第10話 地に足をつけて歩む道
第10話 地に足をつけて歩む道
雲ひとつない秋晴れの空から、澄んだ朝の陽光が王宮の控えの間へ真っ直ぐに差し込んでいた。エラは金糸で縁取られた純白の絹の式典用ドレスを身にまとい、無意識に左手の人差し指でスカートの裏地の縫い目をなぞる癖を繰り返していた。朝の慌ただしさの中で侍従が片づけ忘れた銀盆の上には、半分かじったまま冷え切った固焼きのライ麦パンと、冷めて膜が張った山羊の乳の残りが置かれ、部屋の隅の暖炉からは昨夜くべた松の薪の焦げた匂いがかすかに漂っている。姿見の脇には、紫色のベルベットを張った黄金の台座が据えられ、ひび割れを綺麗に磨き直された一足のガラスの靴が、朝の光を浴びて虹色に透き通っていた。
「妃殿下、お支度が整いました。さあ、あの運命の舞踏会のときのように、このガラスの靴をお召しになって大階段へお進みください。広場に集まった国民たちも、身分を越えた愛の奇跡の靴を一目見ようと待ちわびております」
年配の筆頭侍女がうやうやしくガラスの靴を差し出し、膝をついた。冷たく磨かれたガラスの表面には、かつてエラのかかとを裂いた硬い縁がそのまま残っており、見ているだけで古傷が疼くような錯覚を覚えた。国民にとってはおとぎ話の奇跡の象徴であっても、自分にとっては他人に運命を預けて爪先立ちで震えていた過去の遺物にすぎない。
「ありがとう。でも、その靴は履きません。私の靴は、別に用意してあります」
エラは控えていた若い侍女に目配せをし、木箱から一足の白い革靴を取り出させた。それは王都の靴職人が丹念になめした牛革で作られたもので、踵は低く幅広く作られており、厚い靴底からは新しい革と油の香ばしい匂いが漂っていた。甲の白い布地には、農村の実り豊かな黄金の麦穂、港町の力強い青い波、そして職人組合の誇りである銀の槌が、細やかな手刺繍で縫い込まれている。
「エラ様、本日のような最高格式の立太子・妃宣誓式に、そのような平民の履くような歩行靴では前例がございません!」
侍女が狼狽して声を上ずらせたが、エラは自ら腰をかがめ、丈夫な革紐を指先でしっかりと結び直した。
「前例なら、今日から私たちが作ります。何百段もの大理石の階段を下り、民の前へ進み出るのに、滑って転びそうになるガラスの靴では困るのです。私は自分の足で、地面を踏みしめて歩きます」
扉が開き、深紅の正装の上着に金色の肩章をつけたヘンリーが入ってきた。ヘンリーの胸元には、かつてのような派手な宝石の飾りはなく、王国の軍務と政務を司る者としての簡素な銀の佩刀が下げられている。彼はエラの足元にある刺繍入りの白い革靴と、台座に残されたガラスの靴を見比べ、それから穏やかに目元を緩めた。
「よく似合っているよ、エラ。君らしい、とても強くて美しい靴だ」
「驚かないの、ヘンリー? ガラスの靴を履かない私なんて、あの夜の王子様にとっては偽物かもしれないわ」
「まさか。あの夜の僕は、ただ魔法に浮かれていただけの世間知らずだった。今の僕が誇りに思うのは、君がその靴で歩いてきた道のりそのものだよ」
ヘンリーはエラの手を取ろうと右手を伸ばしかけたが、途中で思い直したように手を下ろし、彼女の真横へと並び立った。かつてのようにか弱い娘を先導してエスコートするのではなく、対等の統治者として肩を並べる位置だった。
「行こう、エラ。僕たちの誓いの場へ」
「ええ、参りましょう」
重厚な大扉が開かれ、二人は大聖堂へと続く大階段の最上段へ歩み出た。見渡す限りの大広場は、色とりどりの旗を振る何万人もの市民と、着飾った貴族たちで埋め尽くされていた。秋の乾いた風が吹き抜け、沿道からは香ばしい焼き栗の屋台の煙と、人々の熱気が混じり合った独特の匂いが押し寄せてくる。二人が一段ずつ、まったく同じ歩幅で石段を下りていくと、歓声が一気に地鳴りのように膨れ上がった。
階段の麓の特等席には、真新しい服を着て誇らしげに胸を張る慈善院の子供たちや、市場のパン屋の親方、港町の商人たちの姿があった。その並びには、自らの足で社交界の招待状を勝ち取ったアナスタシアが、派手な羽飾りのついた緑のドレスを着て、扇子で口元を隠しながらも誇らしげにエラを見つめていた。
大聖堂の祭壇の前には、厳格な表情のルシアン宰相と、濃紫色の儀典用ドレスを着たマグダレーナ公爵夫人が待っていた。二人の前へ進み出たヘンリーは、祭壇の聖書に右手を置き、広場へ届く凛とした声で宣誓を口にした。
「私は王太子として、王国の法を遵守し、外敵から民を守り、私利私欲のために権力を行使しないことを神と国民の前に誓います」
続いてエラが一歩前に出た。足元の低い踵が、冷たい大理石の床を力強く捉えていた。エラはマグダレーナの教え通りに顎を引き、集まった貴族と民衆のすべての瞳を見据えて、澄んだ声で誓いの言葉を響かせた。
「私は王太子妃として、民の台所にあるパンの重さを忘れず、現場の苦しみを知らないまま数字だけで国を治めないことを誓います。冷たいスープを飲む子供たちの声を、宮殿の最も高い場所へ届ける耳であり続けます」
儀礼的な定型文ではないその誓いの言葉を聞き、最前列に並んでいた貴族たちが小さなどよめきを漏らした。しかし、ルシアン宰相は眼鏡の奥の瞳に満足げな光を湛え、マグダレーナは胸の前で両手を重ね、深く頷いて見せた。二人の言葉は、ただの飾り物の宣誓ではなく、国家を根本から変革するという生きた政治的契約として宮廷に刻み込まれた。
式典が無事に終わり、熱狂の冷めやらぬ夕暮れの控えの間で、エラは長い裳裾を椅子に預けて一息ついた。テーブルの上には、祝宴の合間に運ばれてきた焼き立ての牛肉のローストと、蒸留酒のグラス、それに先ほどアナスタシアが差し入れてくれた故郷の木苺のジャムを塗ったビスケットが置かれていた。ヘンリーは部屋の片隅の台座に置かれたままのガラスの靴へ歩み寄り、冷たいガラスの甲を指先で軽く撫でた。
「エラ、この靴はどうする? もう君が履くことはないだろうし、倉庫に仕舞うか、いっそ砕いて捨ててしまうかい?」
「いいえ、捨てたりはしないわ。王室の博物館へ飾ってもらいましょう」
エラはビスケットを一口かじり、甘酸っぱい木苺の味を舌の上に広げながら微笑んだ。
「ただし、説明の札には『王子に見初められた幸運な娘の靴』とは書かせないわ。『自分の足で歩き始める前に履いていた靴』と記してもらうの」
ヘンリーは驚いたように目を見張り、それから楽しそうに声を立てて笑った。
「手厳しいな。でも、全くだ。僕にとっても、それはただ夢を見ていた頃の記念碑だよ」
エラは立ち上がり、窓辺へと歩み寄った。
「魔法が私をあの舞踏会へ連れてきてくれたのは本当よ。あの奇跡がなければ、私は今でも屋根裏で冷えた灰を掃除していたかもしれない。でも、ここから先まで魔法に歩かせてもらうつもりはないわ」
エラは刺繍入りの白い靴で、宮殿の重い扉を自らの手で押し開けた。夕暮れの茜色に染まる王都の向こうには、明日の朝から視察が始まる慈善院と市場、嵐で崩れたまま再建を待つ南の大橋、そしてこれから書き直さなければならない何百枚もの制度改革の書類が待っている。
おとぎ話の奇跡は終わり、国を背負い、互いに手を取り合って生きていく確かな日常の足音が、静かに石畳の上へと響き始めていた。




