第4話 泥だらけの手帳と予算書
第4話 泥だらけの手帳と予算書
匿名の社交新聞が配られた翌々日、エラは王室慈善院の視察を命じられた。朝食の卓には焼いた卵と薄切りの燻製肉が並んでいたが、新聞の見出しを思い出すたびに、エラの手は同じ場所で止まった。向かいに座るヘンリーは、苺のジャムを塗ったパンを食べながら、視察へ出れば根も葉もない噂を消せるだろうと話した。彼の袖口には昨夜飲んだ葡萄酒の染みが小さく残っており、本人は気づかないまま書類をめくっていた。
「子供たちと一緒に写真代わりの肖像画を描かせて、新聞へ配るそうだよ。君が慈愛に満ちた人だと分かれば、みんなも安心する」
「私は、安心させるために子供たちへ会いに行くの?」
「もちろん、それだけではないよ。慈善院の子供たちを励ますのも王族の務めだ」
「それなら、絵師を連れていかなくても励ませるわ」
ヘンリーはパンを置き、今回の視察は枢密院へ印象をよくするためにも必要なのだと説明した。晩餐会での食器の失敗が新聞に書かれた以上、別の話題を提供しなければ記事はいつまでも残るらしい。エラは食器を間違えていないともう一度言いかけたが、ヘンリーがすでに次の書類へ目を落としていたため、冷めた卵を口へ運んだ。黄身には塩が足りず、卓上の塩入れへ手を伸ばすと、蓋が緩んでいて皿へ大量にこぼれた。
「塩まで私の評判を悪くするつもりみたい」
「大丈夫、これは新聞には載らないよ」
ヘンリーは冗談のつもりで笑ったが、エラは塩に埋もれた卵をナプキンで包み、厨房へ戻してもらうよう給仕係へ頼んだ。捨てるのかと尋ねると、料理人が味を見てスープへ使うか決めるという返事が返ってきた。宮殿では、卵一個の行方にも何人もの許可が必要だった。今日訪れる慈善院では、子供一人につき何個の卵が用意されているのだろうと考え、エラは視察用の革表紙の手帳を鞄へ入れた。
出発前、リディアはエラへ淡い空色のドレスを着せた。胸元には白いレースが重なり、腰から広がる裾には小麦の穂が銀糸で刺繍されている。慈善院を訪れるため、豪華すぎず、かといって王家の威厳を損なわない衣装として選ばれたものだった。エラが歩きやすい革靴を頼むと、リディアは衣装棚の奥から踵の低い灰色の靴を探し出した。
「その靴なら、土の上でも滑りにくいと思います」
「ありがとう。ガラスの靴で行けと言われたら、馬車から降りないところだったわ」
「ガラスの靴は王室宝物庫に保管されております。毎朝、警備兵二人が傷の有無を確認しているそうです」
「私の踵より大切にされているのね」
リディアは笑いながら靴紐を結び、予備のハンカチを二枚、エラの鞄へ入れた。マグダレーナは寝室の扉に立ち、視察中に子供を抱き上げる場合は、鼻水や泥がドレスへついても顔をしかめないよう注意した。エラは汚れた服には慣れていると答えたが、夫人は汚れることと、汚れた自分を大勢に見られることは別だと言った。その言葉に引っかかりながらも、エラは馬車へ乗り込んだ。
王室慈善院は王都の北側にあり、高い石壁と鉄の門に囲まれていた。門前の道路には前夜の雨で水溜まりが残り、馬車の車輪が通るたびに濁った水が石垣へ跳ねた。けれども建物の正面だけは新しい砂が敷かれ、玄関の窓も鏡のように磨かれている。色をそろえた紺色の服を着た子供たちが二列に並び、エラの馬車が止まると、練習してきたように同時に頭を下げた。
「王子妃殿下、ようこそお越しくださいました」
院長のデルコート男爵が、両手を広げてエラを迎えた。丸い腹を濃い茶色の上着で包み、胸元には慈善事業への功績を示す銀章を三つつけている。近づくと甘い香水と肉料理の匂いが混ざり、朝食を十分に食べてきたことが分かった。男爵の後ろにはオルブライト侯爵夫人をはじめ、慈善院の後援者である貴族たちが並んでいた。
「まあ、殿下。そのお靴はずいぶん丈夫そうですこと」
侯爵夫人がエラの足元を見て、金色の扇を開いた。彼女は薄紫のドレスを着ており、今日は胸元の赤い宝石がまっすぐ留められている。エラは泥の上で転んで子供たちを驚かせないためだと答え、玄関に並ぶ子供たちへ目を向けた。全員の髪はきれいに梳かれ、頬には薄く紅まで塗られていたが、袖口から出た手は固く握られている。
「お名前を教えてくれる?」
エラが先頭の少女へ尋ねると、少女は隣に立つ職員を見た。職員が小さくうなずいてから、少女はマリーと名乗った。十歳だというその声は細く、右手の爪の周りには黒いものが入り込んでいる。エラは土汚れだと思ったが、鼻を近づけると土ではなく、酢と鉄を混ぜた染料の匂いがした。
「今日は何をしていたの?」
「お勉強です」
「何のお勉強?」
「文字と、数字と……祈りです」
少女は決められた答えを思い出すように、一つずつ言った。その後ろに並ぶ少年の爪にも同じ黒い染料がつき、指先の皮膚が赤く荒れている。教室で文字を書くだけなら、何人もの指が同じ色に染まるはずがなかった。エラがさらに尋ねようとすると、デルコート男爵が手を叩き、子供たちによる歓迎の歌を始めさせた。
子供たちは高い声で王家をたたえる歌をうたった。玄関脇には今日のために運び込まれた鉢植えの薔薇が並んでいたが、土は乾き、葉の裏には白い虫がついている。歌の途中で小さな少年が咳き込むと、職員は背中を撫でるふりをして列の後ろへ下がらせた。エラはその子を追おうとしたが、侯爵夫人が腕へ手を添え、まず礼拝堂をご覧くださいと進路を変えた。
礼拝堂の長椅子は新しく磨かれ、祭壇には白い花が飾られていた。その次に案内された寝室には、真っ白なシーツを掛けた寝台が整然と並び、枕元には木彫りの玩具まで置かれている。石鹸と乾燥させたラベンダーの匂いが強く、窓は寒いほど大きく開けられていた。エラは一番手前の寝台へ近づき、シーツの端を指でつまんだ。
「ずいぶん新しい寝具ですね」
「先月、オルブライト侯爵家からご寄付いただいたものです」
デルコート男爵は胸を張った。エラが布を持ち上げると、下の藁布団は中央がまったく沈んでおらず、誰かが寝た形跡もない。枕の下には値札を外したばかりの糸が一本残っていた。隣の寝台も同じで、玩具には子供の手垢どころか木屑までついている。
「子供たちは、昨夜どこで眠りましたか」
「もちろん、この部屋でございます」
「この枕には、髪の毛が一本もついていません」
「毎朝、入念に清掃しておりますので」
「寝台の下までですか」
エラが身をかがめると、コルセットが腹へ食い込み、呼吸が浅くなった。それでも床と寝台の隙間へ手を入れると、乾いた泥と黒い糸屑が指先についた。部屋には黒い布を使ったものが一つもない。デルコート男爵は、以前の寝具から落ちた糸だろうと答え、次の見学場所である厨房へ進むよう促した。
厨房では、大鍋に肉と豆の煮込みが温められていた。玉葱と香草の匂いが漂い、料理人は王子妃を迎えるため白い上着へ着替えている。棚には焼きたてのパンが山のように積まれていたが、どれも同じ大きさで、まだ一つも切られていない。エラは鍋の中をのぞき、厨房で使っていた長い柄杓を借りた。
「子供は何人いるのですか」
「百二十名でございます」
「職員は?」
「二十三名です」
「この鍋では、百四十三人分には足りません」
デルコート男爵は、奥にも同じ鍋があると答えた。エラが見せてほしいと頼むと、料理長は倉庫に置いてあると口を挟んだ。しかし煮込みを作った鍋を火から下ろし、食事前に倉庫へ運ぶ理由はない。エラは柄杓ですくった煮込みを小皿へ移し、肉片を数えた。
「一人分に肉はいくつ入りますか」
「その日の具合によります」
「今日は?」
「三つでございます」
「この鍋には、見える範囲で三十ほどしかありません。下に沈んでいるのですか」
料理長は返事をせず、帽子の縁を指でいじった。エラは煮込みを一口だけ味見した。塩気はあるが肉の脂は薄く、豆も十分に煮えていない。玄関に並んでいた子供たちの頬が、紅を塗らなければ青白かった理由が、舌に残る薄い汁と結びついた。
「焼きたてのパンは、今日の昼食ですか」
「はい、殿下のご視察を記念して、特別に白パンを用意いたしました」
「では、普段は何を食べていますか」
「栄養に配慮した食事を提供しております」
「料理の名前を聞いているのです」
デルコート男爵の笑顔が少しずつ固くなった。侯爵夫人は、厨房の細かなことまで王子妃が調べる必要はないと口を挟み、子供たちとの記念肖像を先に済ませようと提案した。けれどもエラは、鍋の横に置かれた生ごみ用の木桶へ、固くなった黒パンの欠片がいくつも捨てられていることに気づいた。表面には鼠がかじった跡があり、その一部は水へ浸して煮直したようにふやけていた。
「今日は予定を変えます。普段の食堂を見せてください」
「こちらが食堂でございます」
「では、普段の寝室を見せてください」
「先ほどご覧いただきました」
「それなら、黒い布を染めている場所を見せてください」
エラが言うと、玄関にいた子供たちが一斉に指を握った。デルコート男爵は、慈善院で染色作業など行っていないと答えた。しかし少女たちの爪についた匂いは、屋根裏で義姉の喪服を染め直したときに嗅いだものと同じだった。エラは男爵の返事を待たず、厨房の裏口へ向かった。
「殿下、予定された経路からお外れにならないでください」
侯爵夫人の声が後ろから飛んだが、エラは扉を開けた。外には雨上がりの裏庭が広がり、中央の水溜まりには灰色の雲が映っている。ドレスの裾を持ち上げて一歩踏み出すと、灰色の靴が泥へ沈み、冷たい水が足首へしみ込んだ。マグダレーナなら裾を上げすぎだと注意するだろうと思ったが、今は振り返らなかった。
裏庭の端には、窓を板で塞いだ物置があった。扉の前には黒く染まった水が流れ、土の上に布の切れ端が散らばっている。中から小さな咳が聞こえたため、エラは錠前へ手をかけた。鍵はかかっておらず、扉を開けると、酢と鉄と汗の匂いが一気に外へ流れ出した。
薄暗い物置には、破れた服を着た子供たちが二十人近く集められていた。床には黒い布を染める桶が並び、壁際には視察用の子供たちが脱いだらしい古い衣服が積まれている。最も小さな少年は、麻袋を敷いただけの床へ座り、黒く染まった指を口へ入れていた。玄関から下げられた咳の少年も、毛布にくるまって隅に横たわっている。
「どうして、ここにいるの?」
エラが膝をつくと、空色のドレスの裾が泥と染料で黒くなった。子供たちは誰も答えず、奥にいた十三歳ほどの少年が前へ出た。袖は肘まで擦り切れ、頬には紫色の痣がある。彼は扉の外に立つデルコート男爵を見てから、声を抑えて答えた。
「今日は、お客様に見せる子だけ表へ出ろと言われました」
「あなたたちは、毎日ここで染め物をしているの?」
「働かないと、夕飯がありません」
「寝る場所は?」
「二階です。でも、今日は新しい寝台を見せるから入るなって」
デルコート男爵が中へ入り、少年の肩をつかもうとした。エラはその手と少年の間へ自分の腕を入れた。男爵の指が空色の袖を汚し、刺繍された銀の小麦に黒い跡がついた。侯爵夫人は外から、子供の作り話をまともに受け取ってはならないと声を上げた。
「この者たちは、規律を嫌って勝手に作業場へ入り込んだのです」
「では、染料と布を誰が用意したのですか」
「職業訓練の一環でございます。将来、自立するために必要なのです」
「食事を与える条件にすることを、訓練とは呼びません」
エラは少年へ名前を尋ねた。少年はトーマスと名乗り、妹のマリーが玄関へ並ばされていると教えた。爪に同じ黒い染料がついていた少女の顔が浮かび、エラは手帳を開いた。紙へ「染色作業、食事との交換、百二十名、煮込み不足」と書きつけると、泥のついた指から茶色い染みが広がった。
物置の次に、エラは実際の寝室へ案内するよう命じた。建物の二階奥には、視察用の部屋とは別の大部屋があり、古い藁布団が床へ隙間なく並べられていた。湿った藁と汗と尿の匂いがこもり、窓には鍵がかかっている。洗濯紐には子供用の下着が重なって干されていたが、生乾きのまま茶色い染みが残っていた。
「新しい寝具は、なぜここへ入れないのですか」
「数が足りませんので、順番に交換する予定でございます」
「先月寄付されたのでしょう。まだ一枚も使われていません」
「保管と配布には手続きが必要です」
部屋の隅でシーツを畳んでいた洗濯係の女性が、何か言いたそうにエラを見た。エラが名前を尋ねると、彼女はマーサと答え、手に持っていた濡れた布を握り直した。デルコート男爵が近くにいるため口を開けないのだと察し、エラは窓の鍵について尋ねるふりをして彼女へ近づいた。するとマーサは、畳んだシーツの間へ小さな紙を挟み、エラへ差し出した。
紙には、視察用寝具の移送予定が書かれていた。王子妃の訪問が終わった翌朝、白いシーツと玩具を南区の慈善院へ運ぶことになっている。来月には別の施設から視察団が来るため、そのたびに同じ寝具を移動させているらしい。エラは紙を手帳の内側へ挟み、マーサには何も受け取らなかった顔をするよう頼んだ。
「殿下、そろそろ記念肖像のお時間です」
「その前に、倉庫と洗濯場を見ます」
「予定が大幅に遅れております」
「子供たちの食事は何年遅れているのですか」
その後、エラは倉庫に積まれた穀物袋の数を数え、厨房で一週間に使う豆と肉の量を聞き取った。洗濯場では石鹸の支給が月に二個しかなく、洗濯係たちは木灰を煮出した液で百人分の衣服を洗っていた。帳簿には高級石鹸が毎月五十個納入されたと記録されているのに、棚には使い古した小さな欠片が一つ残るだけだった。エラの手帳は泥、水、煮込みの汁で汚れ、何枚かの頁は文字がにじんだ。
視察の最後に用意されていた記念肖像は中止になった。エラは玄関に並ばされていた子供たちを物置の子供たちと一緒に食堂へ集め、白パンと煮込みを全員へ配るよう命じた。大鍋の量が足りないため、後援者用に用意されていた焼いた鶏と菓子も切り分けさせた。侯爵夫人は貴賓用の食事だと抗議したが、エラは子供たちを空腹のまま見送るほうが王家の評判を損なうと答えた。
「殿下、慈善事業には秩序が必要です。感情のままに食料を配れば、明日の分がなくなります」
「今日の分すら渡していなかった方が、明日の心配をなさるのですか」
食堂では、トーマスが鶏肉を半分に割り、妹のマリーの皿へ載せていた。最も小さな少年は白パンをすぐに食べず、服の内側へ隠そうとした。明日も食べられる保証がない子供の癖だと分かり、エラは胸元のレースを握った。かつて自分も台所から硬いパンを一切れ持ち出し、枕の下へ隠して眠ったことがあった。
「隠さなくていいのよ。もう一つ欲しければ、ここで食べていいわ」
「明日も、ありますか」
少年に尋ねられ、エラはすぐに答えられなかった。今日だけ食べ物を与えても、明日から元に戻れば何も変わらない。王子妃だから必ず何とかすると言えば、守れない約束になるかもしれない。それでも、何も言わずに宮殿へ帰ることだけはできなかった。
「明日の分を用意させます。その次の日の分もなくならないよう、私が調べます」
王宮へ戻る頃には雨が降り出し、馬車の床へ泥が落ちた。リディアは濡れたドレスの裾を布で拭きながら、刺繍の黒い染みは落ちないかもしれないとつぶやいた。エラは窓から遠ざかる慈善院を見つめ、染みを残したままにしてほしいと頼んだ。きれいに戻したら、今日見たものまで視察用の寝室のように消えてしまいそうだった。
宮殿に着くと、エラは着替える前にルシアンの執務室へ向かった。宰相の机には書類が三つの山に分けられ、端には昼食の残りらしい冷えた魚のパイが置かれている。部屋の蝋燭は以前より本数が減り、窓際の一本だけが昼間から燃えていた。王宮納入業者の調査が始まっているのだと気づいたが、今は慈善院の帳簿を先に見せる必要があった。
「殿下、その格好で宮殿を歩いてこられたのですか」
「着替えたら、先に湯を使えと言われます。そうしたら一刻遅れます」
「泥は逃げません」
「帳簿の数字は逃げるかもしれません」
エラは泥だらけの手帳と、慈善院から借りてきた収支帳簿を机へ置いた。食料費、寝具代、石鹸代、教育費のどれも、現場で見た量と合わない。ルシアンは魚のパイを別の机へ移し、汚れた手帳を一枚ずつ確認した。寝具の移送予定表を見つけると、彼の指が紙の上で止まった。
「この紙を渡した者の名は?」
「言えません。その人が追い出されます」
「証言者がいなければ、証拠として扱えない場合があります」
「では、証言しなくても分かる証拠を探します」
二人は王室が保管している慈善院の過去三年分の帳簿を取り寄せた。エラは濡れたドレスを脱ぎ、リディアが持ってきた厚手の灰色の部屋着へ着替えたが、髪には雨と物置の染料の匂いが残った。卓上には遅い昼食として豆のスープと黒パンが運ばれた。慈善院の煮込みより具が多いことが腹立たしく、エラは肉を横の皿へ取り分けながら帳簿をめくった。
市場の価格表と照合すると、慈善院は豆一袋を通常の三倍の値段で購入したことになっていた。肉は実際の納入量より五倍多く記録され、使われていない高級石鹸や新品の寝具にも毎月保管費が計上されている。接待費の欄には、後援者会議として高価な葡萄酒、白鳥、季節外れの果物を購入した記録が並んでいた。子供たちが薄い煮込みを食べる日に、後援者たちは同じ建物で白鳥を食べていた。
「食料費が三倍に水増しされています」
「納入業者が高く請求し、差額を誰かへ戻しているのでしょう」
「誰に?」
「帳簿だけでは断定できません。しかし、慈善院の後援者名簿にはオルブライト侯爵をはじめ、枢密院の有力者が六名含まれています」
ルシアンは声を落とし、立太子延期の動議へ署名した者の名を挙げた。この不正を今すぐ公表すれば、彼らは調査そのものを平民出身の王子妃による報復だと主張するだろう。ヘンリーの正式な立太子には、そのうち三名以上の賛成が必要だった。ルシアンは証拠を増やし、逃げ道を塞いでから動くべきだと説明した。
夕刻、ヘンリーも執務室へ呼ばれた。彼は狩猟訓練から戻ったばかりで、深緑の上着には枯れ草がつき、革手袋から馬と汗の匂いがした。エラの汚れた手帳を読むと顔を曇らせたが、オルブライト侯爵と直接話し合い、慈善院を改善させる方法がよいのではないかと提案した。いきなり不正を公表すれば、王家と貴族の対立が深まるという考えだった。
「侯爵が知らないところで、院長が勝手にしていた可能性もある。まず事情を聞こう」
「寝具を施設ごとに運ぶ予定表までありました。毎月、接待費も支払われています」
「だからこそ、本人から説明を聞く必要がある」
「いつ聞くの?」
「枢密院の会合が終わってから、時間を作るよ」
ヘンリーは落ち着かせるようにエラの手へ触れたが、その手には乗馬用手袋がついたままだった。革越しの体温はほとんど伝わらず、エラは自分の指についた黒い染料を見た。昼に出会った少年が、パンを服の内側へ隠した姿が頭から離れなかった。
「話し合っている間も、あの子たちは薄いスープを飲むのです。宮殿の都合で、空腹に順番を待たせるのですか」
「空腹を放置しろとは言っていない。臨時の食料を送ればいい」
「それでは、送った食料をまた誰かが売るだけよ」
「エラ、国は厨房のように、その場で鍋を替えれば済むものではないんだ」
「厨房なら、鍋の中身を盗んだ人をそのまま料理長にしておきません」
ヘンリーは手袋を外し、机へ置いた。ルシアンは二人の間へ口を挟まず、冷めた魚のパイを小さく切って食べ始めた。沈黙のなかで皿とフォークが触れる音だけが続き、窓の外では雨が樋からあふれている。やがてヘンリーは、証拠が固まるまで公表しないことを条件に、食料の直接配給と予告なしの監査を検討すると答えた。
「検討ではなく、明日から始めてください」
「宰相と手続きを確認する」
「私も確認します」
「君は王子妃だ。帳簿係になる必要はない」
「子供に食べさせるためなら、帳簿係でも荷運び係でもなります」
エラは手帳を抱え、執務室を出た。寝室へ戻ると、リディアが泥のついた空色のドレスをたらいへ浸し、石鹸で裾を揉んでいた。水は薄い灰色に濁り、銀糸の小麦には黒い染料が残っている。エラはそれ以上洗わなくてよいと頼み、着替え用の古い前掛けを借りた。
その夜、エラは自分に与えられた小さな執務室へこもった。机には慈善院の帳簿、市場の価格表、子供一人に必要な食料の一覧を広げ、蝋燭の脇には夕食の残りの黒パンと薄く切ったチーズを置いた。インク壺の縁には乾いた塊がつき、羽根ペンは何度削っても先が割れた。エラは別の紙へ、納入業者を一社に任せないこと、厨房職員が毎日受取量を署名すること、子供にも献立と納入量を知らせることを書き始めた。
「殿下、もう午前零時を過ぎました」
茶を運んできたリディアが、散らかった机を見て足を止めた。茶には眠気を抑えるため薄荷が入れられ、湯気と一緒に青い匂いが立っている。エラは一頁だけ終えたら眠ると答えたが、すでに同じ言葉を三度聞いたと指摘された。机の下には書き損じた紙が丸めて積まれ、その一つをリディアが拾って平らに伸ばした。
「この『子供による抜き打ち検査』というのは、何をするのでしょう」
「届いたパンの数を、食べる子供たち自身に数えてもらうの。百個届いたと知っていれば、食堂に五十個しか出なかったとき分かるでしょう」
「院長が帳面を見せなければ?」
「食堂の壁へ貼らせるわ。文字を読めない子には、パンの絵を描けばいい」
「では、豆は豆の絵ですか」
「肉は難しいから、骨の絵にしましょう」
二人は紙の端へ、子供でも分かる小さな印を描いた。リディアの骨の絵は魚の骨にしか見えず、エラが牛の骨だと言い張って線を足した結果、最後には枝のようになった。わずかな笑い声が止むと、宮殿の廊下を夜警の靴音が通り過ぎた。リディアは湯浴みの準備をするため、茶器を残して部屋を出た。
エラは最後の一文を書き、手帳を帳簿の下へ入れた。立ち上がると背中が固まり、椅子の跡が腿の裏へ残っている。窓の鍵を確認し、蝋燭の火を小さくしてから寝室へ向かった。廊下の角を曲がったところで、執務室に薄荷茶を置き忘れたことを思い出した。
部屋へ戻ると、閉めたはずの扉が指一本分だけ開いていた。夜警の靴音はすでに遠ざかり、部屋の中から紙をめくる乾いた音がする。エラは声を上げず、壁際に置かれた火かき棒を握った。扉を押し開けると、黒い外套を着た人物が机の前に立ち、帳簿の下から泥だらけの手帳を引き抜こうとしていた。
「それは私のものです」
侵入者が振り返り、頭巾の奥で目だけが光った。次の瞬間、机の蝋燭が床へ払われ、部屋が暗くなった。エラは火かき棒を振ったが、固いものへ当たる音がしただけで、相手は窓を開けて外の回廊へ飛び出した。冷たい雨風が紙を巻き上げ、作りかけの予算書が床一面へ散った。
リディアと夜警が駆けつけたとき、侵入者の姿はなかった。エラは机の下へ膝をつき、濡れた紙を一枚ずつ拾った。泥だらけの手帳は床に落ちていたが、慈善院から持ち帰った寝具の移送予定表だけがなくなっている。開いた窓の金具には、濃紺の上質な布が細く引っかかっていた。
「殿下、お怪我はございませんか」
「ありません。でも、相手は何を探せばよいか知っていたわ」
エラは布切れをハンカチへ包み、残った手帳を胸へ抱えた。窓から吹き込む雨が蝋燭の煙を消し、机の上の黒パンを濡らしていた。誰かが慈善院の不正を隠そうとしている。それだけは、帳簿へ書かれていなくても分かった。




