幕間 在りし日のとある夜
600話記念、幕間。
忘れるな取り戻したいものを。
道はまだ半ばである。
「前から気になってたんだけど、お前それ、前見えてんの?」
アルブランドー邸のリビング、珍しく皆が揃い、のんびりと各々好き好きに時間を過ごしていた夜のことだった。
皆が気になってはいても、尋ねなかったこと。ツカサが気になって尋ねてみても、回答を得られなかったことを、アルが平然と尋ねた。カチャリと置かれたティーカップ。なんてことを聞くんだという視線がアルに注がれ、その視線の圧に本人は急に挙動不審になった。
「な、なんだよ、だって気になるだろ」
「それはそうだけど、俺が聞いてもラングは答えてくれないんだから、アルが聞いたところで無駄じゃない?」
「お、出た、兄貴大好き発言! モニカ、本当にツカサでいいのか?」
「ちょっと! やめてよ! 今のは普通の会話でしょ!?」
などと言いながらツカサは不安そうにモニカを振り返り、はいはい、とそちらでは紅茶を飲みながら視線を逸らされていた。目元が笑っているので揶揄っているのはわかるものの、不安は不安、ツカサはそっとモニカの座るダイニングテーブルの方へ移動し、モニカ? と尋ね、笑われていた。楽しそうに笑うモニカにホッとしつつも、揶揄われたことには物申すツカサの姿にアルは笑う。その肘をラングのマントが掠めた。座っていた専用の椅子からソファに移動する際、敢えて当てられたものだ。
「揶揄ってやるな」
「ラングも弟に甘いんだよなぁ」
弟大好き発言、とでも言えば黒いシールドの中から睨み返されただろう。さすがに怒られる、叱られるまで遊ぶのは揶揄いの範疇を超えてしまうのでやめておいた。こういう線引きは面倒事を避け、誰かが不愉快になるのを防ぐのだ。ふぅ、と呆れた溜息をつきながらエレナがティーカップとポットを持ってきて、ラングの隣へ座った。
「お茶はいるかしら?」
「ありがとう、貰いたい」
はい、はい、とエレナが注いでくれた紅茶を受け取り、ラングは改めて礼を言う。そうした礼儀を忘れることのない男は相手を不快にはさせない。
「変なシールド着けてんのに、不思議だよなぁ。まぁ、だからこそ一挙手一投足気をつけてるんだろうけどさ」
「先ほどから何なんだ」
「いや、ほら、戦う時は相手の目線を読んだりするだろ? ラングのシールドがそれを防ぐためでもあるってのはわかるんだ」
アルが技術的な会話を始めれば、ツカサはピクリと動いて顔を向けた。モニカに促されてソファへ来ると、ツカサはアルの隣に座り、アルはそれを待ってから続きを話した。
「そこが硬いだろうと思うと、下手なことに一手使うよりも別のところに、って思うのもある。逆に視界が狭められてるなら、って側面を狙ったりな」
「そんなことを考えるんだ」
「ツカサは魔法で一気に全面を攻められるから、あんまり気にしないだろうけど、俺とかアーシェティアは結構読んでる方だと思うぞ? 槍も斧も、一撃の後にはどうしたって隙が大きいからな」
「確かに。動物の狩りであっても、行動には予備動作がある。人であれば足の向き、視線、体勢から、本当に動く方向はどちらなのか、を見極めようとしていると思う」
言われてみれば、といった様子でアーシェティアが腕を組み、モニカにすごいね、と驚かれていた。ツカサは目を輝かせて再びアルを見た。
「だから気になるんだよ、ラングにとってそれがどう見えているのか」
黒いシールドの中から外が見えているのか。それとも気配を読んで動いているのか、という質問なのだと気づき、ツカサもラングを見た。ラングはティーカップを傾けて紅茶を飲み、ふぅ、と心地よさげに一息ついた。ティーカップをテーブルに戻してからシールドが正面に座るアルとツカサへ向いた。
「答える義務はない」
「そうだけどよ、あぁー、惜しい」
「何が?」
「聞く場所と時間、間違えた気がする」
「あら、ごめんなさいね?」
エレナがくすりと笑いながらわざとらしく肩を竦めれば、アルは違う違う、とそれはそれで慌てた。
「エレナがとか、アーシェティアがとか、モニカがとかじゃない! 単純に、ツカサが居たからさ。兄貴に勝たないと顔見られないんだもんな?」
「お、俺のせい?」
「そういうこと」
わはは! とアルに笑われ、ツカサは少々不満げに唇を尖らせた。勝てば見られるラングの顔、ということは、外した際にシールドの秘密も教えてもらえるはずだ。結局、そこに辿り着く。
「頑張れよ、ツカサ!」
「俺が勝ったとしても、アルには詳細教えないからね!」
「ぇえ!? なんでだよ!」
「当然でしょ!?」
わぁ! とソファでじゃれ合いが始まって女子組から呆れ半分、微笑ましさ半分で視線を注がれる。ラングはティーカップを空にしてそれを持ちながら立ち上がった。
「靴底で汚れるぞ」
ソファが、だ。ツカサは元々靴を脱ぐ文化で生きてきたので、ソファなどにも足を乗せることはない。じゃれていれば何かの拍子に蹴ってしまい、汚れると思うとピタリと動きが止まった。アルもまた、なんだかんだ人様の家で暴れる男ではない。顔は笑いながら、ちえ、とつまらなそうに言ってさくりと引き上げた。
「あぁ、でも、エルキスの姫神子が……」
ズッ、と何か重いものが落ちてくるような感覚があり、その向かった先、アルの隣にいたツカサもその被害に遭った。困惑するツカサの横でアルはやっべ、と呟きながら首を縮こまらせていた。
「お前の恥部など、シグレに嫌というほど聞かされているのだからな、忘れるな」
「くっそ、兄貴本当やめてくれよ……」
ツカサは苦笑を浮かべた。エルキスの姫神子で思い出すのは【黄壁のダンジョン】でラングが毒に倒れた際、アルから聞いた夜這いを仕掛けてきた話だ。起きた後、ラングはアルを殴り飛ばしていたのだし、あまり吹聴されたくないのだとツカサは思った。なので口を噤んでおいた。ジャー、カチャリ、とラングが飲み終わったティーカップを洗うついで、後でやろうと水につけてあった他の食器も洗い出し、モニカが慌てて駆け寄った。
「あ、ラングさん! 洗いますよ! もしくは拭きます!」
「構わん、ついでだ。籠に置いておけば乾く。それよりあそこの槍使いを見張っておいてくれないか」
「わかりました、任せてください!」
モニカは胸を叩き、ツカサとは逆、アルを挟むようにして座った。あちゃー、とアルが頬を掻けばアルブランドー邸は明るい笑い声に包まれた。
ラングが立てる食器を洗う音を聞きながら、あちこちに話は広がって雑談になっていく。夜が更けていたこともあって日の高いうちには話さないことにも話題は飛んだ。
「そういえば、この世界ってどんな恋愛するの?」
モニカという婚約者を得て、家を得て、ツカサは自分の恋愛が恐らく一般的ではないと思い、尋ねた。命の危機を救われて、名を、姿を探されたことで斬ってきた相手、ヴァーレクスに見つかっては不味いという思いもあり、モニカを連れ出した。記憶を失っている間、モニカの献身と明るさと堅実なところに惚れて、さらったも同然であるのだ。海を越え、ここに来てようやく腰を落ち着けられたが、それが一般的によくあることかと問えば絶対に違う。
「俺は恋愛はわからない」
アルが首を振って脱落し、ソファに背中を預けた。皆の視線がダイニングでゆったりしているアーシェティアに向いた。
「ジャ・ティ族は強さが全てだ。男でも、女でも、強ければ好きな相手が選べる」
「アーシェはいなかったの? 好きな人」
「皆私より弱い。弱い男の子種は要らない」
「実力主義なんだな」
弱い男の子種、という言い方にジャ・ティ族の過酷な生き方を見た気がした。二百年ほど前、ジャ・ティ族はその力の示し方を間違え、四方八方から恨まれて海へ逃れ、ダヤンカーセの系譜に拾われた。強き者を好み、戦いを愛する一族、と言った海賊船の副船長、アギリットの声を久々に思い出した。
「アギリットさん強かったよね」
「強い。アギリットが族長であれば、と今も思う」
女性とはいえガタイのいいアーシェティアを蹴りひとつで吹き飛ばすことのできる実力者だ。一族皆がアギリットに勝てず、一族を力で使役する者があれば、最悪、アギリットに勝て、と言えばいい、などという話を思い出した。しかし、ジャ・ティ族の恋愛事情は実力主義で恋愛と呼んでいいものかわからなかった。
「こういうのは、モニカとエレナに聞く方がいいと思う」
モニカは恋愛話に既に目を輝かせていて準備万端、エレナは小さく笑って、話を受ける姿勢で居てくれた。ツカサはロナとマーシにも今度聞いてみようと思いながら、恋愛話が得意な女子に全てを託した。
「とはいっても、私も村のことしかわからなくて、アズリアの王都アズヴァニエルで働きながらちょっと聞いて憧れてたくらいだけど」
「聞きたいな」
「えっと、そうね、村ではね、血が濃くならないように許嫁が決まったりしてたの」
ツカサはヒュッと息を吸い込んでしまった。まさかと思うが、もしかしてあの名前は。
「ツカサ、違うよ、エドモンは本当に、アズリアに多い名前だからってだけ! 私、村では許嫁がいなかったの!」
「え? モニカにいなかったの?」
驚いてツカサは身を乗り出し、モニカはそれに対し強く頷いた。アルがもっと背を引いてツカサとモニカの邪魔をしないように息を潜めていた。
モニカ曰く、モニカの年頃は娘が多く、男子が少なかったらしい。村の有力者に器量よしが充てられるのは当然で、村の大半の女子は別の村との結びつきや調整のため、嫁に出される予定だったらしい。モニカもその一人だった。そして、その手段というのもツカサからすれば前時代的なものだった。
「十六、七くらいかな、そのくらいになったら小麦の収穫時期を避けて、他の村と合同でちょっとしたお祭りをするの。そこでお見合いみたいなことをして、嫁ぎ先が決まるの」
「な、なんかすごいね?」
「顔も知らない人のところに、明日行きなさいって言われるよりはましだよ?」
「そうかもしれないけど……」
ツカサには想像もつかない話でぽかんとしてしまった。モニカは苦笑し、だから村では恋愛がなかった、と遠い目をした。
「アズリア王都でも仕事が大変でそういうのもなかったし、私も恋愛には縁がないのかも。ツカサと会えたことが奇跡かも」
えへへ、と笑うモニカを抱きしめるにはアルが邪魔だった。手を伸ばしてモニカの手を握り締め、ツカサは言った。
「俺も、モニカに助けて貰えて、本当によかった」
「俺、席移動していいか?」
いい加減耐え切れなくなったアルが言い、皆から苦笑が零れた。アルはダイニングテーブルに移動し、テーブルに肘をついて話を聞く姿勢だ。ツカサはモニカの方に寄って、手を握った。
「エレナさん、スカイではどんな恋愛するんですか?」
「そうねぇ、とはいえ私も遠い昔の話だけれど」
カチャン、と最後の一枚が洗い終わったらしいラングが手を拭い、グローブを着け直しながらリビングの専用椅子に戻ってきた。ありがとうございます、と礼を言うモニカにシールドがゆるりと揺れ、どういたしまして、が示された。空気が落ち着いてからエレナは頬に手を置いて話した。
「スカイでは行商人も冒険者も多いもの、結構恋愛は多種多様にあると思うわ。隣近所の幼馴染で、成長して異性になる人だってオーリレアにもいたし、案外スカイの人って情熱的だから、旅の冒険者と目が合って、あっという間に住民権を取って結婚、なんて人もいたりするわね」
「すごい! 物語みたい……! エレナさんの旦那様はどうだったんですか?」
「ヨウイチは【渡り人】で私が助けたから、というのが大きかったわね。モニカとツカサみたいなものだわ」
なるほど、とモニカは深く頷いてツカサと微笑み合った。皆の視線は最後にラングを見た。自室へ戻らなかったのだから、話題に興味はあったはずだ。何を答えるのかが気になり、皆が固唾を呑んで見守った。ラングはゆっくりと一同を見渡した。
「……この場所のように、道が整っていないこともあって、魔獣も多い。街の中で幼馴染や行きつけの店で、ということが多い。稀に居つく冒険者や商人がいたくらいだ」
「ラングさんは、今まで恋愛ってどうだったんですか? キスとか」
モニカ、すごい踏み込むね、とツカサは少し心配しながらそっとラングを窺った。ふむ、とラングは思案した後、ツカサへ視線をやった。
「キス、とはなんだ?」
「あぁ、えっと、『キス』とか『口づけ』かな。あとで書くよ」
「頼む。……そうか、なるほど」
確かに、そういった単語は口にしたことがなかった。再び思案に沈むラングからの回答を待ち、皆がじぃっと見続けていた。シールドが上がり、息を吸うのが感じられてツカサは小さく喉を鳴らした。
「私の故郷では、キスはあまりしない」
「え? そうなんですか?」
「私の故郷では、手というのは、もっとも簡単に、そしてもっとも近く、人に触れられる部位だ。死者を弔う時の所作もそうした考えからきているのだが」
先日踏破した【赤壁のダンジョン】でラングから聞いた話が思い出された。そういえばあの時に恋愛事情について軽く聞いていたような気がした。ラングの話しぶりでは到底それは恋バナにはならず、文化を教えてもらっている気になるのだ。幼馴染は浪漫だ、などと言った自分の発言も思い出し、ツカサは誤魔化すように鼻先を掻いた。
「唇よりも手の方が、重要視される」
「不思議ですね……、あぁ、でも、こうやってすぐに触れられるからなんですね、きっと」
ツカサの手をモニカがぎゅっと握り締め、照れ混じりなモニカの笑顔に釣られて、ツカサも微笑んだ。ここでアルが調子を取り戻した。
「じゃあ、ラングの初めてのキスは何歳だ?」
「お前がおねしょをしていた歳を話しても構わないが?」
「ごめん、やめてくれ」
そこまで踏み込んでいい話題ではなかったらしい。アルは両手で顔を覆い、羞恥心に小さくなりながら謝罪した。ツカサも笑って誤魔化したが、ちょっと聞きたかった。アルが絶対話すなよ、と言いながら逃げるように二階へ引き揚げたのを皮切りに、皆がバラバラと就寝に向けて解散し始めた。アーシェティアがお先に、と上がった後、ツカサもモニカとともに二階へ上がることにして、階段の前で振り返った。
「ラングとエレナは? もう寝る?」
「えぇ、ひと口赤ワインを飲んでからと思っているわ。先に上がっていいわよ、明かりも消していいわ」
「そう? そしたら、おやすみ」
「おやすみなさい」
おやすみ、とラングからも返ってきて、ツカサは満足気に階段を上っていった。
ツカサが出していたトーチがふっと消え、一瞬、一階は真っ暗になった。徐々に目が慣れてくれば外から差し込む月光が家具の輪郭を浮かび上がらせ、暖炉の火と合わせて微かな光源となった。青くて白い月光と、暖炉からの鈍くて暗いオレンジ。ラングの黒いシールドは赤く輪郭を持ち、ゆるりと動いてエレナの隣へ腰掛けた。
「それで、初めてのキスはいつだったの?」
「そちらこそ」
「あら、女性にそういうのを聞くのはどうかと思うわよ」
「同じ言葉を返したいところだ」
淡々とやり取りをしていればエレナが小さく笑った。その横顔を眺めていれば、あら、と少し驚いた声とともに目を見開かれた。そうっと伸ばされた手。それから逃げることもなく、ラングは口元に触れたものに小さく顔を寄せた。
「あなた、よく微笑むようになったわね、ラング」
「だとするのならば、お前たち全員のおかげだ」
「ふふ、そんなことはない、なんて言われなくてよかったわ。それも進歩かしら?」
くすくすと笑いながら、触れていた指先が滑り、くすぐったさを伴って頬へ、温かな手のひらが触れてきた。
「きっと、あなたの故郷のことだもの。手で触れることには厳しい意味合いもあるのでしょうね」
「多少は」
離れていく温かい手を掴んで、ラングはエレナの指先に唇を寄せた。
「子は生まれれば、親の指を掴む。やがてその手を離し独り立ちし、自身の子の手を引くようになる」
薄い唇が指先にそっとキスを落とし、ラングは自身の指先でエレナの唇を撫でた。
「その子が巣立っていく。最後は最愛の者と繋ぐべきものとして、その手は残る」
ゆっくりと手を離し、ラングは立ち上がり、エレナの前に立った。
「……そうして、死が別つ時まで、離されることはない」
月光に照らされたエレナの影の中に立った黒い人影は、全ての視界を奪うかのように広がり、エレナは思わずソファに背をついた。ギシリと音を立ててソファの背もたれに手を置き、エレナを包み込むように広がった深緑のマントは音を遮り、その呼吸さえ独り占めするかのように捕らえた。
ゆっくりと、月光の中にエレナの輪郭が戻っていく。
「厳しいのではなく、『重い』、と言った方が正しいのだろうな」
エレナの目元に掛かった髪を、整った爪先で優しく払い、ラングはふっと小さな息をついた。
「おやすみ、エレナ」
「……おやすみなさい」
足音もなく階段を上っていく男の背中を見送って、エレナはソファにぱさりと倒れ込み、暫し月光から身を隠した。




