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ありのままおじさん 〜恋愛小説のヒロインに転生したら、婚約者と男の友情が芽生えた〜  作者: 上園 千紗


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第3話 リゼットのこと

 部屋に戻ると、アベルは本棚に並んだ本を片っ端から開いていった。


 本には見慣れぬみみずのような文字が並んでいた。


「君も手伝ってくれ! ニホンについて書かれた本があるはずだ」

「すまん、この文字読めねえ」


 ページをめくるアベルの手が止まった。


「あなたは……本当に異国の人間なんだな」


 手元に視線を落としたまま、独り言のように言った。


「ここは何て国なんだ?」


 目についた本を適当に取って、アベルに尋ねた。


 死んだお袋は書道家で、言語問わず文字が好きだった。

 その影響で、様々な文字を見せられていたが、目に映る文字には全く見覚えがなかった。


「ドイツという国だ」

「ドイツ!?」


 どうりでパンが硬いわけだ。


 ドイツ語はこんな文字ではなかった気がするが、昔の文字かもしれない。

 なんにせよ、夢と現実が入り混じったような感じだ。


「知っていたのか?」

「名前は知ってるが、詳しくは知らん」


 学のなさが悔やまれる。

 しかし、ドイツがあるなら日本の存在も期待できる。


 アベルは次の本を開きながら、小首を傾げた。


「つまり、あなたはニホンで暮らしていたが、なぜかドイツのリゼットに憑依してしまったと? ニホンに行けば、あなたの身体に戻れるんじゃないか?」

「いいや。多分そんな簡単な話じゃねえよ」


 俺は手に持った本を見ながら言った。

 ずいぶんとボロボロなその本の中には、見つめ合う男女の挿絵が描かれていた。


「これは写本か?」

「そうだよ。活版印刷もできるけど、リゼットはお気に入りの本を自分で書き写しているんだ」

「活版印刷はどうやってやるんだ?」

「活字を組んで、インクをつけて紙に押すんだ」

「俺がいた世界では、機械に紙を入れればボタンを押すだけで印刷ができた」

「なっ……そんなことがあるわけ……」


 アベルは言いかけて、口を閉ざした。

 俺の顔を見て、大きく目を見開いた。


「それが俺のいた世界だ。こことは全く違う」


 本を閉じて、壊さないようにそっと元に戻した。

 アベルはさらに眉間のしわを深くして、質問を続けた。


「じゃあ、あなたは異国というより未来の世界から来たのか?」

「多分そんな感じだ」


 厳密には「本の世界に入ってしまった」という説が今のところ一番有力だ。

 アベルのおかげで、俺も少しずつ状況が整理できてきた。


「ますますわからないな……」

「今考えてもわからんさ。とりあえず日本の本を探そうぜ」

「そうだな」


 アベルはそう言って、次の本を手に取ろうとしたが、不意にこちらを見た。


「そうだ。ニホンの本も書き写していたはずだ。あなたは手書きの本を出してくれないか?」

「わかった」


 アベルに言われた通り、手書きの本を探して近くのテーブルに並べていった。


「なあ。リゼットはどんな人なんだ?」

「ちょっとお転婆だけど、芯のある優しい子だよ。お義父さんが貿易商なこともあって、昔から異国の文化が好きでね。ここにあるのも、ほとんど異国の本だ」

「へえ。すげえ数だな」


 本の香りは、実家の本棚を思い出させる。

 寺で受け継いでいる膨大な書物に、お袋と穂香が買った大量のラノベが紛れ込む、無秩序な本棚だった。


「二人はいつ婚約したんだ? てかアベルは何歳なんだ?」

「婚約は私が五歳の時だったかな。私は二十で、リゼットは十八だ。来月のリゼットの誕生日に合わせて正式に婚姻する予定だ」

「五歳!? てかお前二十歳なのか!?」


 アベルはうなずいた。


 穂香の三つ下だ。

 とてもそうは思えない、大人びた雰囲気だ。


「お前とリゼットは幼馴染なんだな」

「そうだよ。小さい時からずっと一緒だった」

「はーすげえなあ。純愛じゃねえか」


 口に出してから、少し後悔した。

 若者の純愛が、突然君臨した四十のジジイに蹂躙されているからだ。


 ほんのりとした後ろめたさを感じつつ、黙って作業に戻った。


 しばらくして、一冊の本が目に留まった。


「おい、これじゃねえか?」


 表紙に、日本によく似た形の島が描かれていた。


「ニホン……確かにそう書かれてる。どうしてわかったんだ?」

「日本だからだ……」


 俺はそっと地図を指でなぞった。

 全体的に少し丸い形状をしているが、馴染みのある日本の形だった。


「これが北海道、でこの長いのが本州、ちっちぇえ島が四国で、端っこが九州。もっと下の方に沖縄って島もある」


 この世界にも日本がある。

 俺が生きていた日本と別物なのはわかっているが、それでも心が揺さぶられた。


「これがあなたの故郷なんだな」

「ああ。中はなんて書いてあるんだ?」


 アベルに本を渡すと、早速中を読み始めた。


「ずっと東にある国だと。あとは……そうだな、テラやジンジャの教えを守って生活しているらしい。教会みたいなものなのか?」


 アベルはそう言って本をこちらに向けた。

 お寺らしき絵が描かれていた。


「教会……まあそうだな。俺の実家も寺だったんだ」

「じゃああなたは牧師なのか?」

「俺はただの雑用だ。親父が牧師みたいなもんだ」


 アベルは興味深そうにうなずきながら、パラパラと他のページにも目を通した。


「少しこの本を読む時間が欲しい。読み終わったらあなたにも内容を伝えよう」

「助かる」


 本を閉じると、アベルは目を伏せて表紙を見つめた。


「リゼットは、ずっと異国に留学したがってたんだ」

「留学? そりゃ大変だろ」


 この時代は異国に行くだけでも命がけなのではないだろうか。

 アベルがお転婆と言うだけある。


「ああ。特に東方の国にはご執心でね。ニホンにも興味があったみたいだ。昨日もそれでお義母さんと大喧嘩さ」


 苦笑いしながらアベルは言った。

 リゼットが書いた文字をそっと指でなぞりながら、言葉を続けた。


「私も反対したんだ。近隣の国ならまだしも、船で何週間もかかるような国は女性には危険だと」


 アベルは長く息を吐くと、ゆっくり顔を上げた。

 そして俺を見て、とても優しい顔で笑った。


「味方になってやれば良かっただろうか。でもやっぱり、たった数ヶ月だとしても心配だったんだ」


 笑ったまま、不意にその瞳から一筋の涙が流れた。

 指でそれを拭うと、アベルは驚いた顔をした。


「あれ? 僕は、なんで……」


 次々と溢れ出る涙に、アベルは戸惑っている様子だった。

 肩が小刻みに震えて、次第に嗚咽が大きくなっていく。


 俺は何も言えなかった。

 リゼットの身体を持つ自分の一挙一動が、今はアベルを苦しめる。


 ジャケットのポケットに手を入れると、ハンカチが入っていた。

 静かにアベルの前にそれを置いて、何も言わずに見守った。


*    *    *


 それからしばらくアベルが落ち着くのを待って、帰ると言うので玄関まで付き添った。


「見苦しいところを見せてすまなかった」

「誰も見苦しいだなんて思わねえよ。泣きたきゃ泣け」


 急に婚約者の中身が別人になって、自分のことすら覚えていない。

 こいつにとっては地獄のような状況だ。


「じゃあ、また来る」

「おう、気をつけてな」


 アベルを見送って、部屋に戻ろうとしたが道がわからなかった。

 近場にソファーのある部屋を見つけて、ひとまずそこで座った。


 誰かが通りがかったら救助してもらおう。


「疲れたな……」


 泣きじゃくるアベルの姿が目に焼き付いて離れなかった。

 大人びて見えたが、まだ二十歳だ。

 四十の男でも辛いのに、そう簡単に受け入れられる現実じゃない。


「俺は一体誰なんだ……」


 慣れない自分の声を聞くたび、心がチクチクした。


 悪魔、怨霊、別人格。


 ここに来てから言われた言葉が頭をよぎった。


 権田武という人間は本当は存在していたのだろうか。

 俺が権田武だと証明する術は、ここには何もない。


 胸が苦しくなってきて、考えるのをやめた。


「リゼットさま、どちらですか? リゼットさまー!」


 廊下からリゼットを呼ぶ声が聞こえた。

 俺は思わず身を隠すようにして、ソファーに身体を横たえた。


「誰か助けてくれ……」


 目を閉じて、だだっ広い部屋で一人つぶやいた。

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