姉妹、悪巧みに加担する 1
〇
接客小売り業者にとって『万引き犯』というのは常に嫌悪と警戒の対象であり、何らかの対策が徹底されているものである。紫子の働いているスーパーにおいてもそうだった。
始業前の朝礼においては監視カメラが捉えた万引き犯の写真を見せられ、特徴を暗記させられ、現れた場合にどういう対応をとるのかマニュアルを日替わりで暗唱させられる。言えなければ容赦のない叱責が店長から降り注ぐ為、紫子はメモ帳に書き写したそれを緑子の前で音読するなどして懸命に覚えなければならなかった。
上手に覚えられなくて本気の苦痛を訴える情けない姉を、優しい緑子は献身的に慰め励ましてくれた。店長か窃盗犯のどちらかを恨めればまだ気持ちも楽になるだろう。しかし店が潰れれば困るのは紫子も同じなので店長を恨むことはできず、ならば万引き犯を憎めるのかというとそれも難しい。紫子もかつて万引き少女だったからだ。
「なああんた。そこのおネーちゃん」バイト中、紫子はポケットに商品を入れた少女に近づいて、目を合わせずに口にする。「ポケットの中のモン、売り場に戻してきぃや」
一見して目を引く少女である。ぱっつんと切りそろえた長髪を限界まで脱色しており、上半身をけだるげに前傾させている。眠たげな瞳はだるそうに細められていて、口には40円くらいのよくある小さな棒付きキャンディ。上背は百六十センチ程度だろうか。年齢は紫子と同じか少し上くらい、茜の通うのと同じ高校の制服を着ている。
一目見て紫子が感じたのは奇妙な既視感である。どこかで見たことのあるような雰囲気を感じ取ったのだが、その正体がなかなか思い当たらない。何か思い出さないかとレジ周りのメンテナンスをしながら様子を伺っていたところ、彼女が商品であるボールペンをポケットに滑り込ませるのを目にしたのだ。紫子はさりげなく注意をすることにした。
「んー? んーうー?」少女は間延びした声を発した。「なんのこと?」
「なんのことちゃうやろ。ウチは見たで」紫子は目を合わさずにぼそぼそと口にする。「この店万引きには厳しいんや。学校と親に連絡行くで? 売り場に返すんならウチは見逃すけん、言う通りにしてくれや」
マニュアル上、こういう時はただちに店長に報告をしたのち、出入り口を通って窃盗が確定した段階で、声をかけることになっている。よって業務上褒められた行動ではないのだが、施設時代脚の痛みを訴える妹の為に鎮痛剤を盗んだ過去のある紫子は、子供の万引き犯というものに同情的になってしまう。
「ペン買うお金ないんか誰かにやらされとるんか知らんけど、ほなけど学校通えんようなったらあんたにとってあかんわ。その制服、この辺でいっちゃんえぇ高校のやろ? 友達が通うとるねん。せっかくベンキョーできるのに、退学やなったらもったいな……」
言い終える前に、少女は紫子のズボンのポケットに十数本のボールペンを突っ込んできた。すべて未開封。買ってきたばかりのような新品ばかりだ。
「あんた目敏いチビだねー。……言ってることは的外れだけれど」少女はけだるげに言う。「近所のコンビニとかスーパー全部回って、ボールペンを一本ずつ盗むって遊びしてんのー。ここで最後だったのにー……ばれちった。ざんねーん」
「あ、あんた……なにをふざけたことを……」紫子は眉を顰める。「面白半分の、ただの泥棒かい。アホなやっちゃな」
「どうとでも言えば? 今まだわたし、この店からはなんも盗んでないし、あんたには手出しのしようがないしね」少女はどこ吹く風といった表情で言って、出入り口に向けて歩き出す。「ばかみたいだねー、あんた」
「あんたのことは店長にチクっとくけんな。もう二度とくなよ」紫子は憤慨する。
「あいあーい」少女は肩をすくめ、それから紫子の方を振り向く。「あとこれ、返しとくよ」
少女が放り投げてきたものを見て、紫子は目を剥いた。大事なものなので地面に叩き付けられたりしてはたまらない。かろうじてキャッチしたそれは、紫子の携帯電話だった。
いつの間に掏られていた。ボールペンの束をポケットに突っ込んできた時だろうか? 入れられていることを意識させられていた所為で、取られることに無警戒になってしまっていたらしい。
「ばいばーい」少女は出入り口をくぐってこちらに手を振っている。「店長さんによろしくねー」
紫子は眉を顰めて少女の背中を憎々しい気持ちで見守った。心底腹立たしいが、去っていくその背中を攻撃したところで自分が幸せになる訳でもない。妹が傷ついたのでもないのだから、堪えねばならない場面である。
紫子は店長のところへ行ってことの顛末を説明する。最初に万引きを見逃そうとしたことについてまで正直に白状したので、当然、叱責される。
「なんでマニュアル通りにしなかったの?」
「教わったとおりにせんかったんはホンマすんません。けど窃盗が成立するまで泳がしてから逮捕するんとかちょう陰湿な気がしたんです。悪いことする前に注意して止めさすんがホンマなんちゃうかなって、つい思うてもて……」
「なるほど。でも西浦さん、この店で捕まえておかなかったが為にその人が他所で万引きをしたら、迷惑をかけることになってしまうんだ。この場で改心させられる保証なんてないしね。だからやはり、そこはマニュアル通りに行動すべきだったと僕は思うよ」
「そ、その通りです。ウチが悪かったです」
「分かってくれればいいよ」
その後店長と二人でカメラの映像を確認する。
「この女の子?」と店長。
「はい」と紫子。
「すごい金髪。ほとんど白だね……うん?」店長は首を傾げ、映像を一時停止させる。「すごい度胸だな、この子」
「何がですか?」
「高校の制服着てるだけでなく、胸に名札もつけっぱなしなんだ。こうしてカメラで調べられることになった時、一発で身元がばれる。まあ、この子は内の店で特に何かをしたとかじゃないから、学校に連絡をしても注意くらいしかしてくれないだろうけどね」
自分の携帯電話がとられたことはどうなんだと思ったが、無事に返って来たので大した責任は取らせられないという理屈なんだろうか。投げ返してきた時にあえて受け損なって床で破損させてやれば器物破損罪を適応できたかもしれないが、しかし相手をわざと罪人に仕立て上げるような真似は卑怯なのでしたくなかった。
「名札に苗字が書いてあるみたいだけど……」店長は目を細める。「西浦さん、読める?」
「ちょう待ってください」紫子は画面に顔を近づける。漢字とか読めるかな。「ええっと……」
その字を読んで、紫子ははっとした。少女を初めて見た時に覚えた不思議な感覚、その正体に感づいたからだ。
「西浦さん?」店長は訝しむ。「なんて書いてあるの?」
「そのぅ……」
そうだ。『彼女』だ。この少女の雰囲気は、どこかしら『彼女』に似ているのだ。紫子は思う。それであれほど強力な既視感を覚えたのだ。
「『北野』です」紫子は背の高い隣人の顔を思い浮かべる。友達の漢字だから読めるのだ。「北野っていいます、この女の子」
◇
「胡桃くん胡桃くん」
「なんだい茜さん」
「今ちょっと思ったんですが、このクラスに『北野』ってメスがいますよね?」
「メスとは何だい?」
「二つある人間の性の内の一つで、X染色体のみを持ち、卵巣や子宮などを有します。私の分類もこちらですね」
「僕の尋ねたかったのは何故『女の子』とか『女子』でなく『メス』などという不躾な言い方をしたのかという点についてだよ。まあそれは些細なことと割り切って、『北野』という女子がいるかどうかという話をすると、いるね」
二人の所属する教室である。落伍者である胡桃がいつものように教室の隅でラノベを読んでいると、茜がそれを奪い取って声をかけて来たのだ。
「あのすごい髪の毛をしている子だろう? 背が僕と同じくらいの」
「ええまあ。隣を通る時あなたがいつもびくびくしている彼女です」
「……僕のような『冴えない男子』というキャラクターからすると、彼女のような『派手な女子』というキャラクターは畏怖の対象でしかないのさ」
「その腰抜けぶりで良く私と付き合えますね」
「告白した時は一世一代の勇気を振り絞ったものさ。君はそれだけの価値のある女の子だけれどね」
「だったらなんで一回フったのです?」
「君さ。僕が家に帰って執筆途中だったふたなり系のエロ漫画の続きをやろうとするだろう? そこで何者かによってヒロインの顔の上に君の顔写真が上書きされていたとなると、僕が感じた動揺というのは筆舌に尽くしがたいものがあったのさ。いよいよ限界を感じたとしても何らとがめられる謂れはないと思うね」
「つい窓から家に侵入したら恋人の変態性を目の当たりにさせられたことに対する、意趣返しのつもりだったのです。それにあなたの好きな女性は私でしょう? うれしくなかったので?」
「君のことは好きだしセクシャルな感情だってある。だが僕にとってのふたなりというのは、男性器を植え付けられてしまった女性の困惑や羞恥を楽しむ為のものなのさ。君からちんちんが生えたとしても僕は興奮しない。なぜなら君は自分の股から何が生えてきたとしても動揺するとは思えないからさ」胡桃は堂々と己の性的嗜好を語った。
「やだ……ちょっと恰好良い……」茜は赤らめた頬に手をやった。
教室のはみ出し者二人が男女交際をしている事実はそこそこ知られている。特に隠すとかしていないし、他に友達のいない二人なので行動をかなり共にしていたからだ。茜が胡桃を何かと連れまわしたがり、胡桃はそれに付き従うという形。胡桃は割と受け身な性質なので、振り回してくれる女王様とは相性が良かった。
「それでその北野さんがどうしたの?」
胡桃は教室の出入り口で親友の小柳文江と会話している北野朱梨の方を見る。口にはよくある棒付きキャンディ、とろんとした目とけだるげな猫背、限界まで脱色した白っぽい金髪。教師にいくら注意されてもあしらうような態度をとり続けられる気の強さから、周囲には一目置かれていた。
「いえ。紫子ちゃん達の知り合いに、『北野』という女性がいますよね?」と茜。
「あの背の高い人だろう?」と胡桃。
「同じ苗字ですよね」
「そうだね」
「関係者なのでしょうか? 血縁関係があるだとか」
「そういう話題な訳だ」胡桃は納得して頷く。「『ハイカワさん』の方の個性が強すぎるから、特に似ているとか感じなかったけれど……意識してみると確かに、ちょっと雰囲気は似ているかもしれないね。本人に聞いてみるのが手っ取り早そうだけれど、どちらかというと僕はアパート暮らしで長身の『北野』さんの方に確認を取りたいかな」
「それはどうして?」
「クラスメイトの『北野』さんが怖すぎるからさ。僕は彼女にカツアゲされかけたことがある。小柳さんとか青島さんとか白石さんと一緒に取り囲まれた。恐喝されているから警察を呼んでくれと大声でわめいたら開放してもらえたけれど、その間に僕は少量のおしっこをちびらせてしまった」
「私のボーイフレンドとは思えない程、あなたって人は情けないですね」
「すまないね」胡桃は苦笑する。
「あの、東条さん、ちょっといいかしら?」級長の茶園が二人に駆け寄ってくる。「少し厄介なお願いなんだけれど、こんなことあなたにしか頼めないの。聞いてくれない?」
「これはこれは茶園さん。あなたにはお世話になっています。なんとでも仰ってくださいな」茜は胸を張る。「私は救いのヒーローです。このドン・アッカーネに不可能などありません。かつては悪魔王サタンの居城に乗り込み一緒に遊戯王で遊んだこともあります」
「今日の一時間目って移動教室じゃない?」茜の妄言は無視して茶園は話を進める。
「そうですね」
「それで今この教室、西側の扉が故障中で、閉めきられている」
「そのように記憶しています」
「東側の扉の前で話をしている女子がいるわよね? 小柳さんと北野さん」そういって茶園は二人の女子に視線をやる。「扉を完全に封鎖する形になっている。誰かが注意しないと皆教室から出ていけないんだけれど、あの二人のことはみな怖がっているから……。真っ向から意見できそうなのは、この教室だとあなたくらいじゃない?」
「確かにあの二人は邪魔だ。そのせいで僕はすぐに教室を移動できず時間を気にしながらここでラノベを読む羽目になっている」胡桃は言った。「とはいえそれは、トラとヒョウの構える門にライオンをぶつけるような所業だね」
「私はティラノサウルスです。ようするに、あの二人をぶちのめしゲートを開放すればよろしいのですね?」案の定、茜は何か勘違いしている。
「もう少し冷静に話のできる人材を起用するのも手立てだと思う。例えば茶園さん、あなたは級長で人望もあるし、冷静に話をするくらいのことはできたんじゃないの?」胡桃が尋ねる。
「『その内どく』っていうばかりで、全然どいてくれないのよ」茶園はため息を吐く。忸怩たる表情だ。「会話に夢中って感じでね。そうでなくとも、ワタシは小柳さんから点取り虫と蔑まれているから……」
「だからって茜さんをぶつけなくても。難なら僕がお願いしてみようか?」と胡桃。
「カツアゲされかけて小便チビってたあなたに何ができます? まあ任せてくださいよ。あの二人にはどのみち聞きたいことがありますしね」
そう言って茜は北野朱梨と小柳文江の方へと向かう。楽しそうに熱心に話しかける文江に対して、朱梨がけだるげな態度でアップルティを飲みながらスマートホンをいじくっているという風情だった。
「おはようございます北野さん、小柳さん」茜は堂々たる口調で言った。「いきなりで申し訳ないのですが、北野さんの方に聞きたいことが」
「なぁにー?」朱梨は面倒臭そうな表情でスマートホンに視線を注いでいる。
「あなたの姉妹か親類に、背の高い痩せた女性はいませんか? アパートで独り暮らしをしていて、声を出すことをしないというような」
「北野霞ならわたしの姉だよ」朱梨は茜に視線を注ぐ。いつものとろんとした瞳とは違い、訝しむような強い意思が見て取れた。「それだけ?」
「お答えいただきありがとうございます」茜は満足した表情を浮かべる。「それはそれとしてそこをどいてはいただけないですか? 移動教室の邪魔になるのです。あなた方はもう少しそこで駄弁っていくつもりなのかもしれませんが、一メートルばかり場所を移動していただくだけで私を始め多くのクラスメイトが快適に通行できます。これはとても素晴らしいことなのです」
「ちょっと待って東条」文江がそこでにらむような視線を茜に向けた。「なんであんた、霞ちゃんのこと知ってんの?」
霞ちゃん、というのは胡桃の良く知る『ハイカワさん』こと北野霞のことなのだろう。文江と朱梨の親密さからすると、家族ぐるみの幼馴染のような関係なのかもしれない。
「友達を救う為、ともに戦ったことがあります。ええ、戦友という奴でしょう」茜は腰に手をやって話し始める。「このことを説明するとなると原稿用紙150枚程の中編小説並になってしまいますので、ここでは語りません。私の胸にさえ秘めていれば良いのです。それよりも今あなた方の成すべきことは、罪のないクラスメイト達の為そのゲートを開放することでしょう」
「ねぇ東条。あたしさ、あんたのそういう態度には常日頃、ムカついてるんだよね」文江は眉を顰めて茜に迫る。「というかあんたのことがそもそも嫌い。誰の所為でカナコが退学になって、マナミが転校する羽目になったと思ってるの?」
カナコというのは青島加奈子、マナミというのは白石真奈美。前者は中絶費用を稼ぐ為にクラスメイトからカンパを募ったことを茜に密告されて退学となり、後者は茜の飲料に下剤を混ぜた末報復され学校にいられなくなった。
「そりゃあたしがここにいたら通行の邪魔ってのは理解できるよ? でもね、あんたの言うこと聞くのは癪だわ」
「向こうの扉は開放厳禁です。あなたがどかない限り、みな教室の外に出られません」
「無理すりゃ開くでしょ」
「私を嫌悪するのは構いませんが、あなたの感情を満足させるためにそこまでしたいという人はいないでしょう」
「知るかっ、そんなのっ!」
「まあいいじゃんさぁー、文江ー」朱梨がけだるげな表情で言った。「どいてあげよーよー」
「よろしい」茜は胸を張る。「さあさあ、道ができますよ愚かなる人民たちよ。この私に続き、いざ化学実験室へと……」
持っていたアップルティを、朱梨は茜の顔面へとぶちまけた。
教室の空気が硬直した。文江は親友の挙動に目を見開いており、茜は笑顔で胸を張ったまま固まっている。髪の毛からぼたぼたと流れる液体が地面に一滴はねたところで、朱梨がけだるげに道を開けた。
「お似合いだね、糞漏らし。さあ、どうぞ。通れば?」
「ちょっと北野さんっ」胡桃はそこで前に出て抗議した。「茜さんの言っていることは何一つ間違っていないはずだよ? 悪いのは君たちだった。それなのに感情任せに飲み物を顔にかけるだなんて、やることが卑劣なんじゃないのかな?」
「黙れオカマ野郎。粋がんな」朱梨は肩をすくめる。「とっとと行ったら?」
「喧嘩なら買いますが」茜は微笑んで朱梨の方を向く。目は笑っていなかった。「なんのつもりです?」
「ムカついたから嫌がらせしただけだよ?」朱梨は言う。「別にどついてもいいよ? わたし抵抗しないし。でもあんた、これ以上停学になったら進級に差し支えるんじゃないの? ここはぐっとこらえた方がいいと思うなー」
「……ふむ」茜は目を閉じて、首をひねる。「これはひょっとして、私の負けですか」
「そうなんじゃね?」
「一つ言わせていただいても?」
「なぁに?」
「『覚えとけよ』」
見ていてぞっとするような笑みを浮かべて、茜は教室の外に出ていった。




