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姉妹、後輩を匿う 2

 〇


 自宅へ戻り、緑子を連れて銭湯に向かう。湯船に浸かりながら、紫子は赤星と会った話をした。

 「それで帰るの遅かったんだね」と緑子。

 「せやな。ったく気の毒なことになっとるわ」と紫子「ほんでもウチのとこ来られてもなぁ」

 「……赤星さん、お姉ちゃんに懐いてたもんねぇ。お姉ちゃんも結構可愛がってたし」緑子は言う。「わたし的には、ちょっとジェラシーだったかも?」

 「おまえの為に利用価値があっただけやで。当時からビジネスライクに行こうやって公言しとったくらいやし」紫子は首を横に振る。「ウチがホンマに可愛がるんはおまえだけやで」

 「いくら利用価値があったとしても、お姉ちゃんは本当に嫌いな人を傍にいさせたりしないよ」

 「そうか?」

 「うんそう。赤星さん悪い子じゃなかった」

 「ほんでもウチ死にそうにしとった赤星のこと見捨てたで」

 「わたしの為でしょう?」緑子はそこで少し表情に愉悦を浮かべる。「でもそれで良かったよ。もうお姉ちゃんは戦ったり苦しんだりする必要ないの。自分の幸せを考えようよ」

 まあ実際のところ、自分の選択はそう言うことなんだと思う。紫子は確かに妹と、そして自分自身の為に赤星を見捨てたのだ。

 「気にしてるんだね。お姉ちゃん優しいから」緑子は紫子の頬を撫でる。

 「おまえはどうなん? やっぱ赤星のこと気になる?」

 「心配だよ。でもわたしのお姉ちゃんはお姉ちゃん一人だけだから」緑子は何の衒いも偽悪もなく言い切った。「本音をいうと、赤星さんを心配しているお姉ちゃんのことの方が、私は心配」

 緑子だって内心で赤星のことが気にならないはずもない。誰かになぶられ軽んじられる痛みを緑子は良く知っているし、他人のことを想いやる気持ちは人一倍ある。

 それでも緑子の今のセリフは本心なのだ。緑子は赤星を心配する以上に、赤星を心配する紫子のことを心配している。

 「……すまんな」紫子はそう言ってため息を吐いた。「ありがと」

 緑子はそんな姉のことを戸惑ったように見詰めている。多分、今の自分はこいつから見て、だいぶ浮かない表情なのだ。

 どうやら紫子は、自分で思っているよりも見捨てた赤星が気がかりらしい。


 〇


 帰宅して、緑子の作った料理を食べて、気が済むまで一緒に遊んで布団しいて寝た。

 ただの一瞬も監視の解けることのなかった施設時代と違って、今は心のつながったパートナーと二人で限りなく自由だ。好きなことを好きな妹と好きなだけできる。そして何にも怯えず布団に入っていられる。

 「こないして同じ布団に枕並べて寝とるんも、当時からしたらすごいゼータクやな」と紫子。

 「あの頃は夜は同じ部屋にもいられなかったからね」と緑子。「兄弟姉妹は結束して脱走するからって、寝る部屋別々にされてたから」

 「ケームショみたいよなホンマに」

 「そうだねぇ」緑子はそう言って身体を丸めて自分にくっ付いてくる。「今は幸せ」

 赤星はまだあそこにいる。それも自分達と違いたった一人で。土門のいる部屋で怯え切ったまま布団に入っている。現在進行形で暴力に見舞われているかもしれない。

 「心配なの?」緑子は囁いた。やはりこいつには何もかもお見通しだ。

 「……世の中苦しんどる人間はようけおる。地獄ばっかや。それを皆救い出すなんて無理なことや。ウチはおまえだけを守る。あいつはあいつでなんとかするやろ」

 「その通りだよお姉ちゃん」強がる紫子に、緑子の声はひたすら優しい。「……でも、お姉ちゃんがどうしても心配でしょうがないのなら、その時は……」

 瞼が下りて来る。部屋が暗い、時刻が九時を回る、この二つの条件が整えば速攻で寝てしまうのが紫子である。布団の中で交わす会話というのも楽しいものだが、下手に睡魔に抗えば明日の起床時の地獄が大地獄になることは学習していた。

 「寝ちゃったか」自身が眠っているということは間違いないのに、おぼろげな意識の中で何故か妹の声だけは静かに聞こえて来た。「おやすみなさい。うんと優しい夢を見てね」


 〇


 チャイムの音が響いた。

 カバりと布団が持ち上がる。妹が起き上がったのだ。チャイムの音よりもむしろそのことで覚醒を確かなものにした紫子は、目をこすりながら体を起こして妹の肩に手をやった。

 「お姉ちゃん出て来るけんまっとれぇ……」呂律が回らない。今何時だ?

 「う、うんお姉ちゃん」緑子はとても緊張した表情を浮かべている。「き、きき、気を付けてね……」

 時計を見ると午前二時だった。妹が怯えるのも無理からぬ。こんな時間にやって来る人間なんてろくなもんじゃないことは分かり切っている。紫子はまずは覗き穴を覗いた。

 白い髪の毛が目に入った。そうあることがとても自然なありのままのホワイトで、老人の白髪とはまた異なる輝きを放っている。

 息を呑みこみながら視線を落とす。目は赤い。顔立ちはただの東洋人ではありえない程彫り深く端麗で、パジャマとしか言いようのない白の衣類はあちこち赤や茶色で汚れている。

 「どもです。センパイ」赤星は言った。「ちょっとだけいっすか? ほんまに一晩だけ」

 「なんやねん」紫子は扉を開けた。「あんた何して来た?」

 「センパイがいうたとおりにしただけですよ?」赤星は俯いて頬を捻じ曲げて笑う。「勝ちましたわ、ウチ。でもちょうやりすぎましたね。明日から少年院かもしれません、タハハ……」


 〇


 緑子に視線を送ると、「入れてあげよう?」と言って立ち上がり、明かりをつけ始めた。紫子はふうと溜息を吐いて、赤星に向けて手招きする。

 「入り」

 「どもです」赤星はそう言って姉妹の城に足を踏み入れる。

 明るくなった室内で、パジャマに付着した赤や茶色の汚れを観察する。それは確かに血と泥だった。

 妹が布団を端に避けたので、紫子は部屋の隅にたたんである机の脚を開いて床に置く。そして反対側に座布団を投げて、自分は床に直接座った。

 「ひさしぶりです緑子センパイ」赤星はそう言って緑子を見た。

 「ひさしぶり。赤星さん」緑子は冷蔵庫からお茶を出して来た。「どうぞ」

 「どもです。いやぁホンマいつ見てもそっくりですね先輩がた。こっそり入れ替わっとっても気付かんかもしれません」

 「何しに来た?」紫子は机に頬杖を突いて言った。「つかあんた、ホンマ何したん?」

 「せやからセンパイの言うたとおりにしたんですよ。就寝時間の後すぐに隠し持っといた金属バットで土門に殴りかかって」赤星は頬を捻じ曲げて笑うが、その瞳は理性を欠いていると言って良い程壮絶に血走っていた。「土門の奴ブチギレして。フクロにされかけたんで無我夢中でバット振り回したら、ドタマ入りましたね。土門の奴その場で崩れ落ちたんです。それがちょっと尋常な様子じゃなかったんでアタマの中さーって真っ白になって、気が付いたらバット捨てて施設の外に逃げとったんです」

 「靴も履かなかったんだね」緑子は指摘する。土門の両足は土塗れだった。床の足跡には赤い血も混ざっているから、ここに来るまでに何か踏んだのかもしれない。「良くここまで来られたね」

 「無我夢中ですね。何時間かずーっと走っとりましたから。途中自転車乗って走って来る女の子とぶつかって、そいつから自転車貰いました」

 「そうまでしてなんでウチの部屋まで?」

 「なんででしょうね?」たははーと微笑む赤星だが、その表情はいくらか引き攣ってもいた。「ウチ、自分で思うとるよりセンパイ達のこと好きなんかもしれません。二人とも自分達だけの世界って感じでウチの入る余地なかったですけど、でもそこがなんか血の繋がっとる家族ってええんやなぁって思わしてくれて。逃げた先に逃げられる場所があるとしたらここっちゅう感じがして。ほんで気が付いたらここに」

 「そういやっちゅうんかなんであんたウチらの住所知っとるん?」

 「センパイらが出ていく時ウチがしつこうに聞いたやないですか?」

 根負けして教えた気がする。良く覚えていたな。

 「いやすんませんねなんか。こんな汚いなりで入って来て床も汚しちゃって。ホンマ今晩だけやと思うんで、はい。許してください」

 「……今晩だけっちゅうんは?」

 「いやー多分土門の奴ホンマに死ぬかなんかしてますからねぇ。ウチ多分少年院です。明日にはケーサツがウチの足取り追って来ると思うんで、それまでには出て行きますよ。メーワクかけれませんからねぇ。あ、いや、今でもジューブンメーワクかけとりますね。アハハハ」

 「……なあ赤星」紫子は溜息を吐いてから言った。「あんた好物なんやっけ? すごい庶民的なモンやった記憶があるねんけど」

 「食べモンですか? キムチチャーハンです」

 「緑子。作ったってくれ」

 「うんお姉ちゃん」緑子は言った。「ちょっと待っててね」

 夜中の炒め物は近所迷惑だが今夜くらい勘弁してもらおう。卵を割ってキムチを用意して冷凍した米を解凍してと甲斐甲斐しく動いている緑子を、赤星は何だかぼーっとした表情で見つめていた。

 「……すまんな」紫子は頭を下げた。「ウチがいらんこと吹き込んだ所為で取り返しのつかんことさせてしもた。もうちょっと考えてモノいうべきやった」

 赤星の身体は紫子と比べてはるかにしっかり出来上がっている。身長体重はもちろん筋力や運動能力で言っても自分を大きく上回る。本気で殴っても碌なダメージを与えられなかった紫子と異なり、赤星なら凶器を持って暴れれば人を殺すくらいのことはしてしまう。

 ……いや。紫子は思う。今の赤星の姿は当時の自分が陥ったかもしれない姿なのではないか? 自分が施設で人を殺さずに済んだのは単に運が良かっただけで、緑子をイジメる奴と戦う過程のどこかで、致命的なことが起きた可能性は確かにあった。

 「はいできたよ」緑子は赤星の前にキムチチャーハンを置く。「スプーンと、冷たいお茶と、御新香」

 「なんかありがとうございますー緑子センパイ」

 赤星は空虚な表情でキムチチャーハンを見詰めている。そしてそれが何故自分の目の前にあるのかをよく理解もしていないような表情で、赤星はスプーンを持ってチャーハンを食べ始めた。

 「美味いです」赤星は言った。泣きそうな声で。「小さい頃お母さんがこれをよく作ってくれたんですよ。おいしくって大好きで」

 「ほうかい」

 「施設の食べ物って、でっかい鍋でいっぺんに作られて、同じ皿に同じように配膳されたのが食堂の机にずらって並んでて。だからウチの為だけに作られたごはんっていうのすっごいひさしぶりで」赤星は一心不乱にチャーハンを食らっている「美味いです。緑子センパイ。ありがとうございます。美味いです」

 「……良かったな」

 「これから少年院ですねぇ。こんな美味いもん食えへんのやろなぁ」赤星は遠い目をする。「一年弱ですよね。独り立ちまでの時間はちょっと伸びてまうんか。ほんでも土門からは逃げられるから良しとするべきなんかな? でも土門死んどるかもしれんし……どう思いますセンパイ?」

 紫子は答えに窮する。答えられるはずもないのだ。

 土門は酷い奴だった。緑子のことも人間扱いせずに酷くいじめた。心の中で千回は死ねと念じた記憶がある。だが本当に死んでしまったとなると……それも紫子がその死に明確に責任があるとなると……。

 「お姉ちゃんは何も悪くないよ」緑子は後ろから紫子を抱きしめた。「お姉ちゃんは赤星さんに助かって欲しかっただけだもんね。お姉ちゃんが責任を取らなくちゃいけないようなことじゃないよ。それにね、わたし、土門さんみたいな人の為にお姉ちゃんみたいな優しい人が傷つくなんて、すごく嫌だな」

 「ウチかて別にセンパイのこと恨んだりはしませんしね」赤星はキムチチャーハンをかきこみながら言う。「むしろ感謝しとったんです。そうか戦うって手ぇがあったんかって、気付かしてもろうて。やっぱり人間ボコボコにやられすぎとったらあきませんね。一人やと精々耐えるんか逃げるんか、最悪自殺するくらいしか思いつかれへんようになってまいますからね」

 「あんた、少年院行ってからウチのこと恨むやろ」紫子は赤星の目を見て言った。

 「土門のおるあのクソ施設より酷い場所なんてありませんて」赤星は言う。「まあー、いうて殺人は殺人ですから、少年院出れても一生付き合わんとあかんのでしょうけどねぇ」

 「……あんたが土門を殴り殺してしもうたんやとしても、それはあんただけが悪いんとちゃう。まず土門の奴がクズやし、周りの人間もあかんかった。あんたを守ったり助けたりできんでそこまで追い込んでしもうたんがあかんかった。……もちろんその中にウチも入っとる」

 「やめてくださいなセンパイ」赤星は苦笑すらしてみせた。「人は一人です。ウチが土門を殺したならそれはウチが土門を殺したいうだけのことです。回り関係ありませんって。相談乗ってくれただけでもセンパイには感謝しとりまっせ、いやホンマに」

 どうやら本気で言っていることが良く分かる。本当にこいつはできた後輩だ。

 赤星は紫子のことを唯一『センパイ』と呼んだ。ふつう施設の子供同士で目上をそんな風に呼んだりはしない。年齢差一つ程度なら目上として扱わないことも多いくらいで、敬語なんてほとんど使われもしない。

 妹以外誰とも仲良くするつもりなんてなかった紫子に、赤星はあえて『センパイ』と他人行儀な呼び方をすることで取り入った。そして必要以上にべたべた馴合っても来なかったから、テキトウな距離でつるんでいることもできた。それを心地よいと思ったことが一度もなかったとは、紫子は正直言い切れない。

 「ごっとーさんです」赤星はチャーハンを食い終えて両手を合わせた。「緑子センパイ料理上手ですね。給食か施設のごはんしか食わへんウチからしたら、ホンマにご馳走ですわ」

 「ありがとう」緑子は笑った。「今夜くらい、安心してゆっくり過ごして行って? お風呂がないのは残念だけど……」

 「ホンマすんません」赤星は頭を下げた。「赤の他人のウチの為にそこまでしてくれて……」

 「お姉ちゃんの後輩さんなんだもん」緑子は姉の頬に手を触れさせる。「そうだよね、お姉ちゃん」

 「……おう」紫子は頷いた。「ゆっくり寝ぇや。布団敷いたるで」

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