姉妹、猫殺しと対決する 前篇2
〇(※)
臨時集会が開かれる。
校内のあちこちで犬だの猫のだのの死骸が発見された。何か知っているものがいれば話すように。最近町内で連続して起きている動物の惨殺事件と関係があるかもしれない。登下校は必ず誰かと行うように。死骸を見てしまうなどして体調を悪くした者は校内のカウンセラーなどに相談しなさい。
ひょっとしたら今日はもう放課になるんじゃないかと思っていたが、午前中の授業のいくつかが自習になるだけで済んだようだった。学校も好きではないが施設に帰らされるより大分マシだ。
一日を過ごし終え、放課の時間になる。
部活動に所属はしないが真っ直ぐ施設に戻る程バカでもないので、神社とか公園とか、たまにファーストフードの店とかで、門限の六時までの時間を過ごしていた。今日は神社。姉妹にとって一番自由な時間が過ぎ、五時を回ってしばらくしたところで紫子は気が付いた。
「学校に宿題忘れた」
「え? 本当?」緑子は困惑したように口元をあわあわとさせる。「た、大変じゃない? 宿題持って帰ってないからやれないって言ったら、また青沼さんに……」
「『鬼婆』容赦ないけんなぁ……。いうておまえと学校もんてまた施設に戻るとなると絶対六時回るし……」
脚の悪い妹の歩みに合わせると一人で走るのと比べ数倍の時間がどうしてもかかって来る。だが一人で施設に帰らせるわけにもいかないだろう。心と身体にハンディを抱える妹にとって、強烈な密度の子供社会である養護施設は過酷な場所だ。いじめっ子の内特に厄介な上級生は大半が巣立った後だったが、それでもちょっかいをかけて来る者はいる。紫子が傍にいてやらなければならない。
「お姉ちゃんが急いで走ったら間に合うよ。わたし一人で帰るよ」
「おまえ一人にしとくんウチ嫌や。諦めるで。往復ビンタくらい覚悟するわ」
「でも宿題持って帰らなかった罰でお姉ちゃんが締め出しくらったら、どっちにしろわたし一人じゃない?」緑子は泣きそうな顔をする。言われてみればそうだ。「取りに行こうよ。わたし大丈夫だよ。ここから施設まで近いから一人で帰れるし、お姉ちゃん来るまで隠れてるから」
悩んだ末、紫子は学校に忘れ物を取りに戻ることにした。
〇(※)
徒競走で最下位以外になったことのない我が肉体は、ほんの数十メートルを全力疾走しただけでその場でしゃがみ込みたくなる。気力だけで最後まで走り切り、紫子は汗だくで学校に到着した。
六時には余裕を持って間に合う。とっとと教室に向かおうと、近道する為中庭へ出たところで、クラスメイトの顔を発見した。
『絆の池』と銘うたれた四角形の池の淵に、ふくよかな頬に吹き出物を浮かべた少女が立っている。今朝も姉妹にちょっかいにかけて来た水草コンビ(草壁と水倉でいつも一緒に行動しているから内心そう呼んでる)の草の方だ。軽薄な若者言葉を使う方。
草壁は手に何か緑色のものを持っていた。粉末洗剤の入った円柱の容器に見える。草壁は池の淵に座り込むと、中で泳いでいる鯉をおそらくは観察した後、容器の蓋を開けて翻した。
最初紫子は、それをただの鯉の餌やりではないかと思った。魚の餌を詰める容器というのは洗浄さえしていれば結構何でもありである。紫子の住む施設で飼われているランチュウなどは、餌の容器どころか住処が半分に切られた灯油のボトルだ。洗剤の容器にエサを詰めていても、多少ズボラであったとしてもおかしなことでも何でもない。
だが池に降り注いだのはとうてい餌とは思えない真っ白い粉だった。バシャバシャと音を立てて水面を叩いたそれらは、泡を立てながら水中に溶け込んで消える。本物の洗剤だ。如何に池の容積が広いと言えど、中身を丸ごとぶち込めば環境が変化することは確実であり、中を泳いでいる鯉に多大なダメージがあることは免れない。死ぬのではないか? 草壁は鯉を殺そうとしている。
「何やっとんねん!」言いながら、紫子は池に駆けつけた。「んなことしたら魚が死ぬやろ! アホちゃうか?」
草壁は驚いた表情で紫子を振り返った。
「あ? あ?」
草壁は凍り付いた表情を浮かべていた。困惑と恐怖で青白くなった顔でしばし固まり、何かに気付いたようにはっとした顔になる。それからあちこちに視線をやると、小さくうんと頷いた。
「あたしさ。飼育委員の仕事は誰より真面目にやってるんだよね」
「あ? 何言うとるねん! さっさぁこれ鯉をどうにかせんと死んでまうぞ?」
「あんたにあげるわ」そう言って、草壁は洗剤の容器を紫子の両手に持たせた。意味が分からない。「じゃあね」
そう言ってその場を駆け出していく。何がなんだか分からない。
追いかける気にはならなかった。別に自分自身で草壁の行為を弾劾する必要もなかったし、今はそれどころではなかったからだ。
草壁が池の鯉を殺そうとしていたことは間違いない。それはありのまま大人に報告すれば済むことだ。それ以上自分のすることはない。奴が校内で起きている一連の動物殺害事件の犯人なのだとすれば、それも終わりになるはずだ。
持たされた洗剤の容器に視線をやる。中は空になっている。普通こういう洗剤は容器の口に細かい穴が開いていて、逆さにして振ることで少しずつ中身を出す仕組みになっているはずだ。しかし草壁の持っている容器は口のところが切り取られ、内部がむき出しになっている。中身を素早く池に注ぐための改造だった。
ふと池に視線をやる。池の水は泡立っていて、細かい穴の開いた円形の紙が浮いていた。洗剤の容器の口に見えた。草壁は池に洗剤を注ぐ直前にこれをはぎ取るなりしたのかもしれない。
いずれにせよ、ことは一刻を争う。
「せんせーっ!」紫子は叫んだ。「せんせーっ! 誰かせんせーおらん?」
しばらく歩き回ると用務員らしき若い男性に出くわした。
「せんせー」紫子にとって用務員と教師に違いなんてない。「せんせーちょう池見にきてくれんか?」
「ど、どうしたの君」男は困惑した表情だった。
「鯉が死ぬねん。はよ来て」
池の様子を見て、用務員の男はますます困惑を強くした。顔を青くして、泡立っている池と紫子の持つ洗剤の容器との間で何度も視線を行き来させる。
「草壁っちゅう奴がな、二年三組の草壁や。ソイツが洗剤を池に撒きよったんよ。まだ何分もたっとらんけん多分助かるで。なんとかして」
「あ、ああ……」男は慌てた様子で携帯電話を取り出す。上司に連絡を取るのだろう。
電話口に向かって喋っている用務員の男を見て、紫子は洗剤の容器をその場に捨てて走り出す。
池の鯉の問題と、動物殺しの問題は、これで片付いた。もうどうでも良い。
自分は宿題を取りに来たのだ。それを達成する。施設に残して来た妹が心配だった。
〇(※)
施設に戻った時には五時五十分ごろだった。
運動場の倉庫の裏側、鉄網との隙間に小さなスペースがある。そこが姉妹のいつもの隠れ家で、施設の中で唯一居場所と言えそうな場所だった。
覗き込むと、案の定怯えた様子の緑子が膝を抱えている。
「あ! お姉ちゃん!」緑子は笑顔になる。
「もんたやでー」紫子は妹に歩み寄り、小さな手を取って立ち上がらせる。「遅うなってごめんな。ちょうすごいことがあったねん。聞いてくれんか?」
施設の建物に戻りながら、紫子は先ほど経験して来たことを話す。宿題を取りに行ったら池の前に草壁がいて、洗剤を池に撒いていた。後ろから声をかけたら妙なことを言ってその場を逃げ出した。奴が猫を首吊りにした犯人かもしれない。テキトウな先生に密告っておいたから、明日にでも草壁に声がかかって追及がなされるはずだ。池の鯉についてはすぐに救出が行われると思うので、多分、助かる。
門限の六時の鐘が鳴る前に施設に入り、食堂の隅で並んで腰かけて話をする。緑子は眉をひそめて話を聞き終えて、それから頷いた。
「……客観的にもお姉ちゃんは悪い子じゃないもんね」
「は? 何言うとるねん?」
「ご、ごめんね。その、お姉ちゃんは世界で一番優しい人だし、それを分かってくれてる人は、多分、学校にも、先生にも、いると思うの。だから、大丈夫、大丈夫だよね……」
「どないしたん緑子? ウチがどう思われとるとか、何の話や?」
「あのねお姉ちゃん」緑子は泣きそうな顔をする。「すぐに帰っちゃったのは、ひょっとしたらよくないかもしれない。ううん、杞憂だと思うんだけど……」
「紫子さん」
背後から声をかけられる。振り向くと、そこに『鬼婆』がいた。
メガネをかけた若い施設職員で、名前は青沼。世界で一番嫌いな人間は緑子の脚を圧し折った糞野郎だが、二番目は誰かと言われるとこいつはなかなか有力候補だ。
妹にちょっかいかけたいじめっ子に自転車でタックル仕掛けたり包丁巻いた棒で切りかかったりしている内、紫子は問題児扱いされるようになっていた。そしてこの青沼は紫子のお目付け役を自任していて、普段から紫子を監視して何か起こる度ヒステリックに喚き散らし平手を飛ばすのだ。
喧嘩騒ぎを起こした時に罰を与えられるのは覚悟の上だ。だが日常の忘れ物程度のミスで本気で殴られるのは理不尽だと思うし、何でもない時に唐突に説教を始め、聞き流しているのを見抜くとやはり平手を飛ばす習性などは心底辟易する。さんざんぶった後何の脈絡もなく紫子のことを抱きしめ、『全部あなたの為にしていることなのよ』などと意味不明なことをほざきながら涙ぐむ性質などは、紫子にしばしば本気の殺意を覚えさせるのだった。
「ねぇ正直に言って。あなた、さっきまで学校で何してたの?」青沼は眉を顰めて紫子を見る。
「何してたも何も……」紫子は質問の意味が分からず言いよどみかけるが、はっきり受け答えしないとやはりしばかれるので、相手の方を向き直ってできるだけハキハキ言った。
「宿題を学校に忘れたけん、取りに戻っとった。ああ、宿題は後で妹とやるけんあんたは手伝わんでえぇで。それはホンマ頼むわ。うん、ちゃんとやるけん」
平手が飛んだ。
こいつの『コレ』は唐突かつ理不尽に訪れるので身構え心構えができない。衝撃を受け、殴られたということを理解した後、『ああ自分はこいつに対して無力なんだな』という諦念と共にじわじわと激痛が広がる感覚は最悪の一語である。
「何誤魔化してるのよ! 正直に言いなさい!」
「い、いや。正直に言うてますやん」紫子は困惑する。「何も嘘も隠し事もしてないって。しばくんやめ……」
やめろと言いそうになった瞬間に顔を張られた。青沼の手は平べったくてでかい。そして硬い。何度も何度も自分の頬に衝突する内に硬度が強化されてるんじゃないかと思う程だ。
「やめてやめてやめて!」紫子は恐怖して立ち上がり身を退く。しかし青沼はそんな紫子にずんずん迫って食堂の壁に追い込む。そして追い込んだ流れで紫子を殴った。本当にただ『流れ』って感じの三発目だった。
「待った」紫子は両手を差し出す。かなり、命がけだ。
「何が待ったよ!」
「察するにあんたが怒るだけの理由がある。それを話してくれ」
「自分の胸に聞いてみなさい!」
「ホンマに分からん。教えて。教えてください。お願いします」
「……学校からね、連絡が来たの」青沼は悲しそうな表情を浮かべる。さも自分は傷ついたのだと言いたげな顔だ。「あなたが中庭の池に洗剤を撒いて鯉を殺そうとしたってね。ねぇ、どうしてそんなことをしたの? ワタシ、あなたの母親代わりとして悲しいわ」
「は? え? ちょう待って? なんでそんな話になっとるん? おかしいやろ?」
「何がおかしいのよ? 飼育委員の女の子が餌やりの当番で池に行ったら、あなたが洗剤を池に撒いていたそうじゃない! その女の子がすぐに職員室に駆け込んで話してくれたそうだわ。証拠に写真まで取ってたそうよ。言い逃れはできないわ」
「違う!」叫んだのは緑子だった。顔面蒼白で全身を震わせながら、決死の表情で普段出さない大声を発している。「お姉ちゃんはそんなことしてない! 話をさせてください」
「あなたは黙ってなさい!」青沼は叫んだ。緑子は目に涙を溜めて拳を握る。それから覚悟を決めた表情で口を開きかけるが、声を出す前に紫子が間に入った。
「待って! 違うんやって。池にクスリ撒いたんは多分その飼育委員の奴や」自分の見たことと青沼の話を総合し、紫子は一つの結論を出した。「ウチな、見たねん。草壁っちゅうクラスの女が池に洗剤まっきょった。ウチが声かけたら逃げた。多分な、その草壁が職員室行ってウチを犯人にしたんと思う。そんで教師はあくまで真偽を確かめる為に、あんたんとこに連絡を……」
平手が飛んだ。
「お友達の所為にするのね!」青沼は平手を往復させる。「卑怯者! ちゃんと本当のことを言いなさい!」さらにもう一発。「そんな姑息な言い訳が通用する訳がないじゃない! なんで分からないの!?」
「やめてください!」緑子は小さな身体で青沼の身体に飛び込んだ。その制止のお陰で、紫子は尻餅を付いて往復ビンタから逃れることができた。緑子は正面から頭一つ大きな青沼に震えながらしがみ付いて、身体を張って姉を守っている。
「本当なんです! お姉ちゃんは本当に宿題を取りに行ったんです! 何も悪いことはしてない! もう少しだけ、もう少しだけ話を聞いてください」
「うるさい!」青沼は縋りつく緑子を力いっぱいはたいた。片脚のまともでない緑子は、それだけで立っていられなくなりその場を吹っ飛んで横たわってしまう。
「かばったってお姉ちゃんの為にならないのよ! というかあなた何か知ってるんじゃないでしょうね? 話してみなさい!」
「やめぇや!」紫子は両手を開いて間に飛び込んだ。「分かった! 諦める! 諦めるわ。だから妹しばくんはやめてくれ。お願いします」
頭を下げた。首相なその態度に青沼はこくんと頷いて、紫子の身長と同じ高さまで腰を折ったと思ったら、その両肩にぽんと手を置いた。
「ようやく分かってくれたのね。偉いわ。ちゃんと正直に話すのなら、ワタシは絶対にあなたの味方よ。さあ、どうしてそんなことをしたのか言って見て?」
「……なんか勘違いしとらんか?」紫子は言った。自分でも驚くくらい冷たい声が出た。「やってへんことやったとは言わんで。ウチが諦めるいうたんは、ドアホウにホンマのことを分からせることをや。飯抜かすんか裸で放りだすんか死ぬまで殴るんか知らんけど、もう好きにせぇ」
平手が飛んだ。今までで一番痛かった。
その場で尻餅を付いた紫子の手を退いて立ち上がらせ、青沼はさも自分は深く傷つきましたみたいな声を出す。
「……やってしまったことはもう過ぎたことだわ。変えられない。でもね、認めるかどうかは今のあなた次第なの」青沼は涙ぐんですら見せる。「認めるかどうかは、今のあなた次第なの」
気に入ったのか同じフレーズを二回繰り返す。紫子は理解した。こいつの頭の中では自分の素晴らしい説得によって紫子が改心し、許しを請い、青沼がそれを許し、最後には暖かく抱き合っておしまいみたいな物語が描かれており、そのレールに乗ろうとしない紫子に対する苛立ちを平手を飛ばすという形で反映させているのだ。
「来なさい」青沼は紫子の手を引いて立たせ、施設の出入り口まで連れて行く。もうどうにでもなれと思った。「いい? 今のあなたにとっての最善は何かをじっくり考えて? 全部正直に話す気になったら入って来なさい。自分の過ちを認められない内は、この施設の子供とは認めない」
玄関の外に放り出され、締め出される。夕焼けがほとんど夜の暗闇に変わりつつある空を見上げ、紫子は溜息を吐くと、腫れあがった頬に手をやりながらとぼとぼと倉庫の裏へ歩き始めた。
涙が出るのは痛いからだ。本当にそれだけだ。




