第七章 変わりゆく日々
新しい制服に身を包んだモーゼスを乗せ、馬車が王城の正門を抜けていった。
春の温かな風に揺れるカーテンの隙間から、ヴァレリアはその姿が見えなくなるまで見送り、今日から王立学園へ通い始めるモーゼスはどんな気持ちで馬車に揺られているのだろうと考えながら、来年には自分も同じ制服を着て学園へ向かうのだと思うと胸が躍った。
教師に呼ばれてようやく窓辺を離れ、文字や歴史の講義を受け、昼食と礼儀作法の稽古を終える頃には、窓の外は夕暮れに染まっていた。
廊下へ出ると、学園から戻ったモーゼスが侍従と話しながら歩いてくる姿が見えたので、ヴァレリアは足を早めた。
「お帰りなさいませ」
「ただいま」
少し疲れた様子ではあったが、モーゼスは笑みを返した。
「学園はいかがでしたか?」
「思っていたより緊張したよ」
「お友達はできましたか?」
「まだそんなに話せてはいないけれど……ひとり、印象に残った子がいたんだ」
「どのような方ですか?」
「自己紹介で『カタリーナ・アウエです。五年間よろしくお願いします』って言って、それだけで座ったんだよ」
「それだけですか?」
「うん。ほかのみんなは家のことや得意なことまで話していたから、逆に覚えてしまったんだ」
「不思議な方ですね」
ヴァレリアが笑うと、モーゼスも「そうだね」と笑った。
それからしばらく、モーゼスは学園から戻るたびに、初めて教わったことや昼食の献立、教師に褒められたこと、学友たちから聞いた話などを思い出した順に話してくれるようになり、ヴァレリアも毎夕その時間を楽しみに待つようになった。
「雪深い領地では、春になっても畑に入れないことがあるらしいよ」
「そんなに長く雪が残るのですか?」
「うん。だから雪が解けると、みんなで一斉に畑を耕すんだって。大変だけど、みんなでやるから楽しいと言っていたよ」
「海を見たことがない人もいるんだよ」
「私もありません」
「そうだったね。海の近くで育った人は、風の匂いまで違うって言っていた」
教本では産物や人口、土地の特徴としてしか知らなかった場所にも、それぞれ異なる暮らしがあるのだと知るたび、ヴァレリアは自分も同じ教室でその話を聞いてみたいと思い、来年の入学がますます待ち遠しくなった。
初夏を迎える頃にはモーゼスも学園生活に慣れ、夕食前に顔を合わせたある日には、領地ごとの祭りについて話してくれた。
「王都みたいに広場へ集まるところもあれば、家族だけで祝う土地もあるんだって。収穫物を神殿へ納める地域もあるらしいよ」
「まあ……教師は教えてくださらなかったのですか?」
「先生は国全体のことを教えてくれるけれど、実際にそこで暮らしている人の話のほうが分かりやすいよ」
ヴァレリアは少し考えてから、「私も早く皆様のお話を聞いてみたいです」と答えると、モーゼスは「来年になれば聞けるよ」と当たり前のように笑った。
盛夏を迎える頃になると、モーゼスは学園から戻ってもすぐには顔を見せなくなり、制服を着替えると自室で課題に取りかかるため、公爵家へ戻る刻限まで待っていても会えない日が増えていった。
顔を合わせても以前のように一日の出来事を最初から最後まで話すことはなくなり、ある日の夕刻、勉強を終えたヴァレリアが廊下へ出ると、モーゼスが本を抱えて自室へ向かうところだった。
「今日はどのようなお勉強をされたのですか?」
声をかけられたモーゼスは足を止めた。
「領地経営についてだよ」
「難しかったですか?」
「それほどでもないよ。ただ、みんなと話していて分かったんだ。王都で教えられているやり方が、どの領地でも正しいわけじゃないんだって」
「そうなのですか?」
「土地によって事情が違うからね。先生もそうおっしゃっていたけれど、実際に領地を持つ家の人たちのほうが詳しいよ」
モーゼスは手にしていた本を持ち直すと、「ごめん。今日はまだやることがあるんだ」と言い、ヴァレリアも「はい。お勉強、頑張ってください」と答えて、そのまま去っていく背中を見送った。
秋が深まったある日の夕方、ヴァレリアが控えの間で父の迎えを待っていると、わずかに開いた隣室の扉から国王とモーゼスの声が聞こえてきた。
モーゼスは各領地の冬支度について報告しており、北部では降雪前に食料を蓄え、南部では冬でも作物が育つことなど、学友から聞いた話をいくつか挙げた後で言葉を続けた。
「ですが、王都から出される指示はどの領地にも一律なので、実際には役に立たないことも多いそうです」
「どのような話を聞いたのだ?」
「友人の父上が、そうおっしゃっていたそうです」
「ひとつの意見として心に留めるのはよい。だが、王都の指示も各領地からの報告を受けたうえで出されているのだよ」
少し間が空いた後、モーゼスが再び口を開いた。
「けれど、実際にその土地で暮らしている方のほうが、王都にいる者より詳しいのではないでしょうか」
「そのとおりだ。だからこそ領主から報告を受け、国全体を見渡して判断するのだ」
「それでも、みんなは『王都の貴族は領地の現場を知らない』と言っています」
「みんなとは、誰のことだ?」
モーゼスの返事はすぐには聞こえなかった。
「……学園の友人たちです」
そこで会話が途切れ、やがて部屋から出てきたモーゼスと目が合ったヴァレリアは、聞くつもりではなかったのだと伝えようと慌てて口を開いた。
「申し訳ございません。聞くつもりではなかったのですが……」
「いいよ」
「陛下のお話は、難しかったですね」
モーゼスはわずかに首を傾けた。
「父上は、王都からの視点でしか物事をご覧にならないから」
ヴァレリアは返す言葉を探した。
先ほど国王は、領地の事情を知らないとは言っていなかった。むしろ各地から報告を受けたうえで、国全体を見るのだと話していた。
「でも、陛下は――」
「学園へ来れば分かるよ」
モーゼスはそう言い残して歩き去り、去年の春には入学を待ち遠しくさせたその言葉を、ヴァレリアは返事もできないまま聞いていた。
冬が訪れて庭園が雪に覆われると学園は長期休暇に入ったが、それでもモーゼスが以前のようにヴァレリアの勉強部屋を訪れることはなく、学友から届いた手紙を読み、返事を書くため自室で過ごすことが多かった。
ある日、王城の図書室で顔を合わせたヴァレリアは、開いていた教本をモーゼスへ向けた。
「こちらがよく分からないのですが、教えていただけますか?」
「いいよ」
モーゼスは丁寧に説明してくれたが、その中には教師から教わった内容とは異なる部分があった。
「先生は、このようにおっしゃっていました」
ヴァレリアが指で該当する箇所を示すと、モーゼスは首を振った。
「それは王城で教えるための答えだよ」
「学園では違うのですか?」
「違うというより、王城の教えだけが正解ではないんだ」
「では、どちらを覚えればよいのでしょうか」
モーゼスは少し考えた。
「自分で正しいと思う方を選べばいいよ」
「正しいかどうかは、どうやって決めるのですか?」
モーゼスは答えず、開いていた本へ視線を戻した。
冬の終わりに差しかかり、雪解け水が小道を濡らし始める頃、公爵家にヴァレリアの制服や教本が届き、鏡の前で仕立て上がった制服に袖を通すと、去年の春に見送ったモーゼスと同じ学園へ通うのだという実感が湧いてきた。
翌日、王城を訪れたヴァレリアは、勉強を終えたモーゼスに声をかけた。
「もうすぐ私も学園へ参ります」
モーゼスは一瞬目を丸くした。
「そうだったね」
「同じ学園へ通えることを楽しみにしております」
「僕も楽しみだよ」
以前と変わらない笑顔にヴァレリアも笑みを返したが、モーゼスはすぐに「じゃあ、僕は学友へ返事を書かなければならないから」と告げた。
「はい。また明日」
自室へ戻っていくモーゼスを見送りながら、ヴァレリアは去年の春、毎日のように彼の帰りを待ち、聞いたことのない土地や人々の話に耳を傾けていた頃を思い出した。
いつから、あの時間はなくなってしまったのだろう。
それでも来年からは自分も同じ学園へ通うのだから、また以前のように、同じものを見て、同じ出来事について語り合えるようになるはずだ。
そう思いながら、ヴァレリアはモーゼスの姿が消えた廊下をあとにした。




