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姉妹、猫殺しと対決する 前篇3

 〇(※)


 一人で座り込んでいると腐って来る。憎悪とか自己憐憫とかそういうどうしようもないところに救いを見出して、世界から自分を孤立させようとしてしまう。

 「くそうくそう。知らんわあんな奴ら。どうとでも思え畜生」

 夜は深まり世界は冷たくなる。世界は地獄で自分だけは被害者だという思いに逃げ込んでいた時、妹がやって来た。

 「お姉ちゃーん。……ここー?」脚を引きずって倉庫裏のスペースを覗き込む。

 「おまえ……」紫子は言って、立ち上がる。「抜け出したんか」

 「うん」

 「危ないで」

 「そうだけどでもお姉ちゃんこういう時一人ってすごくつらいでしょ?」

 「つらい」紫子は妹の肩を抱いてそのやらかく薄い胸に顔をうずめた。「ああもう、つらいー。なんでウチがこんな目に合うねん。ざっけんなよマジで。くそ。皆死ね。くそうくそう」

 さんざん縋りつき甘えておいてから、紫子は少しだけ姉貴面するのを思い出し「まあ見回りとか始まる前に帰れよ」と取って付けたように言った。

 妹は服を着替えていた。本人が言うにはあの後一人で戻してしまったのだと言う。薬を飲んだから大丈夫だとは言うがきっと大丈夫でも何でもない。甘えたいのは向こうも同じだろうに随分と一方的に喚いてしまった。

 「でもおかしいよ。これ免罪だよ。なんでお姉ちゃんみたいな人がこんな目にあうのかな?」緑子はしょんぼりした顔をする。

 「……アホやからちゃうか?」実際のところ、こうなる可能性を少しでも睨んでいたらもっとマシな立ち回りがあった。「でもな緑子。ウチこうも思うねん」

 「どうしたの?」

 「世の中免罪でケームショ行ったり酷いと死刑になったりする奴ってようけおるやろ? 誰にも信じてもらえんで死んでいくねん。でもな、ウチには少なくともおまえがおったし、死刑になる訳でもない。幸せなもんや」

 草壁のことは心底腹立たしいしズルい奴だと思うが、それで自分の現状が改善する訳でもない。『あるもの』を考えれば良いのだ。だったら自分はかけがえのないものを持っている。草壁のような人間には絶対に持ちえない大切な絆を。

 「碌に話も聞かんとコロっと騙される鬼婆や糞教師共が何と言おうが最悪構わん。おまえがおったらそれで良い」

 「…………」緑子はいっそ泣きそうな顔をする。「……そうなっちゃうよね。でも……」

 「分かっとる分かっとる。いくらどうでもえぇいうたかて、してへんことをしたとは言わんって。それにちょっとは足掻いてみるつもりやで」

 「うん。わたしは絶対にお姉ちゃんの味方だよ。……ねぇお姉ちゃん」緑子は決心した顔をする。単なる庇護対象だとは思っていないが、この時の妹の顔はいつもより凛々しく見えた。「何でも良いから。その時の状況で、何か気付いたことあったら話してみてくれない?」

 「気付いたこと? うーんとなぁ」

 池の前で草壁を見付けてから用務員らしき男に事情を話し、電話をかける男を見てから、忘れ物を取りに行くまでの一部始終をゼロから話す。

 この妹は賢いから、こうしてやれば何か思いつくかもしれない。それが何に繋がるかは正直分からないが、妹なりに何かしたいという気持ちを持ってくれていること自体が救いになる。

 「……あのねお姉ちゃん」話を聞き終えて、緑子は言った。「犯人が使ってた洗剤っていうのは、トイレとかに置いてある奴だよね。あの緑色の、円柱型の」

 「せやせや。あの逆さにして振ったら中身出る奴な」

 「あれってね」緑子は、まるで手元にその洗剤があるかのように、左手を円柱を持つような形にする。「こうやって、アタマに爪かけて引っ張ったら、キャップが外れるんだよ。キャップっていうのは、あの小さな穴の開いているボール紙の蓋のことね」

 「そういやそうやっけ?」

 「うん。中身を詰め替えられるんだね。でもだとすると……」

 足音が聞こえて来た。妹は見ていて気の毒になるほど激しく狼狽して紫子の身体にしがみ付く。

 運動場を誰か見回っているらしい。姉妹は運を天に任せたが、倉庫裏のこのスペースまでは覗かれずに済んだようだった。幸いだ。

 「なあ緑子。お姉ちゃん十分助かったで。そろそろ帰れや」紫子は言う。

 「う、うん」緑子は泣きそうな顔でちょんと頷く。「あ、あと、これ」

 何か柔らかいふにゃふにゃしたボールみたいなものを渡される。闇の中で目を凝らすと、米粒がぎゅうぎゅうに詰まっていた。後アジフライとか漬物なんかが詰め込まれてラップの中でボールになってる。夕飯?

 「わたしの食べ残しだけど。……じゃあ、がんばってね」

 「おう。ありがとう。おまえもがんばるんやで」

 緑子は施設の建物に戻っていく。今日はお互いに夜を乗り切らなければならない。心はいつも一つだと思ってはいても、お互い、心細くはある。

 紫子はラップを開く。あまり器用だったり要領が良かったりしない緑子が、周りの目を盗んでラップに来るんで、リスクを冒して抜け出して来て渡してくれた夕飯だ。心底ありがたいが、一つ注文を付けるとすれば。

 「箸忘れとるがな」

 まあしょうがない。紫子はアジフライを素掴みでむさぼり始めた。


 〇(※)


 朝学校に行って妹共に職員室に行った。そしてこの件を預かっているという教頭のもとに行き、妹が整理してくれた通りの順番と言い方で昨日起きた出来事を話した。

 「ようするに、どちらかが嘘を吐いているということなんだよね?」教頭は柔和な表情で言った。

 「せやねん。それ分かってくれたら今はえぇわ。そんでな、ウチもとことん話聞くけん、草壁のことももうちょっと追及して見てくれんか?」これも緑子が考えたセリフだ。

 「もちろんそれはするよ。とことん真実を追求する。でもね」教頭は少しだけ悲しそうな表情を作り、さも紫子を憐れんでいるという口調で言った。「君は、昨日青沼さんの前で、自分のしたことを認めたんじゃなかったのかな?」

 否定する紫子に教頭は黙ってうなずく。それから教頭は草壁がどれだけ熱心な飼育委員だったか、どれだけ慈しみを持って動物を育てていたか、鯉が死にかけた時どんな表情で泣きじゃくりどんなことを言ったかなどを話し、最後に「鯉は死んでいない。誰が犯人だとしても、今きちんと謝れば済む話なんだ。悪いようにはしないつもりだよ」と締めくくって、紫子の顔をじっと見つめた。

 「もうええわ。諦める」紫子は昨日青沼に言ったのと同じことを言って、その場を後にした。


 〇(※)


 「君が池に洗剤を撒いた画像がネットに出回っている」

 そう言ったのは、今日も姉妹より早く養護教室にいた虹川だった。窓際の椅子に腰かけて、姉妹に横顔を向けたままぼんやりと話している。頭には、太陽から見下されない為のハットをいつものように被っていた。

 「ツイッターって存在くらいなら知っているかな? 水倉という二年の女子がツイート……画像を文章と共に乗っけていたよ」

 虹川が見せて来た携帯電話には、洗剤の容器を持って泡だらけの池の前に立つ紫子の写真が表示されていた。草壁に容器を手渡され、訳も分からず立ち尽くしていた時の写真である。いつの間にこんな写真を撮られていたのか。

 「リツイート……反応はほとんどこの中学の生徒から。水倉は『ツイッター番長』と呼ばれているみたいだね。校内のほとんどの人間と相互フォローしている」

 「水倉って、確か、お姉ちゃんに免罪を仕掛けた犯人と、いつも一緒にいる……」緑子は言う。

 「あのスピーカー女か」日頃紫子をジンジャーとかガイジとか池沼とか割と洒落にならない言葉で呼ばわる、人を馬鹿にしたような慇懃な喋り方をする女だ。草壁とは『草ちゃん』『水ちゃん』と呼び合っていて親密そうにしている。共謀したか。

 「世論によれば君は校内で連続して起きている動物虐殺事件の犯人ということらしい。町中で犬猫の殺される事件の方まで話を拡大する人間もいるようだね。君が通院の必要な情緒障害の持ち主であるということは、その噂に拍車をかけているようだ。自分のことを『普通の人間』だと思い込んでいる者にとって、君のような、というか僕達のような人間は、得体の知れないモンスターだろうから」

 「お姉ちゃんはモンスターじゃない」緑子は歯噛みする。

 「どちらでも良いさ」虹川は肩を竦める。「それで、これはボクにとってたいした質問ではないが、君なりに答えを用意しているだろうから義理として聞いておこう。『君はやったのか?』」

 「してへん」紫子は断言した。「ウチな、虹川クンのこと友達や思うとるねん。せやからな、信じて欲しいんや。ちょっと卑怯な言い方になってもたけど……」

 「信じるよ」虹川は断言した。「どちらでも同じことだからね」

 「どういうこと?」緑子は唇を結ぶ。

 「どういうことも何も」虹川は頬を捻じ曲げる。「君が犯人にしろ、犯人でないにしろ、ボクの世界は何も揺らがないからさ。どちらにしろ、ボクが君たちとここで他愛もない会話をする時間に影響はないと、ボクは睨んでいるからね。だから犯人であろうがなかろうが興味はない」

 そう言って、虹川は帽子をかぶり直し、それから無表情で視線をこちらに向ける。相変わらず、それは顔がこちらを向いているだけで、彼女が紫子達を見ているようにはどうしても見えなかった。

 「だが君たちに友情を感じるのはボクも同じだ。だから君たちの望みの内、ボク自身に損のないものは極力叶えてやるつもりさ。ボクにとって、君を犯人だと思うのか犯人でないと思うのかは、同等だということは話したよね? ならば君の望み通り、君を犯人でないと思うことにする。それが友情に応えることだと愚考する次第さ」

 「……何いうとんのか分からへん。あんたたまにそういうことあるわ」紫子はアタマに手をやる。

 「信じてくれるって」緑子はほほ笑んで姉の手を取った。

 「ほうかい。……ありがと」

 「どういたしまして」虹川は何とも思ってなさそうに言った。

 「さて。これからはごくふつうに友達同士の会話をしよう。世間話さ。今校内を騒がせている動物の殺傷事件、或いは、町内を騒がせている犬猫の殺傷事件でも良い、それらの犯人はどうしてこのようなことをしているのだろうか?」

 「知らんよ。そんな奴の思うとること」紫子は言った。

 「君たちは他人の立場になって、他人の気持ちを考えることができる人物だ。きっとボクにとって面白い答えが聞けると思っているのだけれどね」

 「……ゲーム感覚とかか?」紫子は眉を顰めて唸る。「小さい頃妹とゲームするん好きやったねんな。赤い帽子をかぶったおっさんが亀の怪人と闘う奴とか。あれで敵を踏みつぶしたらおもろかったねん。同じ感覚ちゃうんかな?」

 「30点」虹川は右手の指を三本建てた。「そういう気持ちもないとは言えない。だから三割は上げよう。おめでとう」

 「やったね」緑子はほほ笑んだ。「お姉ちゃん、30点だよ30点」

 「……お、おう」紫子は苦笑する。「緑子、おまえはなんかあるんか?」

 「わたし?」緑子は首を横に倒す。「……犯人の気持ちになる、かぁ。難しいね」

 「んなアホな奴の考えることなんて知らんよな」

 「うーんと。でも考えてもみれば、犯人って結局はわたし達と同じ人間なんだよね」

 「まあ、せやろな。それがどしたん?」

 「えっとね。動物を殺すような酷いことをしちゃった人って、やっぱりどうしても、色んな人から責められると思うの。その人が何を思ってそんなことをしたのかなんて、たいていの人には気にされないで、考えてもらえないで、行動だけを責められて、傷ついて行くんだと思うの」

 「自業自得やろうけど、確かにちょい気の毒やな」

 「だよね。きっとその人は、口ではどんなことを言っても、内心では自分のこと、理解して欲しいんじゃないのかな? どんな気持ちでそれをやったのか、分かって欲しいと思うし、周りの人にそれを考えて欲しいんじゃないかなって、ふと思ったの」

 「満点だ」虹川は両手の指を全て立てて突き出した。

 「え? わたしまだ何も言っていないよ」

 「だがもう答えは出てしまった」虹川は言う。無表情に。「孤独なんだろう。彼が日常で行うような自己主張では、誰も彼のことを理解も承認もしなかったのだろうね。それが、彼が動物を殺す理由だよ」

 「……どういうこと?」緑子は困惑した様子だ。

 「せや。意味わからん」紫子は顔をしかめる。

 「そりゃそうさ。他の誰に分かったところで君たちには分からない」虹川はそう言って、体ごとこちらを向き直った。「君たちにはお互いという理想的と言って良い理解者がいるからね。どんな時でも承認欲求は満たされ切っている。だから分からない。動物を殺して見せびらかすような、嫌われ、疎んじられ、恐れられ、嘲られるような方法でしか、自分の存在を周囲に主張できない人間の気持ちなんて、絶対に」

 虹川は頬を捻じ曲げる。その嘲笑がどこに向いているのかは、紫子には分からない。

 「幸せなことだよ。他の全てが不幸でも、その一点で相殺できる程度にはね」


 〇(※)


 やがて虹川のみょうちきりんな話法に付き合う憩の時が終わり、それぞれの教室に行かなくてはならなくなる。

 教室に向かう途中、周囲から姉妹に向けられる視線はいつもよりも深い好機と嘲笑とがあった。おそらくは悪意も。生徒たちは携帯電話を覗き込み合って、姉妹を指さし、囁き合う。

 緑子は泣きそうな顔をしている。自分も同じ顔をして、世界に味方はお互いだけだと縋り合い、泣きじゃくったら楽になるだろうか? きっと楽になるだろう。それをしないのは無力な姉妹を嘲笑う誰かがきっといるからで、それがムカ付くと思えている内は、多分、紫子は大丈夫だ。妹を守ることができる。

 草壁の姿を廊下で発見した。

 紫子は直情型の人間だと自他ともに認められているが、少なくとも普段から感情を制御する能力に欠けている訳でなく、単にものを深く考えることをしないだけだ。その役割は妹に任せている。しかし何かする時いちいち妹に意見を伺っていられる訳でもない。

 紫子は脈絡なく草壁の胸倉を掴み、十センチ高いところにある相手の瞳を強く睨みつけた。

 「あんた偉い卑怯な真似しくさったな。なんでホンマのこと言えへんねん、ドアホ」

 草壁は怯え切った表情で紫子の瞳から逃れようと首をよじる。その瞳に浮かんでいるものが都合の良い罪悪感と怯え、そして強がりのような開き直りであることを紫子は見抜く。己の卑劣さを知っている人間が、その卑劣さを指摘された時に浮かべる顔だ。

 「一発どついてえぇか? ああ?」

 草壁は抵抗をしない。しないよなと思う。特に考えることなく怒りに身を任せることを紫子が選択したその時。

 「ジンジャー!」

 という叫び声が聞こえたかと思ったら、後ろから両手を取られて草壁から引き離された。

 右腕と左腕をそれぞれ拘束された。片方は誰であろう水倉だ。痩せて背が高く面長の顔に、カマキリのような大きくて丸々とした目をしている女生徒だ。

 もう一人は少し怯えた表情で紫子の片腕を申し訳なさそうにつかんでいる知らない顔の女で、下っ端っぽい雰囲気の冴えない風貌の奴だ。実際取るに足らない奴なんだろう。

 「草ちゃん草ちゃん。大丈夫でしたか? いやキチガイは何やるか分からなくて恐ろしい。いきなり胸倉掴んで理不尽に人を殴りつけるなんて、まさしくジンジャーですな」

 こいつだけは紫子が殴りかかる理由を知っていそうなもんだ。しかしこれはまずいなと紫子は思う。紫子は過去の経験から身体を拘束されることにトラウマがあり、場合によってはフラッシュバックを起こして錯乱状態に陥ってしまう。学校でそうなる訳にはいかないので、神経を集中させてどうにか正気を取り持つ必要があった。正面からやられなければそこまで恐ろしさは感じないし、今朝も薬を飲んだから大丈夫だとは思う。

 「あなたがトマトを殺した犯人?」

 そう言って、紫子の前にやって来る女がいた。

 名前は知っている。火口とか言って紫子のクラスの女子の中では一番威張ってる奴だ、確か。紫子を普段からあざ笑う水草コンビのように陰湿な人間ではないが、その代わり一度怒らせると手下を従えて烈火の如く他人を攻撃する性質を持ち、そして今の火口はそのスイッチが入っているように見えた。

 「トマトがなんか知らんけどちゃうで」

 「犯人は皆そういうのね」言って、火口は携帯電話を取り出す。可愛らしい猫の写真があった。「あなたが池の鯉を殺したのは証拠もあって明らか。校内の他の動物殺しも町の動物殺しもあなたの仕業に違いないわ。トマトは私の家族だった。あなたに殺された。私にはあなたを殺す権利があると思わなくて?」

 「リンチか? どうでもえぇよ。ただ人のおらんとこでやってくれや。ウチもパニくるかもしれん、それは大人に見られたくない」紫子は溜息を吐いた。

 「白状するのね?」

 「ちゃうよ。どうでもえぇだけ。やってへんことやったとは言わんけど、ちょっとやそっとじゃあんたの思い込みは無くせそうにないけんな。殴りゃええやろ」

 火口は冷静だ。ただこいつは多分自分の中の怒りと悲しみを発散する方法を探しているだけだ。つまり火口にとって100%紫子が犯人である必要はない。捌け口でさえあれば良いのだ。そうでなくとも紫子は効果的な弁解の言葉すら持っていない。

 そして紫子には『殴られるのは嫌だな』以上にこいつの誤解を嫌がる理由がない。どう思われてもどうでも良い。こんなくだらない世界からどんな目にあったって、信じてくれる味方がたった一人いれば幸せなものではないか。この気持ちは決して捨て鉢でも自己憐憫でもない。

 ふと妹がどうしているか気になって、紫子はあることに気付いた。

 「……やめぇや!」

 紫子は叫んだ。腹の底から心底焦燥して制止を呼び掛けた。

 何かを感じ取った火口が後ろを振り向く。緑子がいた。どこから持って来ていたのか学習椅子を持っていて、その重くて硬い凶器を火口に向けて振り上げている。

 姉を攻撃する敵を殺そうという意思でその瞳は据わっている。その表情は明らかに冷静でも正気でもなかった。緑子は例え手に持っているものが斧でもチェーンソーでも容赦なく相手に振り下ろすだろう。持っているのが椅子なのはたまたま近くにそれがあったからだ。

 肝の据わっていそうな火口もこれには恐怖している。凍り付いた瞳であと退る火口に、緑子は一歩踏み込む。

 「やめろ緑子! それやったらどこ連れてかれるか分からんぞ! 降ろせ!」

 紫子は叫ぶ。

 紫子と緑子では診断名が違う。その重みも。自分が誰かを傷つけるのと、緑子が誰かを傷つけるのとでは訳が違った。もしも緑子が常軌を逸した行動で他人に危害を加えれば、そのすべてを心の疾患の所為にされ、障碍者施設に移される可能性が高い。

 そうした事態を防ぐため、緑子は強い薬を数倍の量で服用し、地獄のような副作用と毎日闘っている。こんな奴本来なら障碍者施設か或いは病院ででも暮らすべきなのだ。しかし緑子は姉と離れ離れにならない為に、何が何でも施設で暮らす為に寿命を削っている。

 そんな異常なことがまかり通るのも、政治家の父を持ちあちこちにやたら強いコネを持つ青沼の存在があるからだ。自身を立派な職員と思い込む為の道具として『哀れな姉妹』を欲する青沼と、姉と生きる為に手段を選ばない緑子の思惑は奇しくも一致している。

 一度だけ、紫子は妹に持ち掛けたことがある。ここで過ごすのはつらいのではないか。きちんとしたところで治療を受けながら生活する方がおまえの為ではないのか。中学を出たら自分は必ずおまえを迎えに行く。だから……。

 緑子は泣きじゃくって姉に縋りついた。『お姉ちゃんと離れ離れになったらわたしは死んでしまう』

 それを聞いて、紫子は気付いた。自分は、ただ妹にこのセリフを言わせる為だけにこんなことを持ち掛けたのだと。情けなさが底なしのように湧いて来て、打ちひしがれる紫子を、緑子は全て理解している表情で優しく抱きしめた。

 「あと一年半やんけ。一緒におってくれ。お姉ちゃんおまえがおらな生きてけん。なあ、頼む、頼むよぅ」

 紫子は泣きそうになりながら懇願するように言った。

 紫子の願いを妹は叶えてくれる。傍にいて欲しいと願えば命をかけてでもそれを叶えてくれる。その時もそうだった。がしゃんと音がして椅子が緑子の手から滑り落ちる。姉妹は救われた。

 予冷が鳴り響く。逃げるようにその場を去る火口に、手下共が助かった表情で続いて行く。

 人だかりの中心で、紫子は震えて座り込む妹を抱き起す。誰もが目を反らそうとしていた。

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