第1話 深海からの帰還者たち
「んぐっ……ぶしゅはぁぁぁぁぁーっ!!」
月明かりに凪いでいた海面が派手に爆ぜた。
深淵から勢いよく飛び出したのは、一人の異形の少女。
一糸纏わぬ肌は月光を透かすような美しい蒼色。濡れた髪と見紛う触手が艶やかに蠢き、漆黒の縁に囲まれた黄金の瞳が僕を見て愛おしげに細められる。
「やったー!着いたよ、ハル!大陸に!」
彼女はイル。深海で出会った僕の相棒だ。
『……ええ。本当に……長かった』
目の前には砂浜がある。その向こうには木々があり、さらに遠くには夜の山影が連なっている。
二千年ぶりの大地だ。
そして僕――ルトハール・ベオ・イスカリアは、そんな蒼い異形の少女に憑依している幽霊である。
生前なら肌で感じられた潮風も、砂の匂いも、夜気の冷たさも、足下の大地の感触も、今の僕には何一つ伝わってこない。相棒の肩に手を置くことさえ。
僕はイルの右肩から紫がかった霊体の半身をぼんやりと浮かび上がらせた。
『ようやく……戻ってきた』
二千年前、僕はこの世界で一度死んだ。姉上が喚び出した醜悪な悪神によって命を奪われ、肉体を失い、その後は霊体のまま絶海の深淵へと囚われ続けた。
長かった。本当に長かった。
祖国の人々も、文化も、見慣れた街並みも、今では何一つ残っていないかもしれない。狂ってしまった姉上だって、とうの昔に寿命を迎えているだろう。
だが、僕からすべてを奪った悪神だけは違う。奴には人間のような寿命がない。
『……必ず身体を取り戻す。そして、悪神ザグロスを見つけ出す』
暗く冷たい海の底で、二千年。ただ一つだけ、腐らせずに抱き続けたものがある。
『――今度こそ、この手で神を殺す』
「ねぇ、ハル」
『…………』
「まずどこ行って、何をやっつければいい?」
イルが黒く太い背骨のような尻尾をゆらゆらさせ、その先で僕の霊体をつつく真似をしている。
僕の二千年分の決意は三秒と保たなかった。
(この子は本当に、感傷に浸る時間さえ与えてくれない)
『そうですね。まずは――』
当然、ザグロスを探し出して消滅させる――と言いたいところだが、現在の僕には致命的な問題がある。
肉体がない。
魔術師は肉体を通して魔力を生み、蓄え、術へと変える。だが霊体となった僕には、その器そのものが存在しない。今の僕が魔術を使うには、イルから魔力を借りるか、周囲に大量の魔素が存在する場所に身を置くしかない。それどころか魔力供給が完全に途絶えれば、僕自身この世から消滅しかねない。
『まずは僕自身を復活させます。自分の足で歩き、自分の手で触れ、自分の魔力で魔術を唱える。そのための身体を取り戻す』
「でもハル、フッカツ魔法、下手なんでしょ?」
『下手とは心外な!未完成なだけです!』
「……へー。そうなんだ」
『なんですかその目は』
二千年前の記憶を頼りに、僕たちはなんとか祖国があったはずの大陸まで戻ってきた。
イスカリア王国――かつて世界有数の繁栄を誇った魔術立国だ。二千年という途方もない歳月が流れたとはいえ、あれほど巨大だった国が跡形もなく滅びるとは考えにくい。
『まずは僕の祖国へ向かいましょう。蘇生の魔術を完成させる術式か文献を探します』
「うん!なんかワクワクするね!」
砂浜へ降り立ったイルが僕へ振り返って無邪気に笑った。
身体を取り戻す。祖国の現在を知る。そして、ザグロスを殺す。
僕の失われた二千年を取り戻す物語は――ここから始まるのだ。
「あーあ。口うるさいハルとも、もうすぐお別れかぁ」
『僕だって!自由の利かないキミの身体なんて願い下げですよ!』
軽口を交わしながら、僕はふと陸上で活動するにあたり重大な問題へと気づいた。否、とっくに気づいていた。気づかないふりをしていただけだ。
『…………イル』
「ん?」
『その……陸上で、その姿はマズいです。色んな意味で』
目が合い、すぐに逸らす。
彼女は異形だ。だが、人型から大きく外れた姿ではない。むしろ豊かな胸部やしなやかな腰の線などは、どう見ても魅力的な人間の女性そのものである。
(見るな僕。海を見ろ。月を見ろ。素数でも数えていろ)
考えてみれば、イルに憑依してから三年間、それは僕にとって壮絶な精神修行の日々でもあった。服という文化そのものが存在しない深海で、一糸纏わぬ少女と二心同体。無防備な寝顔、泳ぐたびに揺れるけしからん果実。着替える必要すらないので逃げ場もない。
僕が何度、頭の中で素数を数えたか。
2、3、5、7、11、13――。
『と、とにかく!早く人間の姿に化けてください!それと身体を隠せる布も探しましょう!』
イルはイカやタコのように、肌の色や質感、ある程度なら体型まで自在に変化させられる。一部、あるいは全身を透明化することさえできる卓越した擬態能力だ。
「えー。変身すると肌が凝るんだもん。やだ」
『駄目です!僕の理性をこれ以上削らないでください!それに大陸では昔から、キミと同類の「海魔」は討伐対象――』
その危険性を説明しようとした、まさにその時だった。
ズドォォォォンッ!!
砂浜が揺れた。
巨大な何かが夜空から墜落し、僕たちの眼前へ叩きつけられた。
巻き上がる砂煙、折れた翼、巨大な顎――ワイバーン。それも成体だ。稀に人里へ迷い込めば、小国なら傾くほどの被害をもたらす空の暴威がすでに息絶えている。
そして、舞い上がった砂塵の向こうから、一つの影が降り立った。
金色の髪。褐色の肌。
無駄なく鍛え上げられた肉体。軽装の鎧を纏った長身の美しい女剣士だった。
彼女は青い片手剣を何気なく砂へ突き立てる。
ドスッ。
大振りでもない剣の切っ先が根元近くまで砂へ沈み、周囲の砂まで軽く跳ね上がった。
(……重い)
見た目からは考えられない重量だ。
女剣士は乱れた金髪をかき上げ、倒れたワイバーンを見下ろす。
「ふぅーっ。筋肉を定義するのは――最後に立っていられるかどうかッス」
そう言って屈み込み、ワイバーンの瞼をそっと閉じさせた。
「あの世で鍛えなおして来るッスよ」
(……この人ッ)
僕は反射的に魔眼を開いた。霊体の瞳を通し、女剣士の身体を巡る魔力を読む。
太い。密度が高い。しかも、ただ大量の魔力を持っているだけではない。身体強化へ淀みなく流し込み、剣にまで精密に循環させている。
明らかな手練れ。それも、そこらの騎士とは比較にならない。
そんな女剣士が顔を上げ、僕たちを見た。
「…………」
彼女の澄んだ青い瞳がイルの頭から足先までをゆっくりとなぞる。触手。蒼い肌。黄金の瞳。黒い尾。そして――全裸。
女剣士の目が見開かれ、その青い瞳の奥で、赫い光が一瞬だけ瞬いた。
「――って、なッ!?こんなところに海魔ッスか!!?」
『ひえっ!』
来た。言おうとした矢先に来た。
彼女は砂へ突き立てていた青剣を一息に引き抜き、こちらへ構えた。先ほどまでの気の抜けた雰囲気は消え失せ、全身から凄まじい魔力が立ち昇る。
「災厄級討伐対象……アタシ一人――やるしかないッスね!!」
褐色の筋肉が躍動した。
『だから言ったでしょう!陸上で「海魔」は即討伐対象なんです!!』
二千年ぶりの大陸帰還。上陸して数分。早くも討伐対象になった。
しかも相手は魔眼で見ても英雄……いや勇者級の実力者。その殺気が砂浜を満たす。
一触即発。そんな中。
「ねぇ、ハル」
『何ですか!?』
イルがワイバーンを指差した。
「あの肉、食べていいやつ?」
『ブッ!!』
思わず吹き出した。
『この状況で気になるの、そっちですか!?』
「だって、新鮮だよ?」
『今まさに襲われかけてるんですよ!?』
「じゃあ、あっちの肉は?」
『人間です!!食べ物の選択肢に入れないでください!!』
「ちぇ。……じゃあ戦っていい?」
『見つかった時点で面倒なんです!彼女が仲間を呼ぶ前に、まずは何とか話を――』
「はいはい。ハルは黙ってて!」
ドッ!!
イルが踏み込んだ瞬間、足下の砂浜が爆ぜた。
『人の話を聞きなさいっ!!』
僕の霊体が後ろへのけ反り、視界が一気に女剣士へ迫る。
「速――ッ!」
女剣士の反応も尋常ではなかった。踏み込みに合わせ、完璧なタイミングで青剣が振り抜かれる。音を置き去りにする速度。刀身を炎熱が包み、夜の砂浜を赤く照らした。
ワイバーンすら斬り伏せたであろう一撃。洗練された剣技。魔力の乗せ方も、間合いも、一切の無駄がない。
普通の魔物なら……いや、並の海魔でさえ――これで終わる。
『イルッ!!』
――ギィィィィンッッ!!
耳を劈く金属音とともに、大量の火花が夜闇へ散った。
「――マジッすか!?」
女剣士の表情が初めて崩れる。
イルは避けなかった。黒く無骨な尾を一振りしただけ。それだけで必殺の青剣を正面から弾き返したのだ。
剣を通じて衝撃を受けた女剣士の体勢が大きく開く。それでも彼女は即座に足を踏み替え、剣を戻そうとした。
さすがだ。だが、僅かに遅い。
「――え?」
彼女の視界からすでにイルは消えている。
ズドッ!!
「がはッ!!」
最下段からの蹴りが腹部へ突き刺さり、女剣士の身体がくの字に折れた。
海中では常に水という巨大な抵抗の中を動いていたイル。その身体が抵抗のない地上へ解き放たれればどうなるか。
答えは単純だった。
――速すぎる。
達人の動体視力すら追いつかない理外の速度。
女剣士の身体が宙へ浮く。
「バイバイ」
イルが無邪気に掌を向け、その腕から掌へ蒼黒い魔力が一気に凝縮する。
女剣士の顔色が変わった。
「……ッ!!嘘っ!?」
彼女ほどの実力者だからこそ分かってしまったのだろう。次に来るものを受ければ、死ぬ。
僕の魔眼には、女剣士が間違いなく人間の最高峰に近い剣士だと映っている。
――人間としては。
『ちょ、イル!加減を――』
ズッバァァァァァァァァァン!!!
間に合わなかった。
夜の海岸を蒼黒い奔流が貫いた。炸裂した大量の水が砂浜を抉り、女剣士の身体を呑み込む。
そして、人が飛んだ。ものすごく飛んだ。
月明かりの下、どんどん小さくなっていく。
『…………』
「…………」
やがて。
……トスン。
遥か彼方の砂浜に落下する小さな音。
「おー。意外と飛んだぁ」
『「飛んだぁ」じゃない!!』
僕は霊体のまま頭を抱えた。
『ああもう!殺しは駄目だと最初に言っておくべきでした!』
「知らなかったもん」
『普通は言わなくても分かるんです!』
「普通?……わたし普通じゃないの?」
『あーもう!!……起きてしまったことは仕方ありません。まず彼女の生死を確認します。それと!』
イルがびくっとする。
『その前に、その全裸を何とかしてください!!』
「まだ言ってる」
『一番大事です!!』
「うるさいなぁ……」
イルは頬を膨らませながら、浜辺へ打ち上げられていた巨大なコンブを拾い上げた。
ばっ、ばっ、と水気を払い、身体へぐるぐる巻きつける。
「これでいい?」
『少なくとも全裸よりは百倍いいです』
「じゃあ、ついでに」
イルが目を閉じる。
次の瞬間、蒼い肌がすうっと色を失った。透き通るような白い肌へ変わり、背中から伸びていた黒い尾の輪郭は空気へ溶け、頭部の触手もしなやかな蒼髪へと姿を変える。
さらに、身体へ巻きつけただけだったコンブまでもが異能によって形を変えていく。黒と青を基調とした布地。縁には黄金色の模様。腰から裾へ流れる優雅な曲線。
数秒後、僕は完全に言葉を失った。
「どう?」
月下に立っていたのは、もはや深海の怪物ではなかった。
白い肌。サファイアを砕き、星明かりを閉じ込めたような蒼髪。そして豪奢な黒青のドレス。
貴族令嬢――いや、事情を知らなければ美の女神だと紹介されても信じてしまうかもしれない。
『よ……よく似合っています。これでようやく、僕も安心してキミを直視できますね』
「え?」
イルの口元が、にやぁ、と歪む。
「ハル、今まですっごい見てたじゃん。むっつり!」
『み、見てませんよ!!』
「見てたー!」
『霊体は視界を塞ぐのも一苦労なんです!不可抗力です!』
「にゃはは!顔が真っ赤だ!」
『体温すらない霊体が赤面するわけないでしょう!これは、その……炎の精霊のいたずらです!!』
二千年の時を越えて帰還した王子が、大陸へ上陸して最初にすることが、裸の少女を前に必死の弁明とは思わなかった。
そんな僕の尊厳など早くも興味を失ったらしく、イルはくるりとワイバーンへ振り返る。
「じゃ、あの肉、確かめよっと」
『待ってください。それ、人命救助ではなく食材確認の言い方ですよね?』
◆◆
女剣士は砂浜へ足から突き刺さっていた。
『…………』
「生きてる?」
僕は魔眼を使い、彼女の状態を確認する。魔力循環に乱れはあるが大きな損傷はない。呼吸もしている。
『……気絶しているだけです』
「よかったー。ハルに怒られなくて」
『はは、一応気にしてたんですね』
もし肉体のある僕があの攻撃をまともに食らっていたなら、間違いなく身体が何個かに分かれている。
『イル。この人、間違いなく英雄級の手練れです。それを小石みたいに飛ばして……少しは加減してください』
「はーい」
『気のない返事!』
ともあれ、最悪の事態だけは避けられた。人を殺してはいない。
それはいい。問題は――。
『……君の本来の姿を、完全に見られましたね』
「うん」
『しかも、その直後に彼女をぶっ飛ばしました』
「うん!」
『元気よく返事するところではありません』
大陸へ上陸した海魔。英雄級の剣士を襲撃。そして逃走。この三つが揃えば、どうなるか。
『――無事、お尋ね者確定です』
「おたずねもの?」
『どこへ行っても追いかけ回されるってことです!』
イルの目が、ぱっと輝いた。
「楽しそう!!」
『はぁ……』
場合によっては国そのものが討伐へ動く。
復活方法を探しに来たというのに、上陸初日から国家戦力に追われるなど冗談ではない。肉体などないのに、胃が痛い。頭も痛い。
(……さて、どうするか)
最も簡単な解決方法ならある。
この女剣士を殺す。死人は喋らない。
だが、それだけはあり得ない。彼女は人間として、侵略者と認識した海魔を排除しようとしただけだ。何一つ悪くない。そんな相手を自分たちの都合で殺すなど僕にはできない。
ならば、別の方法を――。
「んー。じゃあ、もうアレ使お」
『…………』
僕の葛藤をイルが一秒で吹き飛ばした。
『アレって……まさか』
「うん」
イルは気絶した女剣士の前へ歩み寄った。その黄金の瞳がゆっくりと妖しく輝いた。
「忘れてもらえばいいんでしょ?」
『…………イル』
嫌な予感がする。とても嫌な予感が。
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■亡霊王子ハル
状態異常:死亡、頭痛、胃痛
■溟海のイル
所持金:なし
所持品:???、???、立派なコンブ★New
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