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第9話 地獄の特訓、その意味

第9話 地獄の特訓、その意味


夜更けの執務室には、蜜蝋の蝋燭が芯まで燃え尽きかけたときの焦げた匂いが漂っていた。エラは襟元に小さなほつれがある普段着の焦茶色の麻混紡ドレスを着て、右手の親指の爪を無意識にカリカリと噛みながら、何十冊と積まれた王国予算書の山と向き合っていた。机の端には、夕方に侍女が持ってきたまま冷え切った蕪と麦のポタージュが置かれ、表面に張った薄い膜の上に乾いたパン屑が散らばり、銀の匙は濁ったスープに半分沈んでいる。明日に迫った枢密院の最終審査を前に、指先は氷のように冷たくなり、頁をめくる手は微かに強張っていた。

「エラ、一度ペンを置きなさい。いくら数字を頭に詰め込んでも、喉が干からびていては明日の演説で声がかすれます」


マグダレーナ公爵夫人が、皺ひとつない深緑色の絹の立ち襟ドレスの裾をかすかに擦らせながら歩み寄ってきた。彼女の手には、先ほどまでエラが発音と発声の訓練で使っていた王国法典の辞書が抱えられており、表紙の革には日々の特訓でついた爪の跡や擦れが白く残っている。マグダレーナは冷えたスープの盆を手早く片隅へ押しやり、代わりに湯気を立てるカモミール茶の陶器杯をエラの前へコトリと置いた。

「明日の試験は、枢密院演説、隣国語での質疑応答、王室予算の弁明、そして老獪な貴族たち十名との個別交渉をすべて一日でこなすことです。オルブライト侯爵が失脚したとはいえ、血統を重んじる重臣たちは、あなたが匙を滑らせる瞬間を虎視眈々と待っています。少しでも隙を見せれば、立太子の承認は永遠に闇へと葬られますよ」


エラは温かい陶器杯を両手で包み込み、立ち上る甘い林檎のような香りを胸いっぱいに吸い込んだ。幼い頃、継母たちに叱られて暖炉の灰を片づけていた夜、寒さを紛らわせるために冷たい指先を息で温めていた記憶がふと脳裏をよぎり、エラは小さく息を吐き出した。あの頃の自分はただ嵐が過ぎ去るのを待つことしかできなかったが、今は違う。

「隙など見せません、公爵夫人。私がこの宮殿で学んできたのは、ただ美しく微笑んで頭を下げることではなく、相手の目を見て言葉を届ける方法です。頭上に載せた辞書の重みは、どんな冷たい視線の中でも顎を引いて前を向く力になりました。明日は逃げずに、私の持てるすべてをぶつけます」


マグダレーナは厳格な表情を崩さぬまま、エラの前に立ちふさがった。彼女の手が伸び、エラの着ているドレスの曲がった襟元を、皺を伸ばすように指先で整え始めた。

「エラ様、私がなぜあなたにこれほど過酷な作法と学問を課してきたか、お分かりですか」

「……私の平民としての粗野な振る舞いを消し去り、立派な貴族の妃に見せるため、でしょうか」

「いいえ、違います」

マグダレーナの声は低く、だが驚くほど静かに夜の部屋へ染み渡った。

「私はあなたを、中身のない貴族の模造品にするつもりなど毛頭ありませんでした。あなたが持っている市場の感覚、民の痛みを我が事として知るその心こそが、腐敗したこの国に必要なものです。ですが、宮廷という場所は、礼儀作法という武器を持たない者の言葉を『無教養な平民の戯言』として耳すら傾けずに握り潰す冷酷な檻です。私は、あなたの真実の言葉が血統を理由に無視されないための、決して砕けぬ鎧を着せていたのです」


エラは目を見張り、マグダレーナの指先を見つめた。いつも冷たく厳しかったその指の節々は固く、長年宮廷の荒波を一人で生き抜いてきた者特有の確かな温もりが宿っていた。胸の奥底に溜まっていた重たい塊が静かに溶けていくのを感じ、エラは椅子から立ち上がり、これまでの形式的なカーテシーではなく、心からの感謝を込めて深く頭を下げた。

「……ありがとうございます、マグダレーナ様。あなたのくださった鎧を着て、明日は戦ってまいります」


マグダレーナの口元がほんのわずかに緩んだが、彼女はすぐに懐から黒革の作法帳を取り出し、羽ペンを走らせた。帳面の末尾に、黒々と力強い文字で『合格』と記される。

「礼は明日、満場一致の承認を勝ち取ってから聞き届託します。今夜はもう休みなさい。明日のドレスは、一番重い正装を用意させてありますから」


翌朝、枢密院の大議場は、重厚な樫の木の壁と高い天井に反響する貴族たちのざわめきで満たされていた。窓からは薄い冬の朝陽が差し込み、議員席に並ぶ白髪交じりの貴族たちの金糸の肩章や勲章を鈍く光らせている。エラは銀糸で波と麦の紋様が刺繍された真紅の天鵞絨のローブを羽織り、背筋を一本の槍のように伸ばして中央の演壇へと進み出た。頭上にはずっしりとした重みを感じるが、辞書を載せて何千回と上り下りした日々に比べれば、冠の重みなど少しも苦にならなかった。

「これより、王子妃エラ殿下による王室予算および慈善院改革案の最終弁明を始める」

議長を務める老貴族が、埃の積もった木槌を机に叩きつけて告げた。


議場の一角から、さっそく保守派の残党である中年の伯爵が立ち上がり、嫌味な笑みを浮かべてエラを指差した。

「妃殿下、オルブライト侯爵の罪は暴かれましたが、慈善院の運営を平民の出であるあなたに任せて本当に国家の財政が保てるのか、我らは甚だ疑問であります! 貴族の尊い寄付金を増やせば済む話を、わざわざかき乱す必要がどこにあるのですかな!」


エラは怒りを見せることもなく、晩餐会で鍛えられた穏やかな微笑みを唇に湛えたまま、その伯爵の目をまっすぐに見据えた。相手が求めているのは正論ではなく、自らの領地の税負担が増えないという確証であることを、エラは瞬時に見抜いていた。

「伯爵閣下、ご懸念はごもっともでございます。ですが、私が提案いたしますのは、貴族の皆様へさらなる寄付を強いることではございません。問題の本質は、集まった善意の金がどこへ消えているか誰も知らないという構造にあります」

エラは手元の分厚い改革案の冊子を開き、明瞭な通る声で議場全体へ語りかけた。

「私は三つの改革を提案いたします。第一に、慈善院が購入するすべての穀物と生活物資の仕入れ価格を市場価格と照合し、毎月帳簿を一般公開すること。第二に、宮殿の役人ではなく、現場で子供たちの世話をする職員による相互監査を行うこと。そして第三に、王都の職人組合と提携し、余剰食材や規格外の布地を適正価格で共同購入する流通網を確立することです。これらを実行すれば、寄付金を一ダカットも増やさずとも、子供たちの食事は三倍に増え、王室の無駄な支出は年間で二割削減されます」


ざわめきが波のように広がり、財政を担当する議員たちが身を乗り出してエラの配った予算書に見入った。数字の端々にまで実際の仕入れ値と輸送費の正確な計算が書き込まれており、反論の余地がないほど綿密に組み上げられていた。そこへ今度は、隣国ベルンハルトとの国境に近い領地を持つ侯爵が、流暢な隣国語で鋭い質問を投げかけてきた。

「妃殿下、通商条約の締結に伴う関税の調整について、我が領内の商人たちから不安の声が上がっております。この点についてはどう対処されるおつもりか」


エラは息を整え、マグダレーナから毎晩のように叩き込まれた隣国の宮廷語を、淀みのない発音で紡ぎ出した。

「領民の皆様のご不安は痛いほど理解しております。ですが、先日の嵐の晩餐会で使節団長と合意いたしました通り、関税の引き下げは完成品ではなく未加工の羊毛と木材に限定されます。閣下の領内の織物工房には、加工賃としての補助金が優先的に配分される計画となっておりますので、むしろ領内の雇用と税収は大幅に増加いたします」


隣国語での完璧な受け答えに、質問した侯爵は目を丸くし、それから感嘆の息を漏らして椅子へと腰を下ろした。エラは一人ひとりの議員の目を逃げずに捉え、昼過ぎまで続いた過酷な個別交渉と質疑応答のすべてを、一歩も引くことなく論理と礼儀を尽くして制圧していった。


夕刻、議場に長い影が落ち始めた頃、ルシアン宰相が投票結果を記した羊皮紙を手に、静かに演壇の脇へと進み出た。議場は水を打ったように静まり返り、誰もが固唾を呑んで宰相の口元を見つめていた。ルシアンは眼鏡の奥の目をわずかに細め、羊皮紙を高く掲げた。

「枢密院議員全七十二名による投票の結果を報告いたします。反対票ゼロ、保留二、賛成七十。圧倒的多数をもって、ヘンリー王子の正式な立太子、およびエラ殿下の王太子妃冊立が承認されました」


議場にどよめきと、やがて割れんばかりの拍手が鳴り響いた。演壇の裾で控えていたヘンリーが駆け寄り、エラの手を固く、壊れ物を包むように優しく握りしめた。ヘンリーの瞳には熱い光が宿り、エラもまた、震える指先でその温もりを力いっぱい握り返した。

議場の後方、重い扉の傍らに立っていたマグダレーナは、拍手を送る貴族たちの中でただ一人微動だにせず、エラと目が合うと、胸の前で一度だけ深く、誇らしげに頷いてみせた。


夕暮れの光が窓から差し込み、エラの真紅のドレスと、冷たい石畳をしっかりと踏みしめる足元を、暖かな黄金色に染め上げていた。


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