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姉妹、同窓生と会う 4

 〇


 百五十キロに迫る速度で放たれた白球は、張り詰めた糸をなぞるような軌道で、真っ直ぐに捕手のミットへ向かう。絶妙なコースへと投じられたそのボールはしかし、ミットへ収まる前に金属バットでぶっ叩かれた。

 才藤正大が投じて東条茜によって打ち返されたそのボールは、天高く舞い上がって青空に消える。一瞬がして視界に戻って来たそのボールは、外野手が掲げたグラブにしっかりと収まった。

 「ああもう! なんで!」特大のフライを打った茜は地団太を踏む。「なんでホームランにならないんですか!」

 「……外野まで飛ばせるだけすごいと思うよ」そう言うのはキャッチャーの後ろに立っていた胡桃だった。「才藤投手は本気で投げて下さってる。そのフルスイングで、バットに当てられるだけでも凄まじいことだ」

 「俺らでもそいつの球は打てん」サードで腕を組んでいる男が言った。「やっぱ女じゃねぇな、そいつ」

 「性別は関係ないでしょう!」茜は眉を顰める。「もう一打席お願いします。打ち砕いて差し上げましょう」

 「これで三打数連続外野フライだろ? 三球でスリーアウト。お前の負けだ」とサードの男。

 「あわやホームランという当たりもあったけれどね。この学校グラウンド広いから」と胡桃。

 「何してんのあんたら」

 呆れた声で言ったのはフェンスの前でその勝負を見物していた緋口だった。隣には紺本、そして後ろでは紫子と緑子もそのやり取りを見守っている。

 「これはみなさんお揃いで」茜がこちらに気付いたように視線を向け、腕を組んだ。「見てらしたんですか。いやぁ情けないところをお見せしました。本物ですよ、彼」

 そう言って、ちらりと茜は才藤の方に向き直る。

 「今回は私の負けにしてさしあげましょう。あなたがジャイアンツのエースになることを認めます」

 「あ、あざっす」才藤はぎこちない笑みで答える。「でも、びびりました。東条さん、すごいスイングしてます。東条さんの体重が後二、三十キロあったらホームランですね。どっかでなんかやってるんですか?」

 「バッティングセンターに通っています」茜はそう言ってバットを放り投げて立ち去る。「敗者は去るとします。全力で投げていただいてありがとうございます」

 そのバットを回収して近くの部員に預けつつ、胡桃がその後ろを付いて行った。

 「遊びは終わりだ」サードで腕を組んでいた男が言う。「東条、てめぇ二度とくんなよ」

 茜はそれをガン無視して、胡桃を背後に従えて紫子達のところへ歩いて来た。

 「あ、あかねちゃん?」紫子は目を剥いた。「あんた、なんしょんねん?」

 「才藤投手と勝負をしていました」茜は額の汗をぬぐいながら口にする。「彼は良い男です。胡桃くんの次にですけど」

 「嬉しいことを言うね」と胡桃。

 「胡桃さんくらい忍耐力のあるイエスマンじゃないと、東条さんのカレシは務まらないでしょう」緋口は皮肉っぽい口調で言った。「務めたがらない、とも言えるでしょうけど。相性ってありますよね」

 「良く勝負までこぎつけましたね」と紺本。「ファンの女の子がたまに『投げて』ってせがみますけど、きりがないからしないことになってるんですけどね」

 「キャプテンを務めていた男の顔に見覚えがありまして」茜は人差し指を立てる。「弱味は握っておくものですね」

 この女は自分がやりたいと思ったことは迅速かつ確実に達成させる。能力と意志力を高いレベルで併せ持つだけでなく、どんな卑怯な手段も厭わないのだ。彼女が本当の意味で負けているところを、紫子は今までに見たことがない。

 「……すごいなぁ、アイツ」紫子はいがぐりアタマの集団の中で、ひときわ存在感を放っている才藤に視線を向けた。「あかねちゃんに勝ちおったわ」

 「本当だねぇ」緑子は感心したような顔をした。「本当に、マサくんなの?」

 「ええ。本当よ」緋口は言った。「健気なもんでしょ? あの努力は全部あんたの為なのよ、緑子」

 才藤は上級生からノックを受けていた。外野に向かって放たれる白球を全力のダッシュで取りに行っては返球し、取りに行っては返球するのを繰り返している。そういう練習なのか上級生は守備範囲の両端に交互にボールを放つので、才藤は数十メートルの距離を常に全力疾走し続けなければならず、気が遠くなるような数のボールを追いかけた彼は意識を失ったかのようにその場に倒れ込んでしまう。

 「根性ねぇな!」上級生がヤジを飛ばす。「立て、おら」

 「はい!」才藤はよろよろと立ち上がる。「すいません! 続けてください!」

 「もう百本!」

 まだそんなに続くのか紫子は目を見張る。才藤の顔色は明らかに悪く遠目に見て分かるほど汗だくで、早急な休息が必要かのように思える。自分ならあの状態からまだ頑張り続けるのはとても無理だ。一歩たりとも動けないと思う。

 あれを続けるのに必要なのは体力だけじゃない。気力であり根性だ。強靭な忍耐力と精神力があったからこそ彼は壮絶な練習を続けて来られたのだろう。そしてその努力があったからこそ彼は素晴らしい選手になることができたのだし、その努力を続ける限り彼の才能はさらなる輝きを放ち続ける。

 才藤はすごい奴だ。紫子は思った。

 「最後まで見てやって」緋口は言った。「汗と泥にまみれた姿を見て何とも思わない女はいないんですって」

 「なんやねん、それ」紫子は眉を顰めた。「誰が言うたん?」

 「元はと言えばあんたのセリフでしょ?」

 「あ?」

 「ほら。小学生の頃。緑子に振られた『マサくん』に、あんたが追い打ちをかけた時のことよ。覚えてないの?」

 紫子は記憶を蘇らせる努力をした。


 〇(※)


 小学生の頃だ。

 紫子達とともに四年生になった幼馴染『マサくん』は、厳格な父親に無理矢理入団させられた少年野球チームの落ちこぼれだった。球拾いばかりを上級生に押し付けられて、他の同級生たちのように上手にサボることもできず、不平を顔に浮かべながら馬車馬のようにただ働いていた。

 そんな様子を紫子は妹と一緒に見に来ることがあった。たまに茜が練習に乱入して剛速球で六年生たちをねじ伏せて呵々大笑するということがあり、その間紫子達は球拾いや道具磨きを手伝っていたのだ。

 『マサくんいつも一人でがんばってて偉いよねぇ』緑子はそう言って当時の才藤に気遣わしげだった。『今日はわたしも手伝うからね』

 緑子は当時から美少女だったし、その優しい微笑みに才藤が惚れるのは今にして思えば道理な話ではある。

 普段の才藤は上級生からのシゴキやイビリを黙って受け入れ続けるような気の弱いとこもあったが、しかし芯は強かったのだろう。心から誓ったことに対して発揮できる勇気というのは並々ならぬものがあった。才藤はラブレターを描いて緑子を校舎裏へと呼び出すと、姉を同伴して訪れた意中の彼女に愛の告白を敢行した。

 『ぼく、君のことが好きなんだ! 恋人になってくれ!』

 緑子の顔はみるみる内に朱色に染まり、ひぇえと情けない声を発したかと思ったら姉に縋りついた。拒絶されたことに気付いてショックを受けた才藤が緑子の方へにじり寄ると、緑子は姉の手を引いて全力でその場を逃げ去った。

 『なんで断ったの?』

 紫子が何の気なしにそう聞くと、妹の答えは

 『わたし子供なのに恋人なんて変だよ! おかしいよ。才藤くんえっちだよ! びぇええん!』

 というものだった。ようするに恋をするには当時の緑子は幼過ぎたのだ。

 姉妹は告白されたことを触れ回ったりしなかったが、しかし何が起きたかはクラスメイト達は察しの上だったろう。可愛らしく控えめで、その大きな優しさを今よりももう少し無邪気に溢れさせることのできた緑子はおおいにモテて、不器用な男子達の『好きな子イジメ』の被害にあっていた。正々堂々告白して来た才藤には見るべきものもあったが、しかし代償は大きかった。緑子は才藤に怯え近づくとすぐ姉の後ろに隠れ始めた。

 あまりに尊い愛の生贄となった才藤の二の舞にならぬよう、男子たちはますます不器用になって緑子にちょっかいをかけた。紫子は『ひーちゃんアイツなんとかしよーよ!』と叫ぶ回数を増やし、緋口は帰りの会の度に『佐藤くんがスカート捲りをしました』だの『鈴木君が髪の毛を引っ張りました』だのと男子達を糾弾した。

 そんな日常のある時、紫子は才藤から呼び出しを受けた。一人で校舎裏に来てほしいということ。姉を引き留め付いて行こうとする妹をなだめすかし緋口にお願いし、紫子は単身才藤の元へ突貫した。

 当時の紫子としては『妹がダメなら今度はあたしかよ。あのエロ野郎!』くらいの気持ちだったのだが、しかし待ち受けていた才藤の言動は意外なものだった。

 『ぼくはどうしても緑子ちゃんが好きなんだ』才藤は目を潤ませた。『君なら緑子ちゃんがどういう男子が好きかを知ってるかと思って……。ぼくがんばるから。だから教えてくれないか?』

 紫子はきょとんとして目を丸くした。ショックを受けたようにすら思う。

 紫子は緑子自身が大好きだし愛していたが、何より大事なのは自分を無限に受け入れてくれる家族だということだった。緑子が自分のことを拒絶したり否定したりということは考えられず、だからいくら拒絶されても相手を好きでい続け自分を変えようとする才藤の意思は異次元だった。

 『緑子は多分男の子を好きとかキショいこと思わないよ』紫子の答えはそうだった。姉妹は他のクラスメイト達とは違ってダダ甘恋愛の描かれる少女漫画を溺愛しなかったし、恋愛ドラマを視聴しながら俳優の好みを話し合わなかった。家でぷよ〇よとか二人でしていた。ようするに二人してガキだった。

 『大人になったら変わるかな』

 『でも緑子あたしとずっと一緒にいたいって言ってるよ。男子と結婚とかしないと思うよ』

 『そうかな』

 『そうだよ』

 『ぼくは格好悪いのかな』

 『ちゃんと告白したマサくんはエロいけど根性あるよ』

 『ありがとう紫子ちゃん。でもぼくはエロくないよ』

 『エロいじゃん。緑子は嫌がってるしあたしも緑子取られるの嫌。他の女の子にしたら?』

 『それじゃ嫌なんだ』

 そう言い切った才藤の横顔を見て、紫子はちょっとだけこいつのことが好きになり始めた。紫子は一途な忠義を美徳とする。この男の子は他の鼻たれとは少し違うのかもしれない。

 『ねぇ紫子ちゃん』才藤は真摯な目をして言った。『紫子ちゃんは、どういう男の子が格好いいと思う?』

 『えぇ……?』

 紫子は戸惑った。『前のパパみたいな優しい人』と答えようかと思ったがそれはなんか違う気がしたから飲み込んだ。なので代わりの答えを検索したところ、紫子はこのような回答を導き出していた。

 『あかねちゃんっていう一個上の友達が言ってたんだけど』

 『東条さん? 変わってるよね』

 『うん。あとちょっとウザい。でもすごいこと言ってたんだ』

 『どんなこと?』

 『『私達メスは強力な子孫を残す為に強力なオスを襲い自分のものにする必要がある』』

 才藤はぽかんとした。さもあらん。

 『……強い男が良いってこと?』

 『多分』

 『強いって……喧嘩とか?』

 『分かんない。でもあかねちゃん野球好きじゃない?』

 『好きだね……しかも無茶苦茶上手い。六年生の男子より上手い』

 『あかねちゃんより野球上手くなったらそれは強い男ってことじゃないかな?』

 『それって緑子ちゃんにも通用するの?』

 『緑子は人が頑張ってるのを見たらちゃんと褒めるしすごいなぁって言うよ?』

 『頑張るだけじゃダメなんじゃない?』

 『あかねちゃんが言ってた。汗と土にまみれた姿を見てなんとも思わない女の子はいないって』

 『なにそれ? 汗まみれの土塗れなんて格好悪いじゃん』

 『あかねちゃんこないだお父さんと野球場に行ったんだって。それで選手の練習を見て来たんだけど、格好良かったって』

 『そうなのかな?』

 『ああいう練習をたくさんして強くなるんだって。だからそれは格好いいんだって。それ見て何とも思わない女はいないって。あかねちゃん言ってた。将来は野球選手と結婚したいって』

 『緑子さんにそれは通用するのかな?』

 『どうかな? でも本当に大事なのは野球選手になるとかならないとかじゃなくて、誰かの為にうんと頑張るってことだと思うんだよね。緑子は人から何かされたらすごく感謝するしそれに応えるから。それは絶対そうだよ』

 『じゃあぼく、緑子ちゃんの為に野球をがんばればいいってこと?』

 『うん。自分に好きになってもらいたくて一生懸命野球やったってなったら、緑子は喜ぶと思うよ』

 好きになるかは知らないけど……最後にそう言い添えると、才藤はうんと決意したように頷いて、『ありがとう紫子ちゃん』とその場を立ち去った。

 一人残されて紫子は思った。

 ……あたし、男子ってちょっと嫌だな。あたしから緑子のこと取ろうとするもん。


 〇


 回想を終える。地獄の外野ノックをやり終えて汗と泥にまみれながら地面に横たわる才藤を見て、紫子は叫んだ。

 「ウチの所為やんけ!」金網に飛びつく。「ウチの所為やんけぇええええ!」

 すごいことに気が付いた。才藤があれだけ激しい練習に耐え全国的スターになったのは紫子の所為だったのだ。幼い紫子が割とテキトウに口にした助言を真に受けて、アイツは今日まで野球の練習をして練習をして練習をしまくってすごい選手になったのだ。他人の人生をここまで振り回してしまったことに紫子はぞっとした。取り返しのつかないことをしたかもしれない。

 「ちなみに才藤、マジで今でも緑子のこと好きだから」緋口はそう言って紫子の肩に手を置いた。「『今は緑子さんの居場所分からないけど、でもプロになったらヒーローインタビューで緑子さんに自分の存在を訴える。それで向こうから来てもらうんだ』とかアタマ沸いたこと真顔で言ってるから」

 「一途というか夢想家なのですね。才能を露呈した自分にハエの如く寄って来るビチクソ女たちに辟易して、純粋だった頃の初恋に夢を見ているのです」というのは紺本。「もちろん、緑子さんのことが本気で好きなことも間違いはないと思いますけどね」

 紫子は妹の顔を見る。顔を真っ赤にして狼狽えていた緑子は姉と目が合うと抱き着いて来た。さもあらん。紫子は妹の頭をうんと撫でてやる。

 「い、いけるか? いけるか緑子」

 「あ、あわわ。あわ、あわわあわあわわ」緑子は口をぱくぱくとさせながらべそをかいている。「わわわ、わ、わたし……どうしたら…………っ!」

 「才藤は大人気者よ。日本の全てのミーハーな野球好き女子達をメロメロにしている」緋口はそう言って何故か茜の方を見た。その茜は金網を乗り越えて再び練習に乱入しようとして胡桃に制止されている。「このままプロになればまず契約金が一億。お給料は一年目でも一千五百万円は確実。その後成績を伸ばせば毎年億単位の金を稼ぐ。性格は謙虚で気は優しくて力持ち。そして、イケメン」

 これ以上なかった。生保の中卒フリーターの紫子じゃ勝ち目なかった。

 「……今日の練習は終わりのようね」緋口はそう言って髪を払った。「道具の片づけをしているみたい。彼はレギュラーだから免除ね。あ、こっちに来るわ」

 「え、ちょ……」紫子は目を剥く。「ま、マサくんが? こっちに? 緑子に会いに?」

 「あんたもいい加減姉離れしな」そう言って緋口は緑子の首根っこを掴み紫子から引き離す。「ほらほら。ロマンスの時間よお姫様。大丈夫、私の見たとこあんたは昔のまんまだから。才藤の好きだった昔のあんたのね。だから大丈夫、愛してもらえるわ。お幸せに」

 「お、お、お……」緑子は泣きじゃくりながらこちらに手を伸ばした。「お姉ちゃあん! ついて来てぇえええ!」

 「み、緑子ー!」紫子は妹に追いすがろうとして、後ろから何者かに手を引き留められた。

 「しばしまたれい」紫子にしがみついたのは紺本だった。「本気で慌ててる緑子さんは可愛らしいものですねぇ。アッハッハ。これは邪魔してはなりませんよ」

 「こんちゃん! あんたなぁ!」

 「緋口さんにあなたを止めるよう言われているのです。如何ともしがたくそこは力関係というものがありまして。いやぁ逆らえませんな」

 「ちくしょおおおお!」

 紫子は高い遠吠えをあげた。

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