第2話 アベルさま
「な、なんて格好をしてるんだ!」
赤毛の男は顔を真っ赤にすると、自分が着ていたジャケットを脱いで俺の肩にかけた。
「お、ありがとな。これなら俺も着れる」
「俺……?」
ジャケットに袖を通して、肩をぐるぐる回した。
ちょっと大きかった。
「朝飯食べたいんだが、どこで食えるか知ってるか?」
「リゼット……? 何を言ってるんだ?」
「何って、朝飯だよ。メイドの姉ちゃんが朝飯食えるって」
赤毛は目を見開いたまま固まっていた。
「リ、リゼット。本当にどうしてしまったんだ? いつもの君じゃな――」
「だから、俺はリゼットじゃない」
「君はリゼットだろう!」
俺の肩を掴んで、赤毛が叫んだ。
「違う、俺は権田武だ」
「ゴンダ……タケシ……?」
「そうだ。それが俺の名前だ」
赤毛は目を見開いたまま、しばらく俺を見つめていた。
しかし、やがてストンと力が抜けて、肩に乗せられた手が落ちた。
「……わかった。とりあえず食堂に行こう。君のお母さまも呼んでくるから」
「お、助かる! 飯だ飯!」
赤毛について、俺は食堂へ向かった。
* * *
「なあ、箸があったらもらえねえか?」
目玉焼きをフォークで半分に折りたたみながら、俺は近くのメイドに尋ねた。
「ハシ……とはなんでしょうか?」
箸を知らないとなると、やはりここは外国なのだろう。
なぜ日本語が通じるのかわからないが、都合はいい。
目玉焼きを一口で食べると、向かいに座る赤毛と母(仮)があんぐりと口を開けた。
「リゼット、いい加減にしなさい! その食べ方はなんなの!」
「お義母さん、落ち着いてください。この人の話を聞きましょう」
勢いよく立ち上がった母を、赤毛が宥めた。
「先ほども話したように、今のリゼットは……いつもと明らかに様子が違います」
「悪魔憑きか何かとでも言うの? それとも生霊?」
「それにしては、品がないだけで話が通じすぎているんです」
「おい、品がないとか言うな。おっさんなんてこんなもんだ」
パンをちぎりながら言った。
硬かった。
「すまない。もう少しあなたの話を聞かせてくれないか? 私はアベルという」
赤毛ことアベルは、そう言って小さく頭を下げた。
「アベル……?」
聞き覚えのある名前だった。
パンを咀嚼しながら、記憶の糸を手繰り寄せる。
「アベル……アベルさま?」
思い出した。
穂香がしょっちゅう口にしていた名前だ。
あいつが昔から愛読している「溺愛なんとか――」という小説のキャラクターで、中でも「アベルさま」にはご執心だった。
「ああっ!」
同時にもう一つ思い出して、俺は思わずパンを皿に落とした。
アベルと母が、ビクッと身体を震わせた。
「ど、どうした?」
「思い出した、あいつ俺をぶん殴りやがった」
「は?」
プリンを勝手に食ったのがバレたあと、穂香に本で思い切りしばかれた。
権田武としての記憶は、そこで途切れている。
俺は大きくため息をついて、頭を抱えた。
あの時殴られた本の表紙には、赤毛の男が描かれていた。
目の前にいる、このアベルだ。
この男が本の登場人物だとしたら、俺は本の世界に入ってしまったのだろうか。
「大丈夫か?」
「ああ……」
頭が混乱してきた。
雑念を振り払うよう、小さく首を振った。
「じゃあ……そろそろあなたのことを教えてくれるか?」
「俺は権田武。四十三歳、独身だ」
「出身は? 異国か?」
「日本っていう東にある小さな島国だ」
「二ホン……?」
黙って聞いていた母が、不意にその言葉に反応した。
顎に手を当てて、眉間に深いしわを刻んでいた。
「それで……ゴンダ」
アベルはテーブルの上に置いていた手を組むと、思いつめたような表情で俺を見た。
「あなたが入ってるその身体は、私の婚約者のリゼットの身体なんだ。どうか……リゼットを返してもらえないだろうか」
「そりゃ俺だって返したいけど、どうすりゃいいかわかんねえよ」
アベルの肩がわかりやすく落ちた。
隣に座る母も、段々と表情が陰ってきた。
「では、その身体にはどうやって入った?」
アベルが静かに尋ねた。
事実を言ったところで、こいつらには理解できないだろう。
そもそも俺自身も理解していない。
少し考えたが、結局良い説明が思いつかなかった。
「本で殴られたら、この身体になってた」
嘘は言ってない。
アベルと母は、何も言わずに二人で顔を見合わせた。
アベルはそのまま俺の方を見ると、眉根を寄せて言った。
「……何でリゼットに?」
「知らねえ」
むしろ俺が聞きたかった。
本当なら今ごろ、住み慣れた家でたくあんと米を食べている時間だ。
それなのに、今は見知らぬ城のような場所で、カチコチのパンを食べている。
俺はパンを見ながら、小さく鼻を鳴らした。
隣に置かれたデザートのりんごを一切れ掴んで、かじった。
普通のりんごだった。
なぜかその味に、少しホッとした。
「……返して」
「なんだって?」
静かに座っていた母が、ゆらりと立ち上がった。
その拳がプルプルと震えていた。
「リゼットを返しなさいよ! 今すぐ!」
「うおっ!」
「お義母さん!」
突然母に胸倉を掴まれて、手の中のりんごが吹っ飛んでいった。
「出ていけ! この悪魔ぁああ!」
「落ち着いてください! 誰か!」
騒ぎを聞きつけたのか、兵隊のような男が四人、食堂に駆けこんできた。
暴れる母は四人がかりで引き剥がされて、部屋の外へ連れ出された。
バタンと扉が閉まり、場に静寂が訪れた。
「……なんか、悪いな。俺もできるなら、リゼットを返してやりてえと思ってる」
首をさすりながら言った。
襟元がビヨンと伸びていた。
アベルはヨロヨロしながら椅子に座ると、テーブルに顔を伏せた。
「あなたが謝ることはない」
突っ伏したまま、アベルは言った。
力のない声だった。
「俺に気を遣わなくてもいいぞ」
俺は残ったりんごを口に放り込んだ。
「あなたは帰りたいと思わないのか?」
「そりゃあ日本に……家に帰りてえよ」
シャクシャクとりんごを噛みながら答えた。
帰りたいと言っても、今のところ何一つ手掛かりがない。
「二ホン……」
「なんだ? 知ってんのか?」
「ああ、思い出した! リゼットが話してた異国だ!」
アベルはそう言って立ち上がった。
勢いが良すぎて、椅子がバタンと後ろに倒れた。
「リゼットの部屋だ! 来てくれ!」
「お、おお?」
アベルに手を引かれながら、俺は走って部屋へ戻った。




