姉妹、後輩を匿う 3
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予備の布団を与えると赤星はすぐに寝息を立て始めた。その寝顔が少しだけ安らかにも見えるのは救いだろうか。
「疲れていたんだね。たった一人でずーっと走って、逃げて、やって来たのがお姉ちゃんのところだったんだね」赤星の使った食器を水につけながら緑子は言う。
「……せやなぁ。お陰で追い出せへん」紫子は胡坐をかいて頬杖付きながら憮然として言う。「なんでウチのとこやねん? 下手なアドバイスした文句言いに来たとかでもなさそうやし。……こいつがウチにこんな懐いとるとは思わんかったわ。他に行くとこないからかもしれへんけど」
「お姉ちゃん優しいから。世界一優しいから」皿の始末を終えた緑子が自分の傍にちょんと座り、しなだれかかる。「赤星さんの気持ち分かるよ。わたしは世界一幸せ。素敵なお姉ちゃんをずっと独占できる。それが一生ずっと約束されてる。だからどんなにつらくても平気だったよ」
「そんなんウチもやわ」紫子は緑子の頭を撫でる。「絶対に何があっても家族で味方で……そのおまえがおったからウチ、あの施設で六年間やってけた。でも誰もがそうな訳とちゃうんよな。たった一人、味方も誰もおらんと、みなしごはあの中に放り込まれる。戦う時は一人やし、逃げる時も一人なんや」
「赤星さん、お母さんからもらった髪の毛染めたくないからって、土門さんに反発して……。そのお母さん、赤星さんのこと、捨てたのに」
「アホやと思うわ。こいつの母親は娘を捨てたんや。捨てた母親をこいつはそんでも慕って縋り続けんと生きていけんのや。へらへら笑いながらウチなんかにへりくだるこいつが、親子の証を守る為なら命がけで土門とも戦えてしまうや。ほんまむごい」
誰もが心の中で本当に気を許せる味方の存在を願っている。赤星のような小さな子供にとってたいていは親がそうなのだ。それに捨てられて心に開いた巨大な穴を埋めるのに、友達や恋人や教師で代替することができないならば、思い出に縋り続けるよりどうしようもない。
「……ウチらも寝ようか」紫子は言った。
「うんそうだねお姉ちゃん」
一緒に布団に潜り込んで、緑子が電気の紐を引く。部屋が暗くなる。
同じ布団で眠る緑子のぬくもりと一緒に、隣の布団で赤星の息遣いも聞こえて来る。
「こない布団並べとったらなんか施設におった時みたい」紫子は言った。
「わたし一回、一人が耐えられなくてお姉ちゃんのいる部屋に行って、お布団に潜り込んだことある」緑子は言う。「すぐにばれてお仕置きされたけどね」
「赤星も連れ戻されたらお仕置きやろな」
「例えそうなったとしても」緑子は姉の身体にぴったりくっつく。「ほんの少しだけでも、好きな人の傍にいられたら、その先のことを耐え抜く勇気が湧いてくるものなんだよ。お姉ちゃん」
〇
いつものように六時に起床すると、施設にいた頃みたいに行儀よく布団を畳んだ赤星が、紫子の隣で正座していた。
「おはようございますセンパイ」
「……なんやあんた」紫子は自分の布団を畳みながら赤星に視線を向けた。「かしこまって正座なんかしてからに。楽にしぃ」
布団の畳み方や片付け方は施設で叩き込まれたのをそのままやっている。過ごして来た環境が一緒なだけに、同じ習性を自分達と赤星はやはり持っている。
「これからどないするんあんた?」紫子は机を出しながら言った。向かいに座るように視線で促す。「ウチこれからバイトやで」
「それなんすけどね、センパイ」そのままの場所で正座した赤星が、言いにくそうな表情で口にする。「一つお願いがあるんです」
「なんや?」
「ウチ、これから母親に会いに行こうと思うんすよね」
黙って聞いている紫子。緑子が御盆に料理の乗った皿を持って歩いて来た。三人分がある。それから姉の隣の場所に座った。
「……会いに行こう思うて会えるもんなんか?」
「だいたいの住所は分かっとります」
「だいたいのって」
「×県×市」
「遠いな! ……そんで? 会ってどうするん? 恨み言の一つも言うんか?」
「いやーそんなことはしませんて。向こうかてウチ捨てたこと後ろめたあに思うとるでしょうし、ウチが責めたりしたらお母さんかわいそうでしょ? 全部許すんで、代わりに、お母さんには一日だけ母親をやってもらいます」
「あ?」紫子は目を剥いた。
「センパイらにしてもろうたように、ごはん作ってもらって一緒に食べて、お風呂入ってほんで、一緒に寝て。優しいにしてもらって……。そういうことを一日だけ、一日だけやってもらいます。そしたらウチ、これから少年院で一年、生きて行けますから。そんで少年院の中で色々資格とか取って、一人前になって、そんでからまたお母さんのところに戻るんです」
「…………ふうん」
こいつは味わってしまった、安心と自由の中で暖かに眠る時間を。だが所詮『先輩がた』でしかない自分達姉妹に、本当の意味で甘えていられないことも賢いこいつは分かっている。無条件に赤星を受け入れて愛してくれる存在はこいつの中で母親だけだ。だからこいつはそこを目指す。
致命的な罪を犯してこいつは今捨て鉢だ。捨て鉢だからこそユートピアを目指す発想ができる。それがどんなに無謀な試みだとしてもだ。
「……そんな遠いとこにどうやって行くん?」
「新幹線とか?」
「金は?」
「そこなんですけど……」赤星は両手を着いて頭を下げた。土下座の体勢だ。「お願いしますセンパイ。絶対返すんで、二倍でも三倍でも十倍でも、絶対返すんで。金貸してください。お願いします」
「…………アホ」紫子は溜息を吐いた。「そこにホンマに母親がおるんかどうかも分からんのに、母親があんたのことまだ愛しとるかも分からんのに、ホンマに行くっちゅうんか?」
鳥の鳴き声がした。まだ完全には明るく成り切っていない空から降り注ぐ光が三人を照らす。朝の匂いに緑子が作った料理の匂いが混じる。
静かな朝だ。こんな時間をこいつはどれだけ味わっていないのだろう。こんな時間を味わう為にこいつはどれだけのことができるのだろう。それこそ母親を目指して何日でも何十日でも旅を続けられるはずだ。だが旅をつづけた先にこいつの望むものがあるようには紫子には思えない。
チャイムの音がした。
「……お迎えちゃう?」紫子は言った。「まずウチが出るわ。緑子、そいつと一緒におったって」
「うんお姉ちゃん」緑子は言って、赤星に笑いかける。「ねえ赤星さん。顔を上げて?」
紫子は重い足取りで扉へ向かい、のぞき穴を恐る恐る覗いた。
青沼がいた。
「ぎゃ、ギャァアアア!」紫子は本気の悲鳴を上げて尻餅を着く。「ほ、ほほ、ホラーや! 完全ホラーや! 見てはいけないものが写っとる! なんでぇええ!」
他の誰がそこにいたとしても紫子はここまで動揺しなかっただろう。警察なら予想の範囲内だし、ナイフを持った殺人鬼だとしてもここまでにはならない自信がある。だが『こいつ』だけはダメだ、『こいつ』だけは紫子の精神力の限界を大きく上回って来る。
「何喚いてるのよ!」扉をガンガンガンと叩く音がする。「ひさしぶりねぇ紫子さん。ワタシ、ちょっとあなたにお話しがあって来たんだけれど……」
「あ、あんたと話すことやなんもないで!」紫子は叫ぶ。「だから帰ってー! お願い帰ってー! いややーあんただけは無理やー二度と顔みたないー! やめてー!」
「隠してることあるんじゃい? 紫子さん」青沼はどすの効いた声で言った。「……黙ってたらどうなるのかは知ってるでしょ? 良いから話なさい? ねぇ?」
「ちゃ、ちゃうで。何も隠しとれへん。赤星のことなんか匿ってへんよ? ホンマやで? 赤星のことなんか全然知らんし匿ってへん!」
「やっぱりここかぁああ!」青沼は激怒してガンガンガンガンと扉を揺らす。「出てきなさいバカども! 観念しなさい!」
「ひぇええ……」紫子は身震いする「二回も匿ってへんいうたのに、なんでバレるんや? さ、三回くらい言わんとあかんかったんかなぁ……?」
「わたし、お姉ちゃんはそのままで大好きだよ」緑子はそう言って姉の元へ歩き、打ちひしがれるその肩に手を置いた。「でも、なんで青沼さんが……? おまわりさんだと思ったのに」
「……ある意味ポリ公の百倍は怖いですけどね」赤星は苦笑して立ち上がる。「すんませんセンパイ。ウチ、出ます。これ以上迷惑かけれません」
赤星は部屋の扉を開け、青沼の前に立った。
青沼はじっと赤星の顔を睨んでいる。第一声を待っているという様子だ。赤星はその視線を虚ろな表情で受け止めてから、「サーセン」と不格好に頭を下げた。
平手が飛んだ。
赤星はバランスを崩して尻餅を着いた。同じことをおそらく施設の子供の中で一番数多くやられている紫子としては、その痛みには酷く共感する。青沼の手は体の他の部分と比較して歪な程にでかくて硬くて分厚いのだ。
「無断外泊なんて何様のつもり?」青沼は赤星の手を引いて立ち上がらせる。「今すぐ帰って来てもらうわよ。罰は相応のものを用意してるから覚悟しておくことね」
「……? ちょう待って?」紫子は目を丸くして青沼に言った。「施設に戻るれんそいつ? ケーサツは?」
「なんのことかしら?」青沼は肩を竦めた。「施設の子供はワタシの子供よ。自分の子供を警察なんかに黙って差し出す訳ないじゃない? ワタシは母親代わりなのよ?」
「……や、待って? 土門は、土門はどうなったん?」
「頭蓋骨骨折で入院。全治半年」青沼は言って赤星を睨む。「流石紫子さん、あなたの子分格よね? 何かあるとすぐ暴力に頼ってワタシに迷惑をかける! 自分が暴れるだけならいざしらず、他の子供にまで変なこと教えないでちょうだい!」
「……なんでウチが吹き込んだってバレとるん?」
「恵さんが一人であんな真似思いつくもんですか」青沼は首を振る。「あなたが施設にいたら連帯責任にしたところよ。良かったわね? 施設を出てて。お仕置きはフルコースだったわよ?」
『フルコース』を想像し、紫子はそのあまりの恐ろしさに身震いする。
「土門さんは階段から落ちた。対外的にはそれだけよ。何の問題もない。恵さんは連れて行くからね。もう二度と内の子供を匿ったりしないでちょうだい。いいわね?」青沼はそう言って紫子を睨みつける。
「あ、ええと……」蛇に睨まれた蛙の顔で身を竦ませる紫子。
「いいわね!」
「は、はい。すいません」紫子は敬語で言って頭を下げた。
なんだこの結末は。しかし土門はケガが治るまで半年ほどは手負いで元気がないはずだ。今は十月だから半年たつころには赤星も施設を出ている訳で、そうなるとこいつは結果的に報復を果たした上で救われた形になる。そして土門自身は自業自得の範囲内だ。
正直、めでたしめでたしなのではないか? だが剛腕を振るいそれをもたらしたのは、紫子が壮絶に忌み嫌う目の前の糞職員なのは少し複雑な気持ちだ。紫子は嫌なことを考えそうになって打ち消す。ひょっとしたら自分も同じようにこの女に守られたことがあるんじゃないかだなんて考えたくもない。
「センパイ」青沼に連れられていく赤星がこちらに向けて手を振った。「ありがとう」
階段を降りる音がして、懐かしい二つの顔が紫子の視界から消えていく。後ろから緑子がやって来て、自分に寄り添いながら、扉を閉めた。
「お姉ちゃん。青沼さん、帰ったよ。赤星さん、助かったって。良かったね」
「え、あ、うん」紫子は頷く。まだ少し動揺している。それを見抜いてか、緑子は姉の両手を掴んで優しく微笑んだ。
「ねぇお姉ちゃん、ごはん食べよう?」
「そ、そうやな。……そうしよか」
妹と二人、席に着く。こうなってしまえば青沼が持ち込んだかつての匂いは消え去って、姉妹が手に入れた幸福な二人暮らしが戻って来る。ただ一つ、テーブルに余分に一人分の料理が並んでいることを除いては。
「……あいつ」紫子は赤星の分の味噌汁の湯気が消えていくのを眺めながら、ぼんやりと口にした。「いつか、母親に会うたりできるんかな?」
「分かんない」緑子は言う。「それが良いことなのかどうかも」
「……ウチらには分からんよな、正直」紫子は溜息を吐く。「ウチらは姉妹やった。絶対に家族で味方で大事なおまえがおった。せやから心がちゅうぶらりんなアイツのことは分かってやれん。ウチらにも母親はおるけんども……」
そう言ってから、紫子は自分の口にしたことが随分ずっしり己の心に響いたのを感じた。
「お姉ちゃん?」緑子はそんな姉の異変に気付いて心配そうにのぞき込む。「どうしたの?」
「あ、いや……ちょっと、どうでもええこと思い出した。うん、ホンマどうでもええこと」
「……そっか」緑子はそれだけで全て理解したような表情を浮かべる。「でも、あんなに会いたくないって言ってた青沼さんとも結局また顔を会わせちゃったんだし、何が起こるか分からないところはあると思うよ? ……どうしたって繋がりはあるんだと思うし」
「……そうかなぁ」紫子は顔をしかめる。「まあ、今は考えんでえぇことか」
「それもそうだね」緑子は言った。
そうだとも。今はそれでいいし、ずっとそれでいいのだ。姉妹が手に入れた幸せに足りないものなど何一つない。例え何がやって来たって自分達は何も揺らがないし変わらない。
そう例えそれが、今もこの世のどこかに生きている、自分達の本当の母親だったとしても。
「ウチら、今のまんまがええよな? なあ緑子」
「うん! お姉ちゃん」
そう言って姉妹が微笑み合ったところで、この話はおしまい。




