第五章 決断の重さ
モーゼスとともに学ぶ授業が始まって一年。十歳になったヴァレリアは、ひとつの地図を囲んで互いに意見を出し合い、答えをまとめていく時間にすっかり慣れていた。最初はモーゼスに後れをとることも多かったが、今では課題を与えられると、何から確かめるべきかを自ら考えられるようになっていた。
その日の午前も、王都へ流れ込む川の水量が減った場合の農地や町への影響をふたりで議論した。季節や作物に応じた用水の配分について話しているうちに、授業の終わりを告げる鐘が鳴った。
教本を閉じ、地図を畳んで道具を鞄へ収めると、ふたりは揃って頭を下げた。
「ありがとうございました」
「モーゼス殿下、本日の授業は以上でございます」
モーゼスは鞄を手に取り、まだ席に残るヴァレリアへ笑顔を向けた。
「では、また明日」
「はい。また明日」
モーゼスが退出すると、教師は共通授業の資料を棚へ戻し、鍵のかかった戸棚から革の筒を取り出した。机の上で紐を解き、一枚の紙を広げていく。
「これから帝王学の授業ですね」
「はい。本日は、こちらの村について考えていただきます」
現れたのは、王都から南へ離れた小さな村の地図だった。中央を流れる川の周囲に畑や牧草地、街道沿いに穀物倉と家々が描かれている。だが、畑の半分ほどには斜線が引かれ、川沿いの数軒には小さな印が付けられていた。
「こちらの印は何ですか?」
「春先の長雨で川が氾濫し、畑が浸水いたしました。今年の収穫は例年の半分にとどまる見込みです。家を失った村人たちは、近隣の家に身を寄せております」
教師は村の人口と、ひとりが冬を越すために必要な食料が書かれた紙を渡した。
「このままでは冬を越す前に食料が底をつきます。そのため、王都の倉から不足分を送ることになりました」
「それなら、皆さん助かりますね」
「今年は北部でも冷害があり、すでに多くの備蓄を出しております。この村へ配分できるのは、百人が冬を越せる量だけです」
ヴァレリアは紙の数字に目を落とした。村の人口は二百人。
「……百人分しかないのですか?」
「そのとおりです」
二百人の村に、百人分の食料しかない。何度数字を見ても、それは変わらなかった。
教師は急かすことなく待った。
「ヴァレリア様が王であれば、どのように差配なさいますか?」
「二百人に、平等に分けるべきだと思います。一人だけ多く受け取るのではなく、みんなで少しずつ分ければ……」
「百人分の食料を、二百人で分けるのですね」
教師に促されて計算すると、一人あたりの食料は春を迎える前に尽きてしまう。
ヴァレリアの手が止まった。
「これでは、途中で食べるものがなくなってしまいます」
「森で木の実や獲物を探すこともできますが、全員を養うには足りません。雪が積もれば、森へ入ることも難しくなります」
「では……」
ヴァレリアは再び地図へ目を落とした。
「百人に確実に冬を越せる量を配りますか?」
ヴァレリアは顔を上げた。
「残りの百人は、どうなるのですか?」
「その百人には、十分な食料を渡せません」
「そんな……」
誰に渡し、誰に渡さないのか。その基準さえ思いつかなかった。
しばらく地図を見つめていたヴァレリアは、やがて街道の先へ目を向けた。
「食料があるのは王都だけではありません。近くの領地や町から少しずつ分けてもらえれば、二百人分を集められるかもしれません」
「では、隣の領地も長雨で被害を受け、自分たちの分しか残っていないとしたら?」
「それなら……いただくわけにはいきません。その人たちが困ってしまいます」
「豊作だったこちらの領地には余裕があります。ただし、荷車で十日かかります」
「十日……」
ヴァレリアは村に残されている食料の量を確かめた。
「届くまで持ちません」
近くには余裕がなく、遠くには食料があっても間に合わない。
ヴァレリアは何度も地図と数字を見比べた。
「……難しすぎます」
教師は頷いた。
「それが、帝王学でございます」
ヴァレリアが顔を上げる。
「王が向き合う問題には、いつも正しい答えが用意されているわけではありません。一つを選べば、別の場所に影響が出ることもあります」
「では、どうすればよいのですか?」
「考えるのです。誰が困っているのか。何が足りないのか。どこからなら動かせるのか。それによって新たに困る者はいないか。確かめられるものをすべて確かめ、それでも選ばなければならない時には、王が決めます」
ヴァレリアは地図へ視線を戻した。
「間違ってしまったら?」
「その結果から逃げることはできません」
教師はそう答え、地図を指した。
「ですが、本日のヴァレリア様は、最初に示された二つの方法だけで終わらず、別の領地から運ぶ方法を探されました。それでよいのです」
「でも、助けられませんでした」
「今日は、答えを出すための授業ではありませんから」
教師は地図を巻き直し、革の筒へ収めた。
「答えが見つからないからと、考えることをやめない。それを覚えておいてください」
授業を終えて廊下を歩いていても、地図に描かれた村が頭から離れなかった。
それでも、いつか本当に同じ決断を迫られたとき、分からないからと目を逸らすことだけはしたくなかった。




