第三章 王都の市場2
粉屋の主人は慌てて店先へ飛び出すと、行き交う人々をかき分け、人だかりの方へ向かっていった。
先生も護衛から離れないようふたりに声をかけ、後を追って外へ出た。通りの先では一台の荷車が大きく傾き、片方の車輪が石畳へ深く沈み込んでいた。御者や通りがかりの商人たちが声を掛け合いながら押していたが、高く積まれた麦袋が揺れるばかりで、車輪はびくともしなかった。
「あれです」
駆け寄った粉屋の主人は荷台を見上げ、積まれた袋を確かめた。
「やっぱり、うちへ届くはずの麦だ」
主人の姿に気づいた御者は、帽子を取って頭を下げた。
「申し訳ありません。あと少しというところで落っこちてしまいまして……」
「怪我はありませんか」
先生が尋ねると、御者は汗を拭った。
「人も馬も無事です。ただ、どうにも抜けなくて」
再び荷車へ肩を当てると、商人たちも力を合わせた。
その様子を見たモーゼスが一歩前へ出た。
「先生、早く助けないと!」
先生は頷き、市場を巡回する騎士を呼ぶよう護衛へ目配せした。護衛が人混みを縫うように駆けていく間にも、近くの商人たちが荷台から麦袋を下ろし始め、通りかかった者まで手伝いに加わった。
ヴァレリアとモーゼスは、その様子を見守った。
やがて駆けつけた騎士たちも残りの麦袋を下ろし、一同と息を合わせて荷車へ肩を当てた。
「せーの!」
掛け声とともに木枠が軋み、深く沈んでいた車輪が持ち上がった。次の瞬間、ごとりと音を立てて石畳へ抜け出し、人だかりから歓声が上がった。
「動いた!」
モーゼスが声を弾ませた。
下ろされていた麦袋が積み直され、御者が手綱を握って粉屋へ向かうと、後続の荷車も順に動き始めた。
「では、参りましょうか」
先生に促され、モーゼスが歩き出した。
だが、ヴァレリアはその場に残っていた。
先ほど車輪が落ちた場所の石畳は砕け、ぽっかりと穴が開いていた。通り過ぎる荷車はその場所を避けて進んでいる。
ヴァレリアは先生の袖を引いた。
「先生」
「どうしました?」
ヴァレリアは崩れた石畳を指差した。
「このままで、よいのでしょうか」
先生は穴を確かめ、近くで人々を誘導していた役人へ声をかけた。
「少々よろしいでしょうか」
「はい、どうなさいました?」
役人は穴を見下ろした。
「これは危ないですね」
すぐに近くの商人へ板と樽を運ぶよう頼み、別の者には修繕を担当する職人を呼ぶよう指示した。穴の周りが板と樽で囲われると、人々は役人の案内に従って脇を通り始めた。
やがて道具を積んだ荷車と職人たちが到着し、作業が始まるのを見届けてから、一行は再び歩き出した。
粉屋へ戻ると、助け出された荷車も無事に到着しており、主人や職人たちが次々と麦袋を運び込んでいた。
遅れたことを詫びる御者に、主人は笑って肩を叩いた。
「無事に届いてくれたなら十分ですよ。本当に助かりました」
ヴァレリアは倉庫へ運び込まれていく麦袋を見つめた。
先ほど手の上に載せてもらった小さな麦の粒も、こうして誰かに運ばれ、粉屋へ届いているのだ。
「では、約束どおりパン屋へ戻りましょう」
先生の言葉に、モーゼスは「はい!」と元気よく返事をした。
店へ戻ると、主人が焼き上がったパンの並ぶ棚を示した。
「お待たせしました。お好きなものをどうぞ」
モーゼスは真っ先に棚へ近づき、丸いパンや細長いパンを目を輝かせて見比べた。やがて干しぶどうが練り込まれたパンを見つけると、声を弾ませた。
「わあ、これおいしそう! ぼく、これにします」
主人はパンを紙へ包み、モーゼスへ手渡した。モーゼスは嬉しそうに包みを抱えた。
その隣で、ヴァレリアも棚を眺めた。
目移りするほど並んでいたが、ヴァレリアが手を伸ばしたのは、最初にこの店で目に留めた素朴な丸いパンだった。
「わたくしは、こちらをいただきます」
主人は頷き、丸いパンを紙へ包んで渡した。
「ありがとうございます」
ヴァレリアは両手で受け取った。
市場の入口へ戻り、待たせていた馬車へ乗り込む。
動き出した馬車の窓から、ヴァレリアは市場を振り返った。
車輪が落ちていた場所では、職人たちが崩れた石を取り除き、新しい石を嵌め込んでいた。その脇を荷車や人々が行き交っている。
膝の上の包みからは、まだほんのりとパンの温もりが伝わってきた。
向かいでは、モーゼスが自分のパンを抱えていた。
「早く食べたいな」
ヴァレリアは膝の上の丸いパンへ目を落とした。
朝には、ただおいしそうに見えていたパンだった。
けれど今は、その向こうに麦を育てる人、運ぶ人、粉を挽く人、パンを焼く人たちの姿が浮かんだ。
馬車は賑やかな市場をあとにし、王城へ向かって進んでいった。




