第3話 笑顔の裏の宮廷社交界
第3話 笑顔の裏の宮廷社交界
王族主催の晩餐会を三日後に控えた朝、エラの寝室には十二着のドレスが運び込まれた。衣装係たちは長椅子や衝立に色とりどりの布を広げ、窓辺に干してあったエラの洗ったハンカチまで別室へ移した。薄桃色の絹、金糸を織り込んだ深緑の天鵞絨、真珠を縫いつけた濃紺のドレスが朝日を受け、部屋の中は仕立屋の倉庫のようになっている。エラは寝起きの白い寝巻き姿でそれらを眺め、どれも一着売れば屋根裏部屋の雨漏りを何度直せるだろうと考えた。
「金色のドレスがよろしいと思います。ヘンリー殿下のお召し物と並んだとき、最も華やかに見えますから」
「いいえ、金色はオルブライト侯爵夫人がお召しになると聞いております。同じ色では、張り合っていると思われかねません」
「では、赤はどうでしょう」
「王妃陛下がお留守の席で赤を選べば、ご自分が女主人だと主張したことになります」
衣装係たちは、ドレスを一着持ち上げるたびに理由をつけて戻した。エラには服の色まで政治になることが信じられず、いっそ昨日の葡萄色でよいのではないかと提案した。しかしマグダレーナ公爵夫人は、同じドレスを短期間に二度着れば王室財政の悪化を疑われると告げた。実際には王宮の衣装部屋に着きれないほどの服があるのだから、二度着るほうが財政にはよいはずだとエラは思った。
「服を大切に着ることが、なぜ貧しい証拠になるのですか」
「社交界は事実ではなく、見た者がどう受け取るかで動きます」
「それでは、誰かが勝手に誤解するたびに、新しい服を作るのですか」
「その誤解によって条約や婚姻が破談になるなら、作ります」
最終的に選ばれたのは、銀灰色の絹に白い薔薇を刺繍したドレスだった。肩から胸元にかけて薄いレースが重なり、腰の後ろには大きな飾り布がついている。灰色と聞いたとき、エラは屋根裏の暖炉を掃除したあとの服を思い出したが、衣装係は月光を表す高貴な色だと説明した。灰にも月にも見える色なら、見る人の都合で意味が変わる宮廷には似合っていると、エラは何も言わず袖を通した。
晩餐会当日の午後、リディアはエラの髪へ真珠を一粒ずつ編み込んだ。鏡台には焼いた林檎と蜂蜜入りの温かな乳が置かれていたが、コルセットを締める前に食べるよう言われたため、エラは林檎を急いで口へ運んだ。芯の近くに酸っぱい部分が残っており、蜂蜜の甘さで渇いた喉に果汁がしみた。リディアが髪を整えながら、厨房では晩餐用の白鳥の丸焼きが大きすぎて、料理人三人がかりでも竈へ入らなかったと教えた。
「それで、どうしたの?」
「首を外して、胴を斜めに入れたそうです。盛りつけるときに首を戻せば、誰にも分かりません」
「宮廷は白鳥まで姿勢を直されるのね」
「法典を載せられないだけ、白鳥のほうが楽かもしれません」
二人が小声で笑っていると、マグダレーナが入室した。彼女は濃い紫のドレスを着ており、首元には黒真珠を三粒だけ飾っている。エラの髪、化粧、爪、靴を順番に確認し、最後に口を大きく開けて歯へ食べ物が挟まっていないか見せるよう命じた。王子妃になっても歯の間まで調べられるのかとエラは頬を熱くしたが、昨日の檸檬の皮が残っているよりはましだと思い直した。
「今夜、殿下に求められるのは三つです。背筋を伸ばすこと、余計な約束をしないこと、怒っても笑顔を崩さないこと」
「怒らせる人が来ると、もう分かっているのですか」
「人が集まる場所には、必ず誰かを怒らせたい者が来ます」
「その人を招待しなければよいのではありませんか」
「招待しないことが、最も大きな攻撃になる場合もあります」
マグダレーナは小さな扇をエラへ渡し、困ったときは返事をする前に一度だけ開くよう教えた。二度開けば退屈、三度開けば相手を軽蔑している合図になるため、数を間違えてはならない。エラは扇を開閉して練習したが、骨の一本が少し曲がっており、三回に一度は布が引っかかった。リディアが別の扇を持ってこようとすると、マグダレーナは本番で道具が壊れることもあるから、そのまま使うよう命じた。
夕刻になると、宮殿の大広間には千本を超える蝋燭が灯された。高い天井から吊るされた水晶飾りへ炎が映り、壁際には淡い色のドレスと黒い礼装を着た貴族たちが並んでいる。花瓶には季節外れの白百合があふれ、蜜蝋と香水と焼いた肉の匂いが混ざっていた。楽団が弦楽器を奏でるなか、エラはヘンリーの腕へ手を添え、頭に法典を載せて歩いたときの姿勢を思い出しながら入場した。
「きれいだよ、エラ。そのドレスは君によく似合っている」
「ありがとう。あなたの金ボタンも、今日は糸が絡まっていないわね」
「侍従に任せたからね。やはり専門家に頼むのが一番だ」
ヘンリーは明るく笑い、集まった貴族たちへ手を上げた。彼の白い礼装には王家の紋章が金糸で刺繍され、胸元には青い宝石の勲章が輝いている。エラは夫の隣へ立つと足元を見られないよう、ドレスの裾から靴先を出さずに一礼した。周囲から拍手が起こったが、扇の陰で交わされる囁きまで消えることはなかった。
「思ったより背がお高いのね」
「労働をして育つと骨が丈夫になるのでしょう」
「まあ、頼もしい王子妃様ですこと」
誰が話したのか確かめようとすると、マグダレーナが少し離れた場所から顎を引くよう合図した。エラは声のしたほうを見ず、ヘンリーとともに席へ進んだ。大卓には金の縁取りがある皿が幾重にも重なり、大小のナイフとフォーク、四種類の匙、脚の長さが違う杯が並んでいる。自分の左右だけでも二十本近い食器があり、エラは食事をする前に金物屋を開けそうだと思った。
最初の料理は、澄んだ琥珀色の牛肉スープだった。表面には小さく刻んだ香草が浮かび、底には燕の卵が一つ沈んでいる。エラは一番丸い匙を選び、皿の奥から手前へ静かに動かした。向かいに座るオルブライト侯爵夫人が、エラの指先から口元まで見ていることに気づいたが、匙を落とせば国外で王家が傾いたと噂されるというマグダレーナの言葉を思い出し、手首へ力を入れた。
「殿下は、ずいぶんお上手になられましたのね」
侯爵夫人は、褒めているような声で言った。彼女は金色のドレスを着ており、胸元に赤い宝石をいくつも重ねている。よく見ると、一粒だけ留め金が緩み、光るたびに傾いていた。エラは外れる前に教えようとしたが、指摘すれば宝石ばかり見ていたと思われるかもしれず、口を閉じた。
「ありがとうございます。マグダレーナ公爵夫人に教えていただいております」
「まあ、夫人もさぞ教えがいがおありでしょう。何もご存じない方を一からお育てになる機会など、めったにございませんもの」
「私も、知らないことの多さには毎日驚いております」
「驚くことがおできになるなら、まだよろしいですわ。平民のなかには、自分が無知であることさえご存じない方もおられるそうですから」
卓の何人かが杯へ口をつけ、笑い声を隠した。エラは扇を開こうとして、食事中は卓上へ扇を出してはならないという規則を思い出した。黙れば無知を認めたと思われ、言い返せば礼儀を知らないと責められる。返す言葉を探しているうちに、隣に座るヘンリーが外交官との会話を始め、エラの様子へ気づかないまま体を反対側へ向けた。
二皿目には川魚の葡萄酒蒸しが運ばれた。白い身は柔らかく、茸と乳脂のソースから胡椒の香りが立っている。給仕係が魚用の平たいナイフを皿の脇へ置いたが、エラはこれまで習ったものと柄の形が違うことに気づいた。手を伸ばすのが一瞬遅れると、侯爵夫人が微笑んだ。
「使い方がお分かりにならないのでしたら、手でお召し上がりになっても、私どもは驚きませんわ」
「お気遣いありがとうございます。ですが、厨房にいた頃、魚は骨を残さず解体しておりました」
エラは魚用ナイフを使い、背骨に沿って身を開いた。皿の上で骨を一本につなげたまま外すと、隣の老伯爵が感心して身を乗り出した。けれども侯爵夫人は「平民らしく器用でいらっしゃる」と笑い、今度はエラの手際そのものを身分の低さへ結びつけた。老伯爵は気まずそうに葡萄酒を飲み、エラも魚の味が分からなくなった。
「私は、褒められているのでしょうか」
「もちろんですわ。慎ましくお黙りになるところも、必要なときには勇ましく振る舞われるところも、本当に平民の方らしい美点ですもの」
侯爵夫人の左右に座る女性たちが、同じ角度で口元へナプキンを当てた。エラには、何を答えても最後に「平民らしい」とつければ、相手は自分を見下せるのだと分かった。屋根裏部屋で義姉たちに責められたときは、少なくとも相手が怒っていることだけは見れば分かった。宮廷では笑顔と柔らかな声の中へ針が隠されており、刺された側だけが痛がれば、騒ぎを起こした者にされる。
三皿目の鹿肉が運ばれる頃、ヘンリーは隣国の大使から官吏登用制度について尋ねられた。彼は待っていた話題だったらしく、椅子へ浅く座り直し、身分に関係なく能力のある者を役職へ取り立てたいと語り始めた。貧しい家庭の子供にも教育の機会を与えれば、王国全体が豊かになると力を込める。エラもその考えには賛成だったが、話が進むほど、卓の上でナイフを握る貴族たちの指が硬くなっていくのが見えた。
「古くから王家に仕えてきた家々の忠誠を、軽んじるおつもりではございますまいな」
オルブライト侯爵が、鹿肉を切りながら尋ねた。彼は銀髪を短く整え、胸には先王から授けられた勲章をつけている。声は穏やかだったが、ナイフの刃が皿へ触れ、細い音を立てた。ヘンリーは敵意に気づかず、血統だけで無能な者が高い地位に就くことこそ、忠誠ある貴族への侮辱だと答えた。
「能力を正しく測る仕組みが必要なのです。生まれではなく、働きによって評価される国にしたい」
「それは立派なお考えです。殿下は、すでにご自身の結婚によって手本をお示しになりました」
侯爵の視線がエラへ移り、同時に卓上の何人もの顔がこちらを向いた。ヘンリーは誉められたと思い、エラの手へ自分の手を重ねた。けれども貴族たちには、エラが何の試験も受けず、王子に選ばれただけで最も高い地位へ入ったように見えている。そのエラを隣へ置いて能力主義を説けば、彼らにとっては矛盾の証拠になるのだと、エラには分かった。
「エラは誠実で、誰よりもよく働きます。私は彼女ほど王家に新しい風をもたらせる人はいないと思っています」
「なるほど。王子殿下の御目にかなうことが、何より重要な能力なのでございましょう」
オルブライト侯爵は杯を上げ、周囲の者たちもそれに続いた。ヘンリーは乾杯を受けたが、エラは自分の手の下でナプキンを強く握った。磨かれた銀食器には、笑っている貴族たちと、笑えていない自分の口元が歪んで映っている。夫の理想は正しいはずなのに、その正しさを証明するための飾りとして、自分が卓の中央へ置かれたようだった。
食事が終わりに近づくと、砂糖菓子を載せた銀盆が運ばれてきた。薔薇、百合、王冠、白鳥をかたどった色鮮やかな菓子が並ぶなか、一つだけ灰色の塊が置かれている。給仕係は迷ったように足を止めたが、オルブライト侯爵の合図を受け、その灰色の菓子をエラの前へ置いた。形は小さな山のようで、表面には黒い砂糖の粉がまぶされていた。
「王子妃殿下のために、特別に作らせました。昔を懐かしんでいただけるかと」
侯爵は柔らかく微笑んだ。灰かぶりと呼ばれ、暖炉の脇で眠っていた頃を指していることは、説明されなくても分かった。周囲の者たちは菓子ではなくエラの顔を見ており、泣くか、怒るか、作法を忘れて皿を押し返すのを待っている。エラは手を膝に置いたまま、マグダレーナの言葉を思い出した。
「ありがたくいただきます。ところで侯爵、この灰色は何でつけたのですか」
「黒胡麻と炭の粉だと聞いております」
「炭は腹の具合を整えるため、下町でも使います。侯爵は私の健康まで気遣ってくださったのですね」
エラが匙で菓子を割ると、中から濃い蜂蜜と胡桃が流れ出した。見た目に反して香ばしく、胡麻の苦みと蜂蜜の甘さもよく合っている。侯爵は一瞬だけ口元を固くしたが、すぐに笑顔へ戻った。エラは菓子を一口食べ、料理人には何の罪もないのだから、あとで名前を尋ねようと思った。
「とてもおいしいです。残ったものがあれば、明日の朝食にもいただきたいわ」
「それほどお気に召したとは、光栄です」
「ええ。灰の中にも、役に立つものはありますから」
近くにいた老伯爵が咳き込み、葡萄酒をナプキンへこぼした。侯爵夫人は扇を開いたが、今度は笑いを隠しているようには見えなかった。エラは返事を間違えなかったはずなのに、指先が冷えたまま戻らなかった。隣のヘンリーは別の貴族と話しており、灰色の菓子が何を意味したのか最後まで気づかなかった。
晩餐会が終わると、エラとヘンリーは長い回廊を並んで寝室へ戻った。窓の外には雲の切れ間から月が見え、庭の噴水を白く照らしている。ヘンリーは今夜の演説について大使から賛同を得たと上機嫌で語り、廊下に置かれた果物籠から葡萄を一粒つまんだ。エラのドレスは背中の留め金が肌へ食い込み、歩くたびに真珠の髪飾りが頭皮を引っ張っていた。
「今日はうまくいったね。みんな君を見ていた」
「ええ。ずっと見ていたわ」
「灰色の菓子も気に入ったようだね。侯爵も君と親しくなりたいのだろう」
「本気でそう思っているの?」
ヘンリーは葡萄を飲み込む手を止め、エラの顔を見た。寝室へ入ると、暖炉の薪はほとんど燃え尽き、卓上には侍女が用意した白湯と、布をかけた夜食のパンが置かれていた。エラは鏡台の前へ座り、真珠の飾りを一本ずつ抜いた。頭皮が引かれて赤くなり、香油で固めた髪は指を通してもほどけなかった。
「侯爵は、私が灰まみれで暮らしていたことを笑ったのよ。夫人は何を言っても平民らしいと笑った。あなたが能力で人を選ぶと言うたびに、みんな私を見ていたわ」
「少し考えすぎではないかな。侯爵は昔から言い方が回りくどい人なんだ。悪気があったとは限らないよ」
「悪気がない人は、わざわざ灰色の菓子を作らせないわ」
「いずれ君の良さを分かってくれる。今夜だって、君は立派に振る舞っていたじゃないか」
ヘンリーは慰めるつもりでエラの肩へ手を置いた。けれども、その手は重いドレスの布の上にあり、締めつけられた背中にも、留め金が食い込んだ肌にも届かなかった。エラは鏡の中の夫を見ながら、抜き取った真珠を小箱へ入れた。最後の一本だけ髪へ絡まり、力を入れると数本が一緒に抜けた。
「あなたは扉を開けて私を宮殿へ入れたわ。でも、そのあと私が一人で囲まれていることには気づいていない」
「私はずっと隣にいただろう」
「椅子は隣だったわ」
エラが答えると、ヘンリーは口を閉じた。暖炉で崩れた薪が小さな火の粉を散らし、卓上の白湯から湯気が消えていった。ヘンリーは何か言おうとして唇を動かしたが、結局、明日になれば疲れも取れると告げ、衣装部屋へ着替えに向かった。エラは夜食のパンを半分に割ったものの、灰色の砂糖菓子の甘さが口に残っており、一口も食べられなかった。
翌朝、午前五時の鐘とともにリディアが寝室へ入ってきた。いつもなら洗面器と着替えを先に運ぶ彼女が、今日は折り畳んだ紙をエプロンの下へ隠している。エラが尋ねると、リディアは侍女長から見せてはいけないと言われたと答えたが、その指は紙の端を強く握り、爪の周りが白くなっていた。窓辺には昨夜脱いだ銀灰色のドレスが掛けられ、裾についたソースの染みを洗濯係が石鹸で叩いていた。
「見せてちょうだい。私について書かれたものなのでしょう」
「お読みにならないほうがよろしいと思います」
「読まなくても、書かれたものは消えないわ」
リディアはためらいながら、匿名で発行されている社交新聞を差し出した。紙からは新しいインクと安い糊の匂いがし、見出しには『灰かぶり妃、王家の晩餐を乱す』と大きく印刷されている。記事には、エラが魚用のナイフを分からず食事を止めたこと、侯爵から贈られた菓子へ無礼な皮肉を返したことが書かれていた。さらに、ヘンリー王子は平民の娘の美貌と妖しい魅力に惑わされ、代々仕える貴族を遠ざけようとしていると続いていた。
「魚のナイフは使いました。骨もきれいに外したのに」
「はい。私も給仕係から聞きました」
「では、なぜこんなことを書くの?」
「本当のことを書くための新聞ではないからだと思います」
エラは記事を折り畳み、朝食の卓へ持っていった。皿には温かな卵料理と焼いた茸、昨日の灰色の砂糖菓子が一つ載っている。料理人が約束どおり残してくれた菓子だったが、今日は蜂蜜の匂いを嗅いでも匙を持つ気になれなかった。窓の外では新聞売りの少年が門前を走り、同じ見出しを声に出して売っていた。
ヘンリーは向かいの席で新聞を読み、眉を寄せた。エラは昨夜の会話を思い出し、夫がようやく自分の置かれた場所を見るのかと、冷めていく卵料理の横で待った。しかしヘンリーは記事を二つに折り、くだらない噂だと言って卓の端へ置いた。新聞の見出しだけが上を向き、灰かぶりという文字が朝日の中に残った。
「こんなものは気にしなくていい。誰も本気にはしないよ」
エラは答えず、灰色の砂糖菓子へ匙を入れた。昨日と同じように中から蜂蜜が流れたが、口へ運ぶと胡麻の苦みばかりが舌に残った。




