【第11章】第6話「最後の部室」
卒業式が終わった放課後。
校内にはまだ卒業生たちの姿が残っていた。
廊下では写真を撮る声が聞こえ、中庭には花束を抱えた生徒たちが集まっている。
春らしい穏やかな空気だった。
そんな中、天文部のメンバーはいつものように部室へ集まっていた。
ただ一つだけ、いつもと違うことがある。
今日が本当に最後の日だった。
和希と昴が、天文部員として部室へ来る最後の日。
部室の扉が開く。
「失礼しまーす」
和希がいつもの調子で入ってくる。
その後ろから昴も姿を見せた。
「おめでとうございます!」
夕花が真っ先に言った。
「卒業おめでとうございます!」
紬も続く。
透真たちも口々に祝いの言葉を伝えた。
和希は少し照れたように笑い、昴も小さく頷く。
それだけなのに、なぜか胸が熱くなる。
いつもと同じはずなのに。
今日だけは違った。
しばらくみんなで話をしていると、夕花が紬へ目配せをする。
紬も小さく頷いた。
「先輩たち」
夕花が呼ぶ。
「ん?」
和希が顔を上げる。
紬は少し緊張しながら机の下から包みを取り出した。
「これ」
小さな花束だった。
派手ではない。
でも、二人に似合うように選ばれた花が丁寧にまとめられている。
「みんなで選んだんです」
夕花が言う。
「卒業祝い」
一瞬、和希が目を丸くした。
昴も珍しく少し驚いたような表情を見せる。
「ありがとう」
和希は花束を受け取りながら笑った。
その笑顔を見た瞬間、夕花と紬もほっとしたように顔を見合わせる。
「いいじゃん」
裕翔が言う。
「似合ってますよ」
伊織も微笑んだ。
「ありがとうございます」
琉衣も小さく頭を下げる。
薫は少し照れくさそうに視線を逸らしながらも、
「お世話になりました」
と短く言った。
その一言が、妙に重かった。
部室には穏やかな時間が流れる。
笑い声もある。
思い出話もある。
文化祭の話。
合宿の話。
観測会の話。
どれもつい昨日のことのようだった。
けれど時計の針は止まらない。
気付けば外は夕暮れ色に染まり始めていた。
和希が窓の外を見て言う。
「そろそろ行くか」
その言葉のあと、誰かが息を飲む気配がした。
部室が静かになる。
誰も止めない。
止められない。
卒業とはそういうものだから。
和希は立ち上がった。
椅子の脚が床を擦る小さな音が響く。
そしてみんなを見渡す。
一人ひとりの顔を確かめるように視線を巡らせてから、
「今までありがとう」
その声はいつも通りだった。
優しくて、少しだけ照れくさそうで。
「楽しかった」
透真は小さく頷く。
喉の奥が詰まりそうで、言葉が出なかった。
言葉にすると泣いてしまいそうだった。
昴も立ち上がる。
制服の袖を軽く整え、それから透真を見る。
「透真」
「はい」
「あとは頼んだ」
短い言葉だった。
でも、その一言にはたくさんの意味が込められていた。
部長。
天文部。
みんなのこと。
全部。
透真はまっすぐ頷いた。
「はい」
笑顔だった。
ちゃんと笑えていた。
けれど膝の上で握った手には、自然と力が入っていた。
だから昴も小さく頷く。
それで十分だった。
和希は扉の前で振り返る。
ドアノブに手をかけたまま、ほんの一瞬だけ部室を見渡した。
そして少し笑った。
「じゃあね」
誰かが返事をする前に、和希は手を振った。
その手の動きはいつもと変わらない軽さだったのに、なぜか目に焼き付いた。
昴も静かに頭を下げる。
下げた顔を上げるまでのわずかな間が、妙に長く感じられた。
そして二人は部室を出ていった。
廊下へ遠ざかる足音が数歩分だけ聞こえ、やがて止む。
扉が閉まる。
かすかな金属音が部室に響き、その余韻が消えると、静寂が落ちた。
誰もすぐには話さなかった。
夕花は膝の上で指先をそっと重ね、紬は視線を落としたまま瞬きを繰り返している。
窓の外から聞こえていた生徒たちの笑い声も、どこか遠く感じられる。
風に揺れた木々の葉擦れの音だけが、かすかに耳に届いた。
透真は自然と窓際を見る。
和希の席。
昴の席。
そこには誰もいない。
冬の間も空いていた席だった。
でも違う。
あの頃はまた会えた。
部室へ来れば、きっとまた座ってくれる気がした。
だけど今は違う。
本当に最後だった。
透真はゆっくりと息を吐く。
胸の奥が苦しい。
寂しい。
どうしようもなく。
「……卒業したんだな」
小さく呟く。
その声は少しだけ震えていた。
夕花も黙っている。
唇をきゅっと結び、窓の外へ視線を向けていた。
紬も俯いている。
制服の裾をそっと握りしめている。
裕翔は天井を見上げていた。
何かをこらえるように一度だけ深く息を吸う。
伊織も静かだった。
眼鏡の位置を直したあと、何も言わず目を伏せる。
琉衣は何も言わず透真の隣に立つ。
その距離だけが、今は心強かった。
薫だけが窓際の席を見つめている。
瞬きも少なく、じっと。
部室は静かだった。
時計の秒針の音が、いつもよりはっきり聞こえる。
けれど不思議と空っぽではない。
和希と昴がいた時間。
一緒に見た星空。
受け取った言葉。
残してくれたもの。
それがちゃんとここにある。
透真は目を閉じた。
そしてゆっくりと顔を上げる。
窓の外には夕焼けが広がっていた。
茜色の光が校舎の壁を染め、部室の床へ長い影を落としている。
風に揺れたカーテンがかすかに音を立てた。
春の空だった。
その光の向こうへ続くように、先輩たちは歩いていく。
もうこの部室に、当たり前のように戻ってくることはないのだろう。
ふとそんな思いが胸をよぎり、透真は唇を結んだ。
少し寂しい。
でも。
それでいいのだと思った。
沈黙の中に残る温かさが、その答えを教えてくれている気がした。
天文部は続いていく。
自分たちが受け継いだから。
透真は静かに空を見上げた。
夕焼けの眩しさの奥に、これからの時間が広がっているように見えた。
その瞳には、もう前を向く強さが宿っていた。
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