第三十五話 再起
深く暗い水面に、僅かに陽の光が差し込む。
思考は鈍く、五体五感の感覚は曖昧で、体と外界の境界線すらもわからない。浮上と沈降を繰り返しながら、その光に近づくほど、認識は徐々にハッキリとしてくる。
そして自分の名前が浮かび上がってきた時、彼女――アオイ・イリスの意識が戻った瞬間だった。
しかし、まだ霞がかかったように意識は茫洋とし、現実を認識できる状態には今しばらくの時間を要した。
「――ドライブ動作安定。――粒子流入を確認。変換を――」
「自動――により、患部の再生を――!」
「――イタル数値、安定!――在力の回復――!」
「やりましたよ、――ンさん!おめでと――ます!」
……うっさいな。
耳に入ってくる言葉は断片的で意味を成さず、アオイには不快な雑音でしか無かった。
「ありが――す。でもまだ聖剣がアオイ――だけで、まだ本起動には――」
しかし、聞き慣れた声を耳にし、まどろみの霞が少し晴れる。
同時に、体の感覚が覚醒しつつある脳へと伝わり、状態を知らせる。
体が重い。指先がチリチリする。胸がひどく痛い。喉が渇いた。でも、それらは徐々に和らいでいく。
と、右手に違和感を覚える。何かが絡みついているような感触だ。アオイは瞼を薄く開け、目だけを横に動かす。そこには、無数のコードが右腕から伸びていた。
(まるでロボットだな)
そんな事を思いながらそのコードの先を辿る。繋がっていたのは点滴などではなく、
(……剣?)
それは紛れもなく、鞘に収められた剣だった。
箱型の機械に埋め込まれたその剣は、さらにいくつかの機械や計器に繋げられていた。
見慣れない剣だ。
そういえば、私の剣は、[ベルカ]はどこに――!
そこでアオイの脳裏に記憶を蘇り、同時に電流が走ったような衝撃がまどろみの霞を完全に吹き飛ばして現実を認識させた。
フラッシュバックする、直前の光景。
振るわれる刃が、明確な殺意で身を切り刻んだ。そして最後に見た、吹き出す鮮血の向こうに見たその相手は――
アオイはそこで思考に急ブレーキを掛け、開きかけた瞼を固く閉ざした。
まるで、そうすることで現実と自分を切り離し、また暗く曖昧なまどろみに戻れると信じるように。
「まもなくアオイは目を覚ますでしょう。その間に、各ステータスの数値のチェックをお願いします。僕は粒子コントロールのプログラムを調整します」
レンたちが慌ただしく部屋を出て行く足音の後に、部屋は静寂に包まれる。
意識はすでに覚醒していたが、対照的にアオイの意思は全てを拒み、昏睡の暗闇を求めた。
まるで体の中心に鉛の玉を埋め込まれたかのように体は重く、呼吸をすることすらも苦痛に感じた。思考は現実からの逃避に没頭する。
憧れの勇者、ヴィル。
拒絶の言葉とともに振り下ろされた無情の刃。
斬られたからこそわかる。そこに込められていたのは、紛うことなき殺意と憎悪。
憧れの相手に向けられる負の感情は、疑似勇者らのような明確な殺意よりも遥かに恐ろしかった。
そして、その彼によって折られた。
亡き母が残してくれた、たった一つの形見である聖剣[ベルカ]。
物心つく前に母を失ったアオイにとって、[ベルカ]は唯一の母との繋がりであった。
形見であり、勇者としての立脚点でもある[ベルカ]の喪失は、二度目の母の死に他ならない。
今の彼女の心は、癒えつつある身体とは真逆に、ズタズタに引き裂かれたままであった。
――もういい。もう、戦いたくない。
そんな時、部屋のドアが開き、誰かが入ってきた。
誰だろうと、知らない。何をされても起きはしないと心に決め、アオイは固く目をつぶった。
「アオイさん?目覚めたのかしら」
その声の主は、ガーネットだった。
なぜここにいるかは知らないが、アオイは無視を決め込む。今は彼女の相手をする気にはなれなかった。
しばらく様子を窺ったガーネットは、鼻で小さくため息をつく。
諦めて帰るか。
そんなアオイの予測は、文字通り覆された。
ガーネットはつかつかと歩み寄りベットの柵を掴むと、あろうことか一息で持ち上げひっくり返した!
身の丈を越える聖剣を振り回すガーネットの膂力は、アオイが上に乗っていようと一切構わない。ベッドは騒々しい音を立てながら部屋を軽々と転がり、反対の壁に激突する。
ひしゃげながら倒れたベッドの上に、ベッドシーツがふわりと舞い落ちてくる。
しかし、そこにアオイの姿は無かった。
「ふん。やっぱり目覚めてましたわね」
舞い落ちたシーツの向こうには、両足でしっかりと着地したアオイが睨みつけていた。
「この非常時に一人ベッドでお休みなんて、ずいぶんと偉い身分になりましたわね?」
「いきなり何するんだお前は」
口調こそ、いつものぶっきらぼうなアオイのものであったが、そこには彼女特有の芯の強さは全く見当たらなかった。
「光栄に思いなさい。この私自ら直接お見舞いに来てあげましたのよ」
「お前の見舞いは病人のベッドをひっくり返す事か?だったら今後二度と見舞いには行くな、このバカ!」
怒り顔のアオイなど一切気にする様子もなく、ガーネットはアオイの手を取る。
「さ。目が覚めたなら行きますわよ。寝ている暇なんて無くってよ」
「行くって、どこにだ」
「無論、戦場に決まってますわ。魔属群はもうすぐそこにまで迫ってます」
強引に引っ張るガーネット。しかし、アオイはその手を払い除ける。
「私は行かない」
「それは面白い冗談ですわね。面白すぎてお腹が割れそうですわ」
アオイの神妙な顔を見れば冗談など言っていないことは誰が見ても一目瞭然なのだが、ガーネットはやはり意に介さずあくまでマイペースな態度を崩さない。
「冗談なんかじゃない。私はもう、戦えないんだ」
「そうでしたの。それはかわいそうに。わかりました。全て任せてあなたはここで休んでなさい……などと私が言うとでも?逃げるための口実にしてはお粗末ね」
一片の同情も情けも見せない冷淡なガーネットの言葉はアオイを苛立たせた。
「何も知らないくせに……!お前にわかるか!今の私の気持ちが!」
「お生憎様。あなた方に起こったことは全て聞いています。もっとも、知っていようがいまいが、関係ありませんけれども」
アオイの泣くような悲痛な叫びも、ガーネットは一笑に付す。
「柄にもなく悲劇のヒロイン気取り?笑わせないで。人の生において悲しみも絶望も常にあるものですわ。大事なのは、それにどう立ち向かうか。でも、あなたはどうかしら?自分の全うすべき責務を果たそうともせず、こんなところでふて寝を決め込む。そんな人間の気持ちなんて、ええ、確かにわからないわね」
終始冷静な物言いだが、その奥には揺るぎない何かが常に熱を放っていた。
挟持、プライド、誇り、気位……
ガーネットを構成するそれらは、アオイの泣き事めいた言葉は全く受け付けはしない。
「対峙しなければならないものに怯え、逃げるだけでなく、それを正当化しようとしている。そんなあなたをライバルなどと認めた自分を恥ずかしく思います」
ガーネットの指摘は言い逃れできない真実と、彼女の正直な思いを内包していた。
だからこそ、どこまでも高潔で気丈なガーネットがアオイには忌々しかった。さりとて真っ向から反論もできず、だから皮肉げにぼそりと一言、呟く。
「こんな思いをするくらいなら、いっそ死んだ方がマシだった……」
パァンッ!
ガーネットが放った平手打ちがアオイの頬を打ち、乾いた音を室内に響かせた。
「もう一度言ってみなさい。次は本気で殴りますわよ」
反射的に食って掛かろうとしたが、ガーネットの真剣な眼差しに射抜かれ、口を噤む。
「あなたがこうして目覚めるまでにどれだけの人間が尽力したか知れば、そんな口は利けなくってよ」
「目覚めるまでって、何のことだ?」
当然だが、目覚めたばかりのアオイは自分がどんな状況だったかは知る由も無い。
「あなたはついさっきまで死にかけていたのよ。そして我社の誇る名医すら諦めたあなたを救ったのは、レンさんですわ」
「死にかけてって……いや、待て。レンがか?」
「ご自分の傷もけっして軽くはないのに治療すらも後回しにして、必死になって聖剣を作った。だからあなたは目覚めることができたのよ」
聖剣をつくることがどうして命を救うことになるのか、理解できず顔をしかめるアオイ。その様子を見て取ったガーネットは、その経緯をおおまかに説明をした。
「――そして彼はマギ・ボクスを使用するために、本社に脅迫をかけようとまでしたのよ」
さすがのアオイもぎょっとする。そんなことをするレンの姿を思い浮かべようとするが、まったくうまくいかない。それほどまでに意外だった。
「そんなことをすればただでは済みませんわ。最悪、その場で射殺されてもおかしくはなかった。無論、そんなことは百も承知だったでしょう」
「レンがそんなことを……」
「そう。そんなことをする人でも、できる人でもないことはあなたが一番わかるでしょう?その彼が、そこまでした覚悟は並大抵ではないことも」
言われるまでもない。レンがアオイを理解しているように、レンの性格はアオイもよく知っている。
そのレンをそうさせたのは、他ならぬ自分のためだということも。
「本当の強者とは、逆境の中でどう振る舞うかで見分けられる。レンさんは真に強い人ですわ。やはり私の見る目に狂いはなかった」
アオイは今更ながらガーネットが思わず手を上げた理由をようやく理解した。
同時に、自分がいかに身勝手なことを口にしたかを。
「レンさんだけではないわ。魔属領から出現した大規模魔属群の侵攻を少しでも遅らせるべく、貴方の二人の従属は最前線で戦っているそうよ。あなたが来ることを信じて……勇者であることに背を向けて逃げると言うなら、止めはしません。でも、それはあなたを信じ、戦い続けた数多の者たちを裏切ることになるいうことは覚悟なさい」
声高に告げたガーネットは、沈黙しながらも視線を向けるアオイの顔を正面から見据える。
アオイの目には先程までにはない光が僅かに宿っていた。
昏い瞳に宿った、ほんの種火の如き微弱な光――しかし、再起の光としては十分であった。
それを見て取ったガーネットは、もう用はないとばかりに背を向ける。
「次また腑抜けた姿を見せたら承知しませんわよ、勇者アオイ。私のライバルは、もっといい面構えだったわ」
そう言葉を残し、彼女は部屋を後にした。
その背を見送るアオイの表情に、もう迷いはなかった。




