第八章 広がる世界
春の朝の光を受けた王立学園の正門は、馬車の窓越しに眺めていたときよりも、はるかに大きく感じられた。その向こうには淡い灰色の石で築かれた校舎が、中央の講堂を囲むように左右へ長く翼を広げていた。
壁を這う蔦には柔らかな若葉が芽吹き始めたばかりだった。石畳の道には馬車が途切れることなく並び、王都に屋敷を構える家だけでなく、遠方の領地から長い道のりを越えてきた家々の馬車も混ざっていた。
それぞれの車体へ掲げられた家紋を確かめながら案内する職員の声や、主人を送り出す従者たちの足音が、朝の澄んだ空気の中へ絶え間なく響いていた。
今日からこの場所で五年間を過ごすのだと思うと、ヴァレリアは自然と背筋を伸ばした。馬車を降りると、目の前に広がる学園をゆっくりと見渡した。
幼い頃から聞き及んでいた王立学園は、貴族として認められるために必ず卒業しなければならず、礼節を学び、人との縁を築き、自らの進む道を見つけていく学び舎でもあった。
「緊張しているか?」
隣を歩いていた父に尋ねられ、ヴァレリアは素直に頷いた。
「はい、少しだけ。ですが、それ以上に楽しみにしております」
「それでいい。この学園で出会う者は皆、同じ貴族ではあるが、生まれ育った領地も家風も違う。だからこそ、物事の考え方も一人ひとり異なるものだ」
父の言葉へ耳を傾けながら周囲を見ると、華やかな馬車から降り立つ令嬢もいれば、長旅の疲れを滲ませながら家族へ別れを告げる子息もいた。
「自分とは違う考えに出会ったときほど、相手の話をよく聞きなさい。だが、聞いた言葉をそのまま答えにしてはならない。多くの声へ耳を傾け、自ら考え続けるのだ」
「……はい、お父様」
母はそんな二人のやり取りを見守っていたが、講堂の入口が近づくと足を止め、ヴァレリアの制服の襟元へそっと手を添えた。
「とてもよくお似合いですよ」
「ありがとうございます、お母様」
「困ったことがあれば先生方を頼りなさい。そして、家へ帰ったら今日あったことを聞かせてくださいね」
「はい」
二人へ深く一礼すると、ヴァレリアは新入生たちの列へ加わり、一歩ずつ講堂へ向かった。
重厚な扉をくぐると、高い天井を白い柱が支える講堂には、すでに多くの新入生が着席していた。
案内された席へ腰を下ろして周囲を見回せば、同じ年齢でありながら体格の大きな者、小柄な者、堂々と前を見据える者、不安そうに周囲を窺う者と、その姿は実に様々だった。
やがて扉が閉じられ、講堂は静寂に包まれた。
式は厳かな空気の中で進められ、祝辞だけでなく、学園で学ぶ者としての心構えを説く言葉も続いた。ヴァレリアは一つひとつを聞き逃さぬよう耳を傾けた。
式が終わると各教室へ移動し、指定された席へ着いた。しばらくして教壇へ立った教師が、教室を見渡して笑みを浮かべた。
「皆さん、ご入学おめでとうございます。本日から皆さんの学級を担当することになりました。五年間という時間を、共に過ごしてまいりましょう」
教室の空気が引き締まる。
「それでは、互いを知るためにも自己紹介から始めましょう」
最前列から順番に生徒たちが立ち上がり、家名と名前、領地について簡潔に紹介していった。
自分の番になるとヴァレリアも立ち上がり、教室全体へ目を向けた。
「クローネンベルク公爵家のヴァレリアと申します。皆様と多くのことを学び、実りある五年間にしたいと考えております。どうぞよろしくお願いいたします」
一礼して席へ戻ると、次の生徒が立ち上がった。
海に面した領地で育った者は港へ並ぶ大小の船について語り、広大な牧草地を有する領地の子息は、季節ごとに移り変わる草原の景色を誇らしげに話した。
山間部で育った令嬢は、冬になると人の背丈ほど雪が積もり、家々を行き来するにも雪道を踏み固めなければならないと笑った。
初日の授業は学園での過ごし方や校則の説明が中心だったが、休み時間になると席の近い者同士が少しずつ言葉を交わし始め、教室のあちらこちらで控えめな笑い声が聞こえるようになった。
「ヴァレリア様は、ずっと王都でお育ちになったのですか?」
隣の席へ座る伯爵令嬢に尋ねられ、ヴァレリアは頷いた。
「はい。王都と領地を行き来することはございましたが、長く過ごしたのは王都でした」
「王都には立派なお店がたくさんあると聞いております。一度訪れてみたいと思っておりました」
その言葉をきっかけに話へ加わる者が増え、王都の市場や祭りの様子、各領地で行われる収穫祭や神殿の行事へと話題は広がっていった。
入学からひと月ほどが過ぎる頃には、教室を包んでいた遠慮がちな空気も薄れていた。授業中の意見交換も活発になり、休み時間には分からない箇所を教え合ったり、それぞれの領地の暮らしについて語ったりする姿が当たり前になっていた。
ヴァレリアも王都について尋ねられれば知る限りを話し、その代わりに学友たちの故郷について教えてもらった。
広大な牧草地を馬が駆け抜ける景色、多くの商船が出入りする港町、春になっても雪が残る山々。教本で名前や産物しか知らなかった土地が、学友の言葉によって少しずつ姿を持ち始めていた。
初夏を迎え、窓から吹き込む風が心地よく感じられる頃には、学園での生活もすっかり日常となっていた。
ヴァレリアは帰宅すると、その日に授業で教わった内容だけでなく、学友から聞いた領地ごとの風習や産業、話の中で疑問に思ったこと、さらに調べてみたいことまでノートへ書き留めるようになった。
答えの分からない問いには小さな印を付け、次の授業や王城での学びの際に確かめることにしていた。
やがて訪れた夏季休暇も、ヴァレリアにとって学びを休む期間ではなく、これまで休日に王城で行われていた講義が毎日の日課へ変わっただけだった。
ある日の授業を終えた後、ヴァレリアは印を付けたノートを開き、王城の教師へ向き直った。
「先生、学園で各領地の冬支度について伺いました。北部と南部では暮らし方が大きく異なることを知ったのですが、それほど違うのであれば、国として一律の決まりを作ることはできるのでしょうか」
教師はヴァレリアの向かいへ腰を下ろした。
「では、備蓄を例に考えてみましょう。ヴァレリア様、備蓄は何のために必要なのでしょうか」
「冬を越すため……でしょうか」
「それも一つです。他にはございませんか」
ヴァレリアは学園で聞いた話を思い返した。北部では雪に閉ざされる前に多くの食料を蓄えるが、王都ではそこまで多くの冬支度は必要としない。
「……飢饉や災害が起きたときのためでもあると思います」
教師は頷いた。
「その二つは、同じ備蓄でしょうか」
冬を越すための備えは土地によって違う。しかし、飢饉や災害は北部だけに起こるものではない。
「いいえ。同じではありません」
「なぜそう思われましたか?」
「冬を越すための備蓄は、その土地の気候によって必要な量が変わります。ですが、飢饉や災害への備えは、どの領地でも必要だからです」
「では、その二つを国が同じように定めるべきでしょうか」
ヴァレリアはノートへ書き留めた学友たちの話を思い返した。
雪深い北部と温暖な南部では必要な備えが違う。だからといって、すべてを各領地へ任せればよいわけでもない。
しばらく考えた末、ヴァレリアは口を開いた。
「国全体で共通して守るべきことと、それぞれの領地で決めるべきことを分ける必要があると思います」
「そのように考えられた理由は何でしょう」
「学園で皆様のお話を伺って、それぞれの領地にはそれぞれの事情があることを知りました。ですが、違いがあるからこそ、皆が同じように守るべきことも必要だと思います」
教師は机の上の地図を指先でなぞった。
「国を治める者は、一つの領地だけを見て判断することはできません。一方で、王都だけを見ても正しい判断はできません。それぞれの土地の事情を知ったうえで、王国全体にとって何を共通とし、何を各領地へ委ねるべきかを考える必要があります」
ヴァレリアは頷き、ノートを開いた。
『共通に守るべきことと、各領地へ委ねるべきことを分けて考える』
そう書き加えた後、その下へ、
『一つの話だけで答えを決めない』
と記した。
入学の日、父から聞いた言葉がふと頭に浮かんだ。
秋が深まり、学園の中庭に赤や黄金の葉が舞い落ちるようになった頃、ヴァレリアは友人たちと食堂へ向かっていた。
中庭へ差しかかると、一人の令嬢が足を止めた。
「あら、モーゼス殿下ですわ」
視線の先、大きな木の下のベンチにはモーゼスが腰掛けており、隣には一人の令嬢、その周りには数人の生徒たちが集まって楽しそうに話していた。
学友たちに囲まれて笑うモーゼスを見て、ヴァレリアは学園で楽しそうに過ごしていることを嬉しく思った。
「さあ、参りましょう。食堂が混んでしまいますわ」
友人に促され、もう一度だけモーゼスへ視線を向けてから歩き出した。
やがて秋も過ぎ去り、学園は白い雪に包まれた。
王都で暮らしてきたヴァレリアにとって雪は珍しいものではなかったが、北部の学友は「今年は少ないくらいです」と笑い、南部の学友は初めて見る雪景色に目を輝かせていた。
同じ王国に暮らしていても、それぞれが当たり前だと思っているものは違う。父から聞いた言葉も、夏にノートへ記した問いも、学園で過ごすうちに少しずつ意味を持ち始めていた。
ヴァレリアは窓の向こうに降り続く雪を眺めながら、まだ知らない土地や人々のことを、もっと知りたいと思った。




