姉妹、後輩を匿う 1
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「ひさしぶりです、センパイ」
バイト帰りにそう呼び留められ、紫子は振り返った。
そこにいたのは束ねた銀色の髪を持つ少女である。髪色を差し引いても鼻の高さや目の大きさからして間違いなく西洋人の血が混ざっており、背は日本の女性の平均くらい。体つきは華奢だが幼児体型の紫子よりは女性の形をしている。
「なんやねん」紫子は腰に手を当てた。「赤星なんであんたがこんなとこおるん」
「ハイジって呼んでください言うたやないですか紫子センパイ。ファーストネームで呼び合わんと心の距離は縮まへんってもんですよ。それともなんです? ウチの名前なんて忘れてもうたとかですか? やとしたら傷付きますわぁ」
「そんなことはないで。ええと……赤星・アーデルハイト・恵やろ? 確か」紫子は眉を顰めて赤星の方を見る。「それよりなんであんたがこんなとこに?」
ここは紫子にとってアルバイトの帰り道、郊外の道路沿いをぼんやりと歩いていたところである。遠く離れた養護施設で過ごしているはずの赤星が、こんなところへやって来る機会はないと言って良いはずだった。
昔紫子が児童養護施設にいた頃、同室だった一人が赤星だ。現在十六歳の自分より歳は一つ下で、紫子のことを『センパイ』呼ばわりして勝手につるんで来た。正直言って疎ましかったが、こいつの親友が妹と同室だったので、情報源として邪険にはしていなかった。
「脱走的な?」赤星はぺろりと舌を出す。「電車乗ってここまで来ましたわ。せっかくだからセンパイと会っておこう思うて」
「アホやなー。そんなことしたら鬼婆に殺されるでぇ」
「戻るつもりないですよ。中学出るまで施設から逃げ回ります」
「あ? なんかアテあるんか?」
「一応」赤星は企むような笑みを漏らし、媚びを含んだ視線を紫子に向けた。「ちょう話しません? ファミレスかどっかで。奢りまっせ?」
「家で妹が待っとるけんまた今度な」
「緑子センパイのことですか? やっぱ一緒に住んどるんですね」
「当たり前やろ? ほなな」
「待って待って」赤星は紫子の腕を掴む。まとわりつくように、縋るように。
「なんやねん」紫子は赤星を振り払おうとして、その様子がおかしいことに気が付いた。
近くで見るその顔の左目の下のあたりに、誰かに張り倒されたような痣があるのだ。頭から感じる髪の毛本来の臭いは何日か風呂に入らなかった時の独特のものだ。衣類も少し薄汚れていた。ふつうじゃない。
「ホンマ待ってください。ちょっとだけ、ホンマちょっとだけ話聞いてくださいよ。ウチとセンパイの仲やないですか? ね?」
赤星はそう言って紫子に両手を合わせた。
〇
「いやぁすんません。センパイってなんやかし昔っから優しいですよね」近くのファミレスで向かい合って座りながら、赤星はそう言って頭をかいた。「ウチのこともなんやかし邪険にせんと可愛がってくれましたし」
「あんたの友達が緑子と同室やったからや」紫子はドリンクバーのコーラを意味もなく箸でかき混ぜながら言った。
こいつとの協調関係は完全に利害で成り立っていた。紫子は寝起きする部屋で緑子がどう過ごしているかを知る為に、緑子と同室の親友のいた赤星を利用したのだ。赤星はシルバーの髪を持つ混血児である己が攻撃されない為に、他の児童から恐れられていた紫子を利用した。
「でもウチ役に立ったでしょセンパイ?」
「まぁ、いっぺん緑子が部屋でイジメられとった時知らせてくれたしな。おって困るもんやなかったであんたのこと」
「そりゃどうも。紫子センパイもなんやかしウチのこと守ってくれましたし、感謝しとりまっせ」
「ウチはなんもしとらんで」
「センパイの腕にしがみ付いとるだけで、センパイ自身はなんもせんでもウチはイジメられんですんだんですよ。あの施設の子供は皆センパイにビビっとりましたからね」
脚の悪い妹を守る為、紫子は施設で闘いの日々を過ごしていた。
弱い者がさらに弱いものをいたぶるような雑魚同士の小競り合いならばどうとでもなった。いじめっ子達を一人ずつボコボコにして、『二度と妹をいじめない』と誓うまでボコボコにし続け、誓った後もやはりボコボコにしておけば、たいていの奴はもう緑子に手を出さなくなる。
喧嘩に勝つ必要があるのが厄介だったが、そこは手製の凶器を使用したり不意打ちをしたりして解決した。負けることも多かったが、どんな目にあわされてもゾンビのように復活して襲い掛かり、妹にやられたことを含めて百倍にして報復した。
「ホンマ皆センパイのことビビってましたよ? センパイ喧嘩はぶっちゃけあんま強くなかったですけど、代わりにえぐい武器使いましたから。なんでしたっけ? あの竹竿に包丁巻き付けた奴」
「『グングニル1』やな」紫子は少し懐かしくなって目を細める。「あれでウザい奴突いたら躱されてやな。壁にぶつかって包丁折れた。残った棒でどつきまわしてそいつには勝てたけど、後で『鬼婆』に死ぬまで殴られてやな……。アハハっ」
同世代以下はそんな感じでなんとかなった。厄介なのは上級生たちだ。未だ身長が百四十センチを超えない紫子は当時はなおさら華奢であり、身体の出来上がっている上級生達を相手にするのは至難だった。だが土門という三つ年上の児童が緑子に手を出したことで、全面戦争に突入せざるを得ない事態となった。
土門という三つ年上の児童は同室の緑子を『わんこ』呼ばわりし、使いっ走りにしたり犬の鳴き真似をさせたり四つん這いでの生活を強要したりなど、常軌を逸した嫌がらせを日常的に行っていた。『告げ口したら姉貴をボコす』と口止めされていた緑子はそのことを誰にも言い出せず、約二か月間にも渡り黙って嫌がらせを受け続けていたのだ。
この情報を赤星が紫子にリークしたことで、激怒した紫子は本気で土門を殺害するつもりで報復計画を練った。
「あん時の紫子センパイマジでヤバかったですよね」赤星は表情を引きつらせて言った。「普通なら他所の施設に移されとったんやないですか?」
「他所の施設に移されるも何も、ウチらの糞施設がそもそも終着駅みたいなとこあったやん?」
「まあほうですけど……。でもふつうはあれだけやったら少年院ちゃいます?」
「少年院て、そんなヤバいことウチしたか?」
「土門の自転車のブレーキペンチで切ったやないですか?」
「それは確かに今にして思えばヤバいけど、でもそんくらい白切れるで」
「……実際に白切れましたか? センパイ、土門が通学路の坂道で転ぶところに待ち構えて、角材でボコスコに殴ったやないですか? 頭部を中心に二十数発。ほんでまともに動けなくなったとこを、両手ガムテープで縛り付けて物陰に引っ張ってったやないですか? ……つか、あん時は怖ぁてよう訊けんかったんですけど、あの後センパイ土門のことどないしたんですか?」
「ライターで背中炙ったりしたな。『アホ』って描いてやったで」
「アタマおかしいんとちゃいます!?」赤星は目を剥いた。
「あと口ん中にボルトとかナット詰め込ましてガムテープで閉じてから角材で顔殴ったりした。十五個口に入れた内の八つ飲み込んどった。水筒の水飲ましてゲロするまで腹殴ったらいくつか出て来たけど、三回吐かしても一個だけ見付からんかったねん。ちゃんとウンコになったんかな? アハハっ」
「施設も良ぅこんな奴ケーサツに突き出さんかったよなぁ……。やっぱ『鬼婆』って異常やで」赤星は冷や汗を浮かべた。「ホンマ、ウチ、こん人味方に付けれて良かった……」
「せやろせやろ。頼りになるやろウチ」紫子はけらけら笑う。
自分にとっての庇護対象は妹ただ一人だが、それでも一目置かれるというのは悪い気分でもない。当時はそんな風に思う余裕もなかったが、可愛い後輩と言えたかもしれない。敬遠されていた姉妹にとって情報の窓の役割を持っていたのも間違いないし、従順でそこそこ使えもした。
「はいセンパイ。マジ尊敬してます」赤星はにへら、媚びるような笑みを浮かべた。「そこでセンパイ、ちょっとお願いがあるんですよ」
「何やねん」
「センパイは今緑子センパイと二人暮らしですか?」
「せやな。楽しいで」
「ウチが中学出るまでで良いんで、そこに置いといてもらっていいですか? 数か月なんで」
「あ?」紫子は眉を顰める。こいつはいきなり何を言い出すんだ?
「家事とか全部やるんで。使いっ走りとかナンボでもやるんで。家賃とかは中学出たら絶対払いますんで。どうか……」
「ちょい待ちちょい待ち。嫌やわそんなん」紫子は顔をしかめた。「あんた緑子のこと知っとるやろ? シャイとかいうもんちゃうであの子。せっかく心通った姉妹だけの暮らしを手に入れたのにやな、部外者のあんたなんか居候させたがる訳がないんや」
「そこをなんとか説得してくださいよ頼んます」
両手を合わせ、目を閉じて頭を垂れる赤星。その必死な様子に、紫子は溜息を吐いた。
「……何があったん?」
「……さっき話にも出てた土門なんですけどね」赤星は疲弊した表情で話し始める。「紫子センパイが出てってから部屋替えあって、ウチと同室になったんですよ」
「え? あいつもう十九やろ? まだ施設居座っとるん? 望めば二十歳までおれるんは知っとるけど、ふつうは高卒で追い出されるで?」
「ええまあ。でもあいつ、センパイ程やないですが一応『鬼婆』のお気になんで」まるで紫子が『鬼婆のお気に』であるかのような言いぐさが気に入らないが、話を止めるのも面倒だったので黙っておく。「ほんでアイツ、ウチのこの髪の毛目の敵にしとりますでしょ?」
赤星は自分の髪を撫でた。束ねてある銀色の髪は思わず溜息が出る程綺麗で、また本人の顔立ちに似合ってもいた。生まれつきのものなので染髪を迫られることもないのだという。茶髪すら許されない施設の少女達にとっては嫉妬と羨望の的で、その裏返しで『白髪』だの『老婆』だの悪口を叩かれることは昔から多かった。
「ほんでもアイツ、ウチがボコしてから大人しぃなっとったんちゃうの?」紫子は眉を顰める。
「ええまあ。一時誰とも口聞けないくらいでしたしね――今センパイから話聞いて初めてアイツに同情しましたよ――ほんでもセンパイがおらんようになって、まるで昔に戻ったみたいになりやがったんですわ。自分の就職が上手く行ってないんもあって、八つ当たりでウチのこと毎晩イジメるんです」
クズは根っからクズでそうは治らないということか。赤星には同情する。
「無視するとか持ち物に悪戯とかならえぇんです。でもアイツ、ウチのこと布団にくるめて蹴りまわすとか男みたいなことするんですよ? そんで髪黒に染めろ言いやがるから、もう毎日つらくてつらくて……」
「あんたにとっての勝利は身を守ることとちゃうんか? 大人しく染めてまうんも手やろ?」
「それは嫌です」赤星はそこだけは媚びた笑顔を解いて表情に強い意思を込めた。「これはお母さんがウチにくれたドイツ人の血ぃなんで、染めたぁないんです」
「そんでもあんたのこと捨てた母親やん?」紫子はいけないと思いつつも、そう言って肩を竦めてしまう。「ウチは自分や緑子に母親の血が入っとるとか思いたぁなかったくらいやわ。黒にしてまえば良ぇねん。ほんでウチに取り入ったみたいに土門に媚び売って、中学出るまでの何か月か乗り切って独り立ちするか、土門が二十歳になるまで乗り切ったらええんよ」
「センパイが何と言おうとそれは嫌です」赤星は首を振った。「センパイは良ぇですよ。あんな可愛らしい妹さんがおるんですから、そら親のことなんか忘れられるんでしょうね。でもウチはそない割り切れません。ウチのホンマの味方はお母さんだけですよ」
「ほうか。……すまんかったな」
「ウチを捨てたんやってやむを得ない事情があったんやと思いますし、それが解決したらウチを迎えに来てくれるはずなんです。そん時に髪の毛が黒やったらお母さん傷付くでしょ。ナンボ一度は捨てたいうたかて、血が繋がっとるんやから絆はありますし、一緒に暮らせる日が必ず来るはずです」
赤星はそう言って何か縋るような視線を紫子に向けた。同意を欲しがっているのだ。否定されれば赤星の孤独な心はあっけなく壊れてしまうに違いないし、それが分かっているから紫子もこれ以上は何も言わない。優しい嘘も言わないが、残酷な現実の話もしなかった。
施設の子供の中には赤星のような儚い幻想を抱く人間は多くいる。そうした人間達の中で育ってきた紫子にはだから赤星の内的世界も理解できる。気の休まる暇のない施設暮らしの中で、誰にだって心の支えとなる信仰が必要だ。紫子にとっては妹の存在がそうだったように、赤星にとっては幼い頃母と過ごした思い出がそうなのだろう。
「中卒で働いて小銭溜めたらお母さんに会いに行くんです。お母さんの抱えとる問題がなんかしらんけど、一緒に解決してあげて、力になって、感謝されて、そんでまた親子として幸せに過ごすんです。それがウチの夢なんです」
「ほんならそれを頑張れば良いやんけ」紫子は溜息を吐いた。その夢が叶うにせよ叶わないにせよ、一度母親に会わない限りこいつの時間は進まない。好きにすれば良い。応援くらいならしてやる。自分達に不利益が生じない範囲でなら。
「でももう土門に蹴りまくられる生活は耐えれません。背中とか腹とか痣だらけなんですよウチ。可愛い後輩がこんな目にあっとるのに、宿を貸すくらい良いやないですか?」
「脱走とか鬼婆が許す訳ないやろ? そしたら鬼婆がどこ探すかいうたらあんたの知り合いのとこやで? ウチのとこなんて真っ先に探しに来るやろあのオバハン。ウチ嫌やであいつと二度と会うの」
「ほなウチはどないすれば良いんですか?」
「知らんがな」
突き放すと、赤星は捨てられた動物の視線をテーブルに落とした。紫子は頬杖を突いて自分より二十センチ背の高い下級生を眺めた。
こいつの内心にあるがんじがらめの地獄は理解する。だがこいつを自宅に匿うとなると妹を巻き込むことになる。だから紫子はこいつを自宅に匿うつもりはないし、増してこいつの為に施設の土門に殴りこんだりするつもりもない。そんなことをして自分が少年院に行くようなことがあれば残された妹がどうなるか考えたくもない。
紫子は緑子一人助ける為に他の全てを見捨てることが癖になっていて、こいつに対してもそれは例外ではない。増して紫子は同じ施設の子供に対して何一つ親愛や連帯を抱いていない。当時紫子は妹以外を家族と思いたくなくて心を貝のようにしていたし、今でも他人だと思っている。
他人だから、こいつが助かるとしたらそれはこいつが勝手に助かるだけだ。そう思い紫子はあしらうくらいのつもりで無責任な助言を始めた。
「……まあ、ウチには何もできんけどやな。あんたが自分を助ける方法は一つあるで」
「……へ?」どす黒い失望を浮かべて下を向いていた赤星は、そこで顔を上げた。
「ようはあんたを攻撃する敵がおるんやろ? なら戦えや。殺せ。そしたら救われるで」
「いやいやいや。土門の奴背ぇとか百七十越えてますし手下いるし勝てないでしょ」
「土門は土門一人で人間なんやからやりようはあるやろ? なんか長くて重い棒みたいなん用意してやな。夜中寝とる時にそれでアタマカチ割れ。どんな奴でも死ぬまで殴ったら死ぬわ」
「殺すってのは比喩ですよね? ようはボコしてビビらせろっちゅうことなんでしょうけど、でもそんなことして万一入院でもさせたら施設移されるかもしれへんやないですか。鬼婆のお気に入りのセンパイとはちゃいますって」
「施設移されるんとか願ったりやろ? 土門に報復した上で土門のおらんところに逃げられる訳やん。最高やろ?」
そう言われ、赤星はぽかんとした表情で紫子を見詰める。本気で言っているのかと言いたげだ。
「ウチの経験上、殺すつもりでやってもそんな簡単に人間って死なんねん。躊躇して反撃される方がよっぽどあかん。思いっきりやるんや」
「ちょっと……それマジの話すか……?」
「えぇか? 得物は硬くて長い奴や。持てる範囲の中で重い奴。ほんで最初が肝心。夜中いきなり起きだして明かり付けてでかい声でなんか叫ぶんや。『これよりカミのシュクセイを開始するー!』とかそんな感じの、ちょっとアホなこと」
こないだ読んだ漫画のシーンを思い出しながら紫子は語る。
「周りポカンとするやろ? そこで土門を殴れ。きっちりアタマをな? 一発目が半端やったら反撃されるで。でも逆にこれさえ上手く行ったら後は楽勝。『バルス! バルス!』とか叫びながら殴りまくれ。でかい声出すことで自分を鼓舞しつつ周囲が止めに入れんように威圧するんや」
赤星は呆然としている。
「明かり付けて派手に騒げばレフリーの大人がやって来る。これが大事でな。レフリーが来た時点であんたが立っとったらあんたの勝ちやし、逆に反撃されて組み伏せられていたとしても助けてもらえる訳や。どっちに転んでも今より悪い状況にはならへん。どや?」
喋り終える。赤星は紫子から目を反らし、思い詰めた表情でうつむいている。
ふざけていると思われて失望させたのかと思ったが、赤星の表情は真剣で、何らかの希望を抱いたかのようですらあった。紫子の発言を提案として丸ごと受け入れた訳ではないにせよ、勇気を持って戦うことを選択肢の一つとして捉えたようには見えた。
「まあ戦うかどうかはあんた次第やけどな。でも確かなんは現状を受け入れ続けるんが一番あかん言うことや。ウチに助けを求めたみたいに、あんたなりにできることを順番に試すんや。戦うんか逃げるんか助けを求めるんか、できることを順番に試したらその内助かっとるかもしれんで?」
とか言いながら、助けを求められた紫子自身は何もしないのだから無責任なもんだ。赤星は沈黙を守っていたかと思ったら、しばらくして力なく笑って立ち上がった。




