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第5話 かつての敵、思わぬ来訪者

第5話 かつての敵、思わぬ来訪者


執務室へ何者かが侵入した翌朝、エラの寝室には二人の近衛兵が立っていた。兵士たちは扉の両側で姿勢を崩さず、侍女が洗面器を運び込むたびに靴音をそろえて道を開けた。守られているはずなのに、着替えの布が擦れる音まで聞かれているようで、エラは背中の紐を締められるたびに扉を振り返った。鏡台には蜂蜜をかけた丸パンと薄い山羊乳が置かれていたが、パンをちぎった指には昨夜のインクが爪の間へ残っていた。


「殿下、手をもう一度洗いましょうか」


リディアが濡れた布を差し出したが、エラは首を振った。慈善院でついた黒い染料はほとんど落ちたものの、泥だらけの手帳を書き直したときの青いインクが右手の中指へ染み込んでいる。侵入者に奪われた寝具の移送予定表は戻らず、窓枠に残された濃紺の布も持ち主が分からないままだった。近衛隊によれば、同じ色の外套は王宮の侍従、書記官、警備兵が使っており、布切れだけでは相手を絞れないという。


「手帳は、今日はどこへ置くのですか」


「ドレスの内側に入れておくわ」


「そのようなところへ入れたら、歩くたびに角が当たります」


「角が当たれば、盗まれたときに分かるでしょう」


リディアはあきれた顔をしながら、空色の部屋着から取り外した小さなポケットを、今日のドレスの内側へ縫いつけた。エラが着るのは、王宮の午後の茶会に合わせた淡い生成り色のドレスだった。襟元には青い小花が刺繍され、腰の帯には細い銀鎖が飾られている。華美な衣装ではなかったが、慈善院から戻った日に着ていた泥だらけの空色のドレスは、洗濯係が三度洗っても染料が落ちず、部屋の隅でまだ干されていた。


「そのドレスは、捨てられてしまうの?」


「衣装係は処分するよう申しております。染みが広がっておりますので」


「作業用の前掛けに直せないかしら」


「王子妃殿下が作業用の前掛けを必要となさる場面は、普通ございません」


「この宮殿では、普通ではないことばかり起きるわ」


リディアが笑い、最後の縫い目へ糸を通した。窓の外では洗濯係が濡れたシーツを二人がかりで広げ、朝の風に大きく膨らませている。エラは慈善院の湿った寝室と、子供たちの下着が重なって干されていた光景を思い出した。今日の茶会には慈善院の後援者も何人か招かれるため、エラは手帳をポケットへ入れ、表紙が外から見えないことを何度も確かめた。


王宮の薔薇の間では、午後二時から王族主催の茶会が開かれた。丸卓には白い布が掛けられ、三段の菓子台へ胡瓜の薄切りを挟んだパン、杏の焼き菓子、薔薇の砂糖漬けが並べられている。窓辺の花瓶には赤と白の薔薇が交互に挿され、銀の茶器から立つベルガモットの香りと混ざっていた。侍女たちは茶を注ぐたびに、客の後ろへ一歩下がり、同じ角度でポットを胸元へ戻した。


エラは入口に近い席へ座り、招待客を一人ずつ迎えた。名前と領地、婚姻関係を思い出すため、頭の中で自作の相関図を広げた。黄色は穀物、青は港、灰色は鉱山と覚えると、似た名前の貴族でも以前ほど混乱しない。オルブライト侯爵夫人は欠席していたが、彼女と親しいグレンヴィル伯爵夫人が、白粉の濃い顔でエラの向かいへ座った。


「殿下、慈善院ではずいぶん熱心にお働きになったそうですわね。泥の中へお入りになったとか」


「ええ。正面玄関からでは見えないものがありましたので」


「まあ、王子妃殿下ご自身が泥を踏まれる必要などございませんのに。適任の使用人へお任せになればよろしいのです」


「任せていた結果、子供たちの寝台からシーツがなくなっていました」


伯爵夫人は茶を飲むふりをして口を閉じた。その隣にいた女性が薔薇の砂糖漬けを皿へ落とし、薄い砂糖の殻が小さな音を立てて割れた。エラはさらに問いただしたかったが、マグダレーナから茶会で捜査を始めてはならないと念を押されている。手帳の角が脇腹へ当たる感触を確かめ、まずは誰と誰が話しているかを見ることにした。


三人目の客を迎えたあと、入口の侍従が一瞬言葉に詰まった。続いて告げられた名前を聞き、エラは持っていた茶匙を受け皿へ落としかけた。扉から入ってきたのは、淡い桃色のドレスを着た義姉アナスタシアだった。何年も前から持っているドレスを仕立て直したらしく、袖口のレースだけが新しく、裾には薄くなっても消えない葡萄酒の染みが残っている。


「アナスタシア・トレメイン嬢、ご到着でございます」


アナスタシアは顎を上げ、周囲の視線を浴びながら部屋へ入った。赤褐色の髪には小粒の真珠を飾り、母親から借りたと思われる翡翠の首飾りをつけている。歩き方は昔と変わらず堂々としていたが、右の靴が少し小さいらしく、一歩ごとに足首が内側へ傾いた。舞踏会の夜、ガラスの靴へ無理に足を押し込もうとしていた姿が浮かび、エラは指先を膝の上で組んだ。


「王子妃殿下、お招きいただき光栄ですわ」


「私は、あなたを招いた覚えがないのだけれど」


「王室儀典室から正式な招待状をいただきました。王子妃殿下のご親族として」


アナスタシアは銀色の封筒を取り出し、わざわざ卓上へ置いた。エラがマグダレーナを見ると、公爵夫人はわずかにうなずいた。王子妃の実家をまったく招かないほうが不和を認めたことになるため、儀典上、一度は茶会へ呼ばなければならなかったらしい。宮廷では、会いたくない相手と会わない自由まで政治に奪われるのだと、エラは冷めかけた茶を飲んだ。


アナスタシアはエラの斜め向かいへ座り、菓子台の杏菓子を一つ取った。昔なら一番大きなものを選び、エラには焦げた端さえ残さなかったが、今日は周囲の目を気にして小ぶりなものを選んでいる。ところが口へ入れた途端、酸味に顔をしかめ、茶を二口続けて飲んだ。完璧な貴族令嬢を演じようとしても、酸っぱい杏が苦手なところまでは変わらなかった。


「王宮のお菓子は、お口に合う?」


「庶民的で親しみやすい味ですわ。あなたには懐かしいのではなくて?」


「その菓子は王室料理長が焼いたものよ。今の言葉は料理長への感想として伝えておくわね」


「相変わらず、言葉の端だけは拾うのが上手ね」


アナスタシアの笑顔が少し崩れた。近くの客たちは、二人がどのように争うのか期待するように扇の陰から見ている。エラは屋根裏部屋にいた頃、アナスタシアから食器をわざと床へ落とされ、拾い終わるまで夕食を与えられなかった夜を思い出した。今は自分のほうが高い席に座っていても、その記憶まで順位を入れ替えることはできなかった。


茶会が半ばを過ぎると、客たちは小さな集まりに分かれた。グレンヴィル伯爵夫人は衣装商の新作について話し、若い令嬢たちは近く来訪するベルンハルト王国の使節団に未婚の公子がいるという噂で声を弾ませている。アナスタシアも最初は令嬢たちの輪へ入ろうとしたが、誰も椅子を空けなかった。王子妃の義姉という肩書は利用したくても、平民同然の家から来た娘と親しく見られたくはないらしい。


「トレメイン嬢、そのドレスは王都の仕立屋のもの?」


一人の令嬢が尋ねると、アナスタシアは王室御用達の店で直したと答えた。けれども別の令嬢が、裾に残った古い染みを見つけ、最新流行には思い出まで縫い込むのかと笑った。アナスタシアは扇を開いて口元を隠し、何も聞こえなかったように紅茶を飲んだ。エラには、その扇を握る指へ力が入り、細い骨が曲がっているのが見えた。


かつて自分が受けていたものと同じ笑いが、今度はアナスタシアへ向けられていた。だからといって、助けたいとはすぐに思えなかった。屋根裏の階段へ閉じ込められた夜も、灰をかぶった髪を笑われた朝も、アナスタシアは同じ顔で見ていたからだ。エラは茶匙で茶を混ぜ、底へ沈んだ砂糖が溶けるまで待った。


「トレメイン嬢。こちらの席へいらっしゃい。慈善事業について、実家周辺の様子を聞きたいわ」


エラが呼ぶと、令嬢たちの笑いが止まった。アナスタシアは一瞬だけ驚いたものの、すぐに顎を上げて立ち、王子妃の隣へ移った。椅子へ腰を下ろすとき、きつい靴が当たったのか、口元をわずかに歪めた。エラは助けたのではなく、聞きたいことがあるだけだと自分へ言い聞かせた。


「慈善院について何を聞きたいの?」


「衣装店で、黒い布を大量に染めているという話を聞いたことはない?」


「ありますわ。慈善院の子供が染めた安い喪服を、商人が高級品として売っているそうよ」


「誰が買い取っているの?」


「ここでは話せません」


アナスタシアは声を落とし、空になった菓子皿を指で押した。エラが続きを促しても、彼女は周囲を見回し、二人だけで話す場所を用意するよう求めた。何か企んでいる可能性はあったが、黒い染料のことを知っているなら無視できない。エラはマグダレーナへ目で許可を求め、茶会終了後に小客間を使うことになった。


最後の客が帰る頃には、紅茶は煮詰まり、ポットの底へ細かな茶葉が沈んでいた。卓には一口だけかじられた菓子や、乾いた胡瓜パンが残され、侍女たちが皿を種類ごとに重ねている。アナスタシアは帰るふりをして広間を出たあと、侍女用の廊下を通って小客間へ入った。エラも近衛兵とリディアを扉の外へ残し、マグダレーナとともに向かいの椅子へ座った。


小客間には使われていない暖炉があり、灰受けには先週燃やした薪の欠片が残っていた。窓辺の鉢植えは水をもらいすぎたらしく、受け皿からこぼれた水が木の台を黒くしている。アナスタシアは扇を閉じると、靴を片方だけ脱ぎ、赤くなった踵をさすった。エラがその様子を見ていると、昔は使用人の前でも靴を脱がなかった義姉が、疲れると右足から脱ぐ癖をまだ持っていることに気づいた。


「ずいぶん警戒しているのね。近衛兵まで連れて歩いているそうじゃない」


「昨夜、執務室へ誰かが入りました」


「やはり、もう始まっているのね」


「何を知っているの?」


アナスタシアは鞄から古い楽譜を取り出した。表紙には愛の小夜曲と書かれていたが、頁を開くと音符ではなく、人名と線が細かな文字で書き込まれている。赤い線は愛人関係、青い線は婚姻、黒い線は借金、緑の線は共同事業を表していた。エラが作った特産品と税収の相関図に似ているが、こちらはもっと生々しく、誰が誰の寝室へ通い、誰が賭博場へ借金を作ったかまで記されている。


「あなたが作ったの?」


「王都の衣装店と茶会を歩けば、これくらい集まります。貴族の奥方は試着室へ入ると、壁に耳があることを忘れるのよ」


「なぜ楽譜に書くの?」


「母が楽譜を開かないから。私が練習を始めると頭痛がすると言って、部屋から出ていくもの」


エラは思わず楽譜の表紙を撫でた。屋敷にいた頃、アナスタシアの歌とピアノは毎日のように聞こえていたが、音が外れるたびに母親はエラの磨き方が悪いせいで鍵盤が滑ると責めた。アナスタシアはそのことへ触れず、オルブライト侯爵の名前を指した。侯爵から赤い線が伸び、その先にはベルナルディ公爵家の未亡人と、その娘セシリアの名が書かれている。


「オルブライト侯爵たちは、あなたを王宮から追い出したがっています。ヘンリー王子との結婚は魔法によるものだったとして無効にし、セシリア公爵令嬢を新しい妃にするつもりよ」


「どこで、その話を聞いたの?」


「昨日、モンテーニュ衣装店の試着室で。侯爵夫人と公爵未亡人が、立太子の延期は第一段階だと話していたわ」


「あなたも同じ店にいたの?」


「裏口から入れば、半額で古いドレスを直してくれるの。正面玄関から入れる客ばかりではないのよ」


アナスタシアは自分のドレスの裾をつまみ、葡萄酒の染みを隠すように折った。侯爵たちは、慈善院の不正が公表される前にエラの信用を失わせる必要があると話していたという。社交新聞の記事も偶然ではなく、晩餐会の席順を知る人物が情報を渡していた。エラの執務室から盗まれた移送予定表も、不正の証拠を消すためだった可能性が高かった。


「これを、私に渡すために茶会へ来たの?」


「いいえ。最初は王子妃の義姉として、社交界へ入るために来たのよ」


「では、なぜ今は教えるの?」


アナスタシアは脱いだ靴を履き直し、踵を押し込んだ。顔を上げたとき、その目には涙も反省も浮かんでいない。代わりに、令嬢たちから笑われたときと同じ硬い光が残っていた。彼女は楽譜をエラの前へ押し出し、扇の先でセシリア公爵令嬢の名前を叩いた。


「あなたを好きになったわけではないわ。けれど、あなたが王宮から追い出されたら、私まで招待状を失うのよ」


あまりにアナスタシアらしい理由だったため、エラは肩の力を少し抜いた。家族だから助けたい、昔のことを後悔しているなどと言われるより、ずっと信用できた。アナスタシアは今も自分の利益を一番に考えている。だからこそ、その利益がエラの立場と結びついている間は、簡単には裏切らないと判断できた。


「取引をしたいのね」


「私に正式な社交界参加資格を与えて。今の私は王子妃の義姉というだけで、誰かの同伴がなければ大きな夜会へ入れないわ」


「その代わりに、噂を集める?」


「噂だけではないわ。衣装店、宝石商、美容師、菓子店には、貴族の秘密が集まるの。あなたの堅苦しい宰相には入れない場所でしょう」


マグダレーナは黙って二人のやり取りを聞いていた。彼女はアナスタシアの素行と借金を調べてからでなければ資格を与えられないと告げたが、情報提供者として試す価値はあるとも認めた。エラは楽譜の頁をめくり、そこへ書かれた人名と自分の相関図を頭の中で重ねた。表向きは敵対している家が、愛人や借金を通じて裏で結ばれていることが分かった。


「条件があります。私の名前を使って借金をしないこと。招待状を売らないこと。聞いた噂へ勝手に嘘を足さないこと」


「あなたも条件を出すようになったのね」


「あなたのおかげで、昔から練習していたもの」


アナスタシアの口元が引きつった。エラは目をそらさず、取引をしたからといって、屋根裏へ閉じ込められたことも、食事を隠されたことも、母の形見のドレスを破られたことも許したわけではないと伝えた。アナスタシアは謝罪の言葉を口にせず、扇の房を指へ巻きつけた。昔から言い返せないときにする癖だった。


「今さら謝っても、あなたは信じないでしょう」


「言葉だけなら信じないわ」


「では、借りは行動で返す。いつかね」


「いつかでは困るわ。最初の報告は三日以内に」


「本当に可愛げがなくなったこと」


「あなたに教わったのよ」


二人は、アナスタシアが派閥と噂を集め、エラが月二回の王室茶会への参加と、公式行事へ出るための仮資格を与えることで合意した。署名に使う紙をマグダレーナが用意し、取引の内容は情報漏洩を防ぐため、慈善事業への助言契約という名目で記された。アナスタシアは署名したあと、卓上に残っていた冷たい杏菓子を二つ紙へ包んだ。エラが見ていると、一つは母への土産だと言い、もう一つは夕食を食べ損ねた自分の分だと付け加えた。


「昔なら、三つとも持って帰ったでしょう」


「三つ持てば、社交界では貧しいと思われるのよ」


「二つなら思われないの?」


「二つなら、家族思いと思われるわ」


アナスタシアが帰ったあと、エラとマグダレーナは楽譜を持ってルシアンの執務室へ向かった。宰相の部屋には新しい鍵が取りつけられ、扉の前には近衛兵が一人立っている。机には蝋燭横流し事件の報告書が積まれ、隅には夕食の残りらしい酢漬けの鰊と黒パンが置かれていた。鰊の匂いが書類へ移っているとエラが言うと、ルシアンは書類は匂いを気にしないと答えた。


「人間は気にします」


「でしたら、窓を開けてください」


「機密書類が飛びます」


「では、我慢してください」


ルシアンは楽譜を受け取り、赤、青、黒、緑の線の意味を聞いた。エラが説明すると、彼は不確かな寝室の噂を政治判断へ使うべきではないと眉を寄せた。しかし黒い借金の線と緑の事業関係を王宮の帳簿へ照合し始めると、その手は次第に速くなった。オルブライト侯爵の愛人とされる女性の弟が、王室慈善院へ食料を納入する商会の名義人だった。


「帳簿上、慈善院はこの商会から豆と肉を市場価格の三倍で購入しています」


「差額は商会から侯爵へ戻っているのですか」


「直接ではありません。いくつかの口座と取引を経由しています」


ルシアンは別の台帳を取り出し、ベルンハルト王国使節団の来訪準備費と照合した。水増しされた慈善院の資金の一部が、カーマイン運送商会へ貸付金として渡っている。その商会は、来月王都へ到着する使節団の荷物と歓迎式典用の葡萄酒を運ぶ契約を、つい一週間前に落札していた。


「同じ商会が、慈善院から流れた金を受け取り、隣国使節団の輸送へ入り込んでいる」


「食料を盗むだけではなく、使節団に何かするつもりなの?」


「まだ断定はできません。しかし、慈善事業から金を抜くためだけなら、外交使節の輸送契約を取る必要はありません」


ルシアンは使節団の予定表を広げた。王都到着の日、彼らは南門を通り、王室管理の倉庫へ荷物を預け、その夜に歓迎晩餐会へ出席する。輸送中に荷物を失わせれば盗賊の仕業にでき、葡萄酒や食材へ細工すれば王宮の責任になる。条約交渉が失敗すれば、能力主義と隣国交易を推進するヘンリーの立太子にも打撃を与えられる。


「王子には知らせますか」


エラが尋ねると、ルシアンはすぐには答えなかった。窓の外では雨が降り始め、石畳を急ぐ使用人たちが洗濯物の籠を抱えて走っている。机の上の鰊はすっかり冷え、酢の匂いだけが強く残った。ルシアンは輸送契約書を閉じ、まず関係者へ知られないよう商会を監視すると決めた。


「殿下にもお伝えします。ただし、今度は穏便な話し合いで済む内容ではないと理解していただかなければなりません」


「私から話します」


「昨夜のように言い争うおつもりですか」


「いいえ。数字を並べます。ヘンリーは数字を見せられると、少なくとも最後まで聞きます」


エラは楽譜と自分の泥だらけの手帳を並べた。一方には貴族たちの愛人、借金、婚姻、もう一方には子供たちが食べられなかった肉とパンの数が書かれている。まったく別のものに見えながら、同じ金の流れで結ばれていた。アナスタシアが集めた噂は、慈善院の薄い煮込みから隣国使節団の食卓まで伸びていた。


その頃、王宮を出たアナスタシアは、屋根つきの辻馬車へ乗り込んでいた。座席の革は破れ、床には前の客が落とした干し葡萄が一粒転がっている。彼女は紙包みから杏菓子を取り出し、酸っぱい果実の部分を避けて端からかじった。窓の外に王宮の塔が遠ざかると、向かいの座席へ置いた鞄を開き、もう一枚の紙を確かめた。


紙には、オルブライト侯爵家が三日後に開く仮面舞踏会の招待客名簿が書き写されていた。その末尾には、カーマイン運送商会の主人と、ベルンハルト王国の使節団を迎える王宮倉庫の責任者の名が並んでいる。アナスタシアは菓子を飲み込み、きつい靴を脱いで赤く腫れた踵を座席へ載せた。


「エラに借りを返す前に、もっと高い靴を買わせてもらわなくてはね」


独り言を聞く者はいなかった。馬車は雨に濡れた道を進み、車輪が水溜まりの泥を大きく跳ね上げた。


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