第三章 王都の市場1
王城で学び始めて三年。六歳になったヴァレリアは、先生の話を最後まで聞くことも、疑問をその場で尋ねることも、使い終えた物を元へ戻すことも、誰かに言われる前にできるようになっていた。朝の支度が始まると、その日に必要な教本や筆記具を自分で確かめて鞄へ収めることも、すっかり習慣となっていた。
その朝も机へ並べた教本から必要なものを選ぼうと手を伸ばしたが、傍らに控えていた侍女が首を横へ振った。
「ヴァレリア様、本日は教本をお持ちにならなくてよいと伺っております」
「あっ、そうでした。今日は、いつもとちがうお勉強でしたね」
昨日の授業の終わり、先生は「明日はお楽しみです」とだけ言って、内容を教えてくれなかった。
用意されていたのは、いつものドレスではなく、裾を少し短く仕立てた淡い青の外出着だった。足元には歩きやすい革靴、日差しを避ける帽子まで添えられていた。
「お父様は、今日のお勉強を知っていますか?」
廊下で待っていた公爵に尋ねると、父は「ああ、知っているよ」と頷いた。
「先生が内緒にしていることを、父が話してしまっては申し訳ないからな。きっと楽しい授業になる、とだけ教えておこう」
帽子が必要になる勉強とは何だろう。馬車に揺られながら考えているうちに、王城へ到着した。
学習室の扉を開けたヴァレリアは、窓辺に立つ少年の姿を見て足を止めた。
「……モーゼス?」
振り返ったモーゼスが、ぱっと表情を明るくした。七歳になった彼もまた、飾りの少ない服と革靴を身につけていた。
「おはよう、ヴァレリア。今日は一緒みたいなんだ」
「モーゼスも、何をするか聞いていませんか?」
「うん。『剣の練習かな』って言ったら違うって。『馬に乗るのかな』って言っても教えてくれなかった」
ふたりで首を傾げていると、教師が部屋へ入ってきた。
「お二人とも、早いですね。今日は学習室を飛び出します。人々がどのように暮らし、物を作り、売っているのかを実際に確かめに行きましょう」
「どこへ行くのですか?」
「市場です」
ふたりは顔を見合わせた。
「目に入ったものを、ただ眺めるだけではいけませんよ。気になったことがあれば、何でも聞いてくださいね」
「分からなかったら、聞いていいのですね」
「もちろんです。そのための見学ですから」
紋章を外した簡素な馬車に乗り込み、一行は市場へと向かった。
馬車を降りた瞬間、威勢のよい競り声や客たちの話し声、石畳を軋ませる荷車の音がヴァレリアの耳に飛び込んできた。色鮮やかな野菜や果物、光を弾く魚、色とりどりの布地が並び、子どもたちが人混みをすり抜けて走っていた。
「あのお魚、わたくしより大きいです」
「そんなことないよ!」
身を乗り出すモーゼスを護衛が制した。
その時、通りの向こうから香ばしい匂いが漂ってきた。ヴァレリアは鼻をひくつかせた。
「パンのにおいがします!」
「本当だ!」
視線の先では、窯から出されたばかりの丸いパンが湯気を立て、木の棚へ並べられていた。
三年前、初めて王城へ向かった朝にも、馬車の窓から同じ香りが流れてきた。
「あのパンは、どうやって作るのでしょう?」
先生が笑った。
「今日最初のお勉強が決まりましたね」
香ばしい匂いの満ちる店先では、前掛けを白く染めた職人たちが生地をこねていた。店主は見学を快く受け入れ、丸められた生地を見せてくれた。
「これが焼き上がると、あのパンになるんですよ」
「触ってみてもいいですか?」
先生の許可を得て、ヴァレリアが指先でそっと突いた。生地はもちりと沈み、ゆっくりと元へ戻った。
「ぼくも!」
モーゼスが勢いよく指を突っ込むと、白い粉と生地が指に張りついた。
「くっついた!」
店主とヴァレリアが吹き出し、モーゼスも照れくさそうに笑った。
「どうして手に粉をつけるのですか?」
「手にくっつかないようにさ。生地は生き物だからね。休ませて膨らませて、窯の火加減を間違えずに焼いて、ようやく食卓へ届くんだ」
店主は生地を長柄の板へ乗せ、窯の奥へ滑り込ませた。
「このパンを作るには、何が必要だと思いますか?」
先生の問いに、ヴァレリアは「小麦粉とお水です」と答え、モーゼスが「塩と、火も!」と付け加えた。
「正解です。では、その小麦粉は誰が作ったのでしょう?」
「パン屋さんですか?」
店主は笑って首を横に振った。
「うちの仕事は焼くことさ。粉は粉屋さんが届けてくれるんだよ。奥に積んである袋がそうさ」
積み上がった麻袋を示され、ヴァレリアは目を丸くした。
「粉屋さんは、農家から買い取った麦を石臼で挽いて粉にする。農家が育て、運ぶ者がいて、粉屋が挽いて、俺たちが焼く。どれが欠けても、このパンは店に並ばないのさ」
「粉屋さんにも行ってみたいです!」
モーゼスが声を弾ませると、先生は頷いた。
「では、パンになる前の小麦に会いに行きましょう」
市場の奥へ進むにつれ、華やかな店は減り、大きな倉庫や木箱が目立つようになった。漂う匂いも、焼きたてのパンから乾いた穀物と木の香りへ変わっていった。
低い地鳴りのような音が響く建物に入ると、室内の中央で巨大な石臼が重々しく回っていた。流し込まれた麦の粒が石の間へ吸い込まれ、白い粉となって木箱へ落ちていった。
「おおきい……」
粉屋の主人は、ヴァレリアとモーゼスの手に小さな麦の粒を乗せた。
「そのままじゃ硬くて食べられない麦も、こうして挽いて粉にすれば、いろんな料理に使えるのさ」
服や髪を白くした職人たちが、重い袋を担いでは石臼へ麦を注ぎ込んでいた。
「もし粉屋さんがお休みしたら、どうなりますか?」
「うちの手が止まれば、パン屋も菓子屋も仕事にならないね。王都中のパンが消えてしまうよ」
モーゼスが積み上がった袋を見上げた。
「じゃあ、王城にたくさん置いておけばいいのかな」
「王城だけに集めてしまったら、街の人々はどうなるでしょう?」
先生に問われ、モーゼスは黙り込んだ。
「みんなの分がたくさんあればいいのですね」
ヴァレリアが手のひらの麦を見つめながら言うと、粉屋の主人は「その通りだ」と笑った。
だが、すぐに通りの方へ目をやった。
「どうなさいましたか?」
主人は通りの先を確かめ、ため息をついた。
「いやね……今朝届くはずの麦の荷車が、まだ来ないんですよ。いつもなら日の出前に着くんだが。このままじゃ明日の粉が足りなくなる」
ヴァレリアは手の中の小さな粒を見つめた。
麦が届かなければ、粉が作れない。粉がなければ、パン屋はパンを焼けない。
その時、外から慌ただしい足音が響いてきた。
「親方! 通りの向こうで、麦の荷車が動けなくなってます!」




