二千年の歴史に呑み込まれたイスカリアの痕跡が残されているかもしれない。
そして、蘇生魔法を完成させるための手がかりも。
絶望の中に一筋の道が現れた。
「そうだ。よかったら、アタシが送ってくッスよ?」
ありがたい申し出だ。だが、今の僕たちはあまりにも危うい。
陸上の常識をほとんど知らないイル。海魔であることを隠さなければならない彼女。そして、肉体すらない僕。
この女剣士が善人らしいからこそ、巻き込むのは避けたかった。
『どうする?ハル』
イルの声が意識へ直接響く。
『ありがたいですが、断りましょう。まずは僕たちだけで陸上の生活に慣れたいです』
『そっか』
イルは女剣士へ向き直った。
「平気だよ。ありがと!いい肉!」
『肉言うな!感謝の言葉になっていません!!』
「ははは、分かってるッスねぇ!お嬢さん。筋肉は正義っすから!」
幸い、本人は筋肉を褒められたと勘違いしたようだ。
こうして僕と深海モンスターは、二千年の空白を紐解くため、砂浜から半身だけ生えた女剣士に見送られながら西の国オルトゥーラへ歩き出した。
◆◆
「あぁぁ……水ぅ……」
真夜中。
切り立った崖沿いの街道を僕たちは西へ進んでいた。
松明一つない闇の中でも、深海で生きてきたイルと霊体である僕の視界には、昼間とほとんど変わらない景色が広がっている。
夜間でも快適な旅。と言いたいところだが、ここでひとつ問題が発生していた。
「……喉乾いた。肌、突っ張る。陸上ヤバイ……」
上陸から数時間。
最凶の相棒が見るも無惨に萎れていたのだ。
『本職の幽霊を差し置いて、なんて顔しているんですか』
「干からびるぅ……水に入りたい……」
イルは高水圧と深層水に育まれた深海モンスターだ。陸上でも活動できるとはいえ、乾燥した環境に長時間いること自体が身体へ負担をかけるらしい。
『水筒でもあればいいのですが……』
「水ぅ……海ぃ……」
ふらふらと幽鬼のように歩く彼女を見ながら、僕はもう一つの問題を思い出す。
イルの擬態能力には決定的な弱点がある。
それは、急激な環境変化だ。
水中で変身した姿は乾燥によって崩れやすく、逆に陸上で作った姿は大量の水を浴びれば解除される。それは、彼女の能力により変質したコンブ服も同じ。
つまり、オルトゥーラへ到着し、イルが噴水を発見。歓喜して飛び込み、擬態解除。豪奢なドレスが巨大なコンブへ戻る。そして――。
(衆人環視の中に、全裸の深海モンスター爆誕……)
ダメすぎる。
『……イル。よく聞いてください』
「んー?」
『街へ入る前に、水分と普通の服を確保します』
「このコンブ服、気に入ってるよ?」
『そういう問題ではありません!水に濡れて擬態が解けたら、その服もコンブへ戻るんですよ!』
「また変身すればいいじゃん」
『その間、全裸でしょう!?』
「べつに減るわけじゃないし」
『僕の理性が減ります!!』
「口うるさいハル。細かすぎるし」
『キミが大雑把すぎるんです!とにかく、街で噴水や水場を見つけても絶対に飛び込まないでください。絶対ですよ!』
「はーい」
まったく信用できない。
陸の常識を言い聞かせ続けながら街道を進んでいた、その時だった。
――…………。
『――ッ!?』
霊体の芯が唐突に震えた。
(……何だ?)
声ではない。音でもない。
なのに、何かが僕を呼んだ。
遥か先。闇の向こうから。
魂そのものへ細い糸を結びつけ、引き寄せてくるような不可解な感覚。
「ハル?」
『…………』
「どうしたの?」
もう一度。
――…………。
間違いない。
『イル!先へ!急いでください!!』
「え?」
『何かが僕を呼んでいます!早く!!』
僕の声に、イルの黄金の瞳がすっと細くなる。
先ほどまでの干物じみた顔は消えた。
「……にゃはっ。りょうかーい!」
ドッ!!
地面が爆ぜた。
イルの身体が一気に加速し、崖沿いの街道が凄まじい勢いで後方へ吹き飛んでいく。
速い。水の抵抗が存在しない地上では彼女の身体能力は完全に枷を外されている。
僕は意識を前方へ集中させ、イルから借り受けた魔力を雷属性の力へ変換した。
――雷魔法「雷占術」
バチチッ……!
僕の意識が電気信号となって大気を疾走する。空間を跳び、遥か数キロ先の情報が脳裏へ流れ込んできた。
「何か見えた?」
『――馬車です!』
ドドドッ……ヒヒィィィン!!
闇夜を裂く馬の悲鳴。荒れ狂う車輪。
急カーブへ猛速度で突っ込んでくる一台の豪奢な馬車。
だが、御者台には誰もいない。
手綱だけが虚しく垂れ下がり、馬は完全に制御を失っている。
『暴走している!急いで!!』
「うん!」
イルがさらに加速する。距離が縮まる。
残り三百メートル、二百、百。だが――。
「ハル!」
『くっ……!』
間に合わない。
あと数秒、ほんの僅かな距離だけ。
ガガガガッ!!
曲がりきれなかった馬車が、街道沿いの木柵を粉砕した。
車輪が宙へ浮く。馬が嘶く。馬車全体が闇の底へと投げ出された。
『――ッ!!』
ガシャンッ!!ガラガラガラッ――ドォン!!
谷底から凄まじい破壊音が響いた。
イルは崖際で急停止する。
ザザァァッ!!
砕けた石がぱらぱらと谷へ落ちていく。
遥か下には、岩肌へ叩きつけられ大破した馬車。
「……間に合わなかった」
イルが呟く。
『…………』
思わず、その横顔を見た。
ほんの数時間前、初対面の剣士を小石のように吹き飛ばして笑っていた彼女が、顔も名前も知らない誰かのためにそんな声を出すのか。
『…………イル』
「ん?」
『……いえ。何でもありません』
僕は崖下を見つめた。
まだ感じる。先ほどよりもはっきりと僕を呼んでいる。あの馬車から。
『イル。降りましょう』
「生きてる?」
『分かりません。ただ――』
視線の先にある谷底の闇。
そこから確かに何かが僕を引き寄せている。
『あそこに、僕たちを呼んだ何かがいます』
偶然ではない。僕はこの事故を目撃したのではなく、ここへ呼ばれたのだ。
イルと顔を見合わせると、彼女は迷わず崖下へ飛び降りた。
◆◆
同刻。大陸のどこか。
日の光が決して届かぬ暗い部屋。
パリンッ!
静寂の中、一つの指輪にはめ込まれていた宝石が唐突に砕け散った。
床へ転がる無数の欠片。その持ち主はしばらく微動だにしなかった。
「…………」
その時。
ギャァ――。
遠く闇のどこかで一羽のカラスが鳴いた。
ギャァ、ギャァ――。
呼応するように二羽、三羽と鳴き声が重なり、やがて不気味なざわめきとなって夜の静寂を揺らしていく。
まるで人には感じ取れぬ何かが、この大陸へ足を踏み入れたことを、本能だけで察したかのように。
ゆっくりと紅い瞳が開く。
その女の名はルザベリア・ベオ・イスカリア。
本来ならばとうの昔に死んでいるはずの女。
だが、その美貌には二千年という歳月の痕跡が一つとして刻まれていなかった。
ルザベリアは、砕けた指輪を見つめる。
長い沈黙の後、その唇が僅かに持ち上がった。
「…………帰ってきた」
部屋中の蝋燭が一斉に消えた。
「――ハル」
闇の中、彼女の身体が無数の黒い蝙蝠へと崩れ、ざわめくカラスたちを散らしながら窓から夜空へ飛び立っていった。
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■亡霊王子ハル
状態異常:死亡
■溟海のイル
所持金:なし
所持品:???、???、立派なコンブ
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