姉妹、猫殺しと対決する 前篇1
〇
世界の果てで二人ぼっちというのはまさしく姉妹が思い描く幸福の形であって、それは若いカップルが甘い声で囁きあうようなおぼろげなものではなく、経験から来るかなり切実な願いであった。
今でこそ比較的穏やかな日々を過ごす姉妹であるが、今の生活を手に入れるまでの半生(という程生きてもいないが)はなかなかに壮絶を極める。つらいことや苦しいことは二人だけの世界の外からやって来ると姉妹は知り抜いていて、よって彼女達は自分達以外何もない世界で生きることを心の底から望んだのだった。
よって、早朝から続く激しい台風に見舞われ買い物にも銭湯にも行けず、アパートの共同トイレに行くのも大仕事だった一日も、姉妹にとっては望み通り幸せだった。お互いの身体をお湯で絞った布で拭いてやって垢を落とし、寝間着に着替えて寝具を出して、いつものように同じ布団で横になった時、紫子は満たされた気持ちでいた。
「……虹川くん」
布団の中でいつの季節もちょうど良いぬくさの妹と身を寄せ合っていた時、唐突にその名前が飛び出したので、紫子はこの日一番動揺した。
「虹川くんの名前出したのって、中学出てから初めてだよね?」
緑子は言った。お互いの顔が見える程度の暗闇の中、雨粒と風の音だけが聞こえて来る。数秒だけそれに耳を傾けた後、何か物思いにふけるような相方の顔を拝んでから、紫子は口を開けた。
「そういやそうやっけか?」
「そうだよ。虹川くん、今、どうしてるのかな?」
「どうしてるも何も……」紫子は唸る。「この話掘り下げたらおまえ寝れんようになるんとちゃうか?」
「もう諦めてるよ」緑子は苦笑する。
アイツの名前出したのは迂闊だったか。紫子は自省する。いや、虹川梢は緑子にとって恐怖や困惑をもたらすような名前ではなかった。むしろ彼女に対して自分達は好意的だった。さっき胡桃に見せた『どっちがどっち?』の一発芸も虹川にはしたことがあるし、虹川は言い当てた方の一人だった。
心理的距離としては、赤の他人よりは茜や北野や胡桃に近い場所にいた。そして今ではそのどちらにもいない。心の中で彼女をどう扱って良いのか判然としない。
「明日って確かバイト休みやっけ?」紫子は記憶を掘り出す。今朝起きた時、『せめて一日台風が遅れていたら』と思ったからそれは確かだ。「ちょう夜更かしするか」
「ありがとお姉ちゃん。一人で考えてるとどんな気持ちになるか分からなくって……」
「ええんやで」紫子は言う。「何から話そ?」
「やっぱりあの時の話じゃないかな」
「いきなりやな。でもそれしかない気がする」紫子は過去のことを思い出す。「あの時っちゅうと、あれやな。朝、二人で中学校行ったら、校舎の出入り口に猫の死骸が吊るしてあって……」
〇(※)
「お姉ちゃんお姉ちゃん」
「なんや緑子」
「猫が首吊ってる」
緑子の指さす先には猫の死骸があった。全身をナイフでズタズタに切り裂かれ、錆鉄と磯の臭いを混ぜたような悪臭を放ちながら、首に巻かれたビニールテープで、校舎の入り口に吊り下げられている。
「うわ。これはむごいわ」紫子はそう言って身震いした。「おっそろしいことする奴おるなぁ」
ここ最近、近所に動物の虐殺死骸が見つかっているのは知っていた。この三毛猫もそのクレイジーにやられた一匹であると見て間違いはなさそうだったが、しかし学校に侵入して校舎の入口に死骸を吊るすなんて常軌を逸している。
緑子は猫の死骸に手を伸ばした。乾き始めている死骸に妹の手が触れる前に、その病的に細い腕を掴んだ。
「あかんで緑子。ばっちぃわ」
「でもお姉ちゃん。こんなところに吊るしっぱなしは良くないよ」
「誰かがやるやろ」紫子は言い聞かせるように言う。「死んでもた奴に何したって一緒やで。コイツがドアホウに殺されたっちゅうことは、今から何をしたって取り消せへん。それよりウチは、生きとるおまえが服とか汚して鬼婆に怒られるんが心配や」
制服を汚して帰って来て『殺された猫を埋葬しました』じゃ済まされない。最悪『おまえらが殺したんじゃないのか?』と問い詰めるくらいのことをする養護施設職員を、紫子は知っている。
まともな職員ももちろんいるし、かばってくれることもある。しかしあえて服が汚れるような真似をする必要もなかった。神経を尖らせ、色んなことに気を使い、掻い潜り、耐え抜くことを、いつだって自分達は考えていなければならなかった。
「お姉ちゃんがいうなら」緑子は浮かない顔で頷いた。「でも、どうにかしてあげたいな」
「……せやなぁ。死んだら全部終わりやとウチは思とるけど、ほんでももし万が一、ユーレイとかがあるんやとしたら、自分の死体がこんなところで晒し者はむごいやろうな」言って、紫子は一つ閃きを得る。「せや! ウチ良ぇこと考えたで」
「え? どうするの?」
「鞄に合羽あるやん? それ着てこいつ埋葬するんや。合羽ならウチらで洗えるで」
「流石お姉ちゃん!」
という訳で、姉妹はぶかぶかの合羽を着こみ、鞄は校舎の前に置いといて猫の埋葬を始めた。
姉妹が今前にいる北校舎は、他の二年生が主に出入りする西校舎とは離れた場所にある。養護学級に通う二人は、登校してまずはそれぞれの交流教室の靴箱で靴を履き替える。そして上履きで養護学級のある北校舎まで歩いて来たという塩梅だった。
しかし思う。どうしてこの猫はこんなところでさらし者になり続けているのか。これが朝からあるのだとすると鍵を開けに来た職員が猫の死骸を見なかったとは考えづらく、見ていた場合は猫に対して何らかの処置がとっていたはずだ。それがなかったということは……。
猫の死骸を抱きながら妹と一緒に中庭を歩く。そして目の前に二人組の少女が現れたかと思ったら、大げさな悲鳴を上げてこちらを指さして来た。
「きゃあ!」大げさな、周りに見せつけるような表情で女の一人は悲鳴をあげた。「あなた達それ何よ! まさか殺したんじゃないでしょうね? アタマおかしい!」
「っていうか、なんで合羽着てるんですかね」もう一人の女は含み笑いをする。「あ、分かった。返り血が付かない奴ですね。分かりますよ。くすくす」
怯える緑子を紫子は背後に庇う。確かこいつら紫子のクラス(交流教室)の女子だ。悲鳴あげた方は草壁、含み笑いをするもう一人はその友人の水倉。
「勝手なこと抜かすなボケナス」紫子は精一杯虚勢を張って怒鳴る。「拾った死体埋めに行くんや。ほっとけ」
「マジ気持ち悪い。無理」草壁は身震いした。「水ちゃん水ちゃん。早くどっかいこう?」
「それが良いですね。賢明です。我が親友たる草ちゃんは今日も賢明」水倉は含み笑いをする。「ジンジャーとはあまり関わらないようにするがよろしい。ではサラダバー」
「待てや」
自分達を嘲笑いながらすれ違おうとする二人を、紫子は呼び止める。
振り向いた二人に向けて、思いっきり足元の砂を蹴とばした。
「きゃあ!」「うわっつ!」
「アハハっ。良ぇ気味や」紫子はせせら笑う。「ほないくで緑子。気分えぇわ」
「最悪!」とか「池沼! ガイジ!」とか騒いでいる二人に背を向けて、姉妹はとっととその場を後にしてしまう。緑子は心配そうな顔で背後と紫子の間で視線を行き来させていた。
「お姉ちゃん、大丈夫なの? あんなことしたらお姉ちゃんがいじめられちゃうんじゃ……?」
「クラスの奴からの扱いとかこれ以上悪くなりようがないで」面と向かって『アタマおかしい』とか『ジンジャー』とか日常的に言われるくらいだし。もうどうしようもない。「イジメとか慣れとるしへーきへーき。むしろやり返さん方が良くない。舐められる」
実際のところ、何をされてもやり返さずに小動物の顔をして過ごしている緑子の方が、クラスではまだ腫れもの扱いで済んではいた。だがそれはやり返さないのが良いとかではない。スイッチの入りやすさと入った時の面倒臭さで言うと緑子のそれは姉を凌駕していて、一度丸めた紙を投げつけるイジメを受けた際、緑子は恐怖と混乱のあまり失神すらして見せて、それっきり直接手を出す人間はいなくなった。少なくとも、学校では。
「おまえもなんかクラスの奴にされたらウチに言うんやで」
「うん。でも、やりすぎないでね。もしそれでお姉ちゃんがどこか違う施設に移されるとかなったら……」緑子は身を抱いて震えた。「わたし、死んじゃうから」
その台詞は、何一つ大げさなものではなかった。
〇(※)
猫を埋葬し終えてもまだ始業には時間が余る。
姉妹が施設を出るのは朝早い。施設と学校を比較の上でマシだと言えるのは学校で、『鬼婆』がいない点もさることながら、かなり安全で快適な逃げ場が存在していることが理由として大きかった。
姉妹は養護学級の教室に向かう。基本的にあそこに立ち入る悪童はおらず、同じ境遇の仲間から攻撃を受けることはなかった為、姉妹にとって安全地帯であると言えた。ずっとここで過ごしていたいくらいなのだが、例え養護学級の人間であっても朝の会と帰りの会はそれぞれのクラス(交流教室)で受けねばならず、また施設と学校とが相談して作られたカリキュラムだと紫子が交流教室に行かねばならない機会はそれなりに多く、ここに逃げ込める時間はそれなりに限られる。朝の始業前は数少ないその一つだった。
「やあやあ」
姉妹が養護教室に向かうと、窓際に置かれた椅子に腰かけていた女子生徒が手を振った。
「君達は今朝も早いね。それに、いつも一緒だ。いや羨ましい。君たちは生まれてこの方孤独を感じたことがないのだろうね。素晴らしいことだよ。その一点だけで他のあらゆる不幸を相殺できる程度にはね」
芝居がかったその台詞は間違いなく姉妹の為に考えられたものだったが、しかし彼女が声をかける先に姉妹がいるのかは怪しいものだった。彼女が人に話しかける時の視線は、目の前の誰かというよりも、その背後にある漠然とした、不特定な何かに向けられているように紫子には見える。きっと世界そのものと話しているんだと前に言ったのは緑子だ。
「おはよ虹川くん」「おはよう」姉妹は、一学年上ということになっている友人にそう挨拶をした。
「その帽子、今日も取らんのか?」
紫子は言う。虹川梢は頭に被っている黒いハットをちょんと指ではじいて見せて、いつもそうしている眠そうな目を無表情に窓の方へ向けた。
「言っただろ? これがなかったら太陽に見下されてしまう」
「帽子被っとったらセーフなんやっけ?」
「ないよりマシさ。まあポリシーだね。これを被り続ける為に」虹川はカーテンを閉め、どこからも光が漏れていないことを確認してから、帽子を取った。「こんなことまでしなくてはいけなくなった」
その頭には頭髪一つない。つるつるだ。切ったとか剃ったとかではなくて、丹念に毛根を潰しぬいている。その意味が最初紫子には分からず、一生涯彼女の頭から髪が生えないことを妹に聞かされ、愕然としたものだ。
「髪がないのが恥ずかしいから帽子をかぶっている……なんて。室内で帽子をかぶるのにどうしてそんな言い訳を考えなくちゃいけないんだか。礼儀だか常識だか何だか知らないが、ボクの知らないところでボクの知らない奴の決めたことの為に、どうしてボクがここまでしなくちゃいけないんだかね」
「今気になったんやけどそれどないやったん?」
「熱を使うんだ。年の離れた姉にやってもらった」虹川は視線を泳がせる。「姉はいつもいつも勉強にかかり切りであまりボクには構ってくれなかった。その意味でも、ボクは君たちのことが羨ましい」
この友人はいつだって姉妹のことを羨ましがった。自分達の境遇(父親が蒸発して母親が再婚した男が糞野郎。殴られ過ぎて自分はアタマ、妹はアタマと片脚に後遺症が残り、その後色々あって養護施設)のどこが羨ましいのかは理解できない。ただ共に生きていける片割れのいる喜びを理解してくれるのは嬉しくて、だからお互い以外では唯一、虹川は姉妹の友達だ。
「ところで虹川くん。さっきな、校舎の前で猫が首吊っとったねん」友達だから紫子はこんなことも虹川には話す。「虹川くんは見んかったんかな?」
「見たさ。……というか」虹川はそこでハットをかぶり直し、カーテンを開ける。ほんの少し見ない間に、空は深い曇り空に支配されていて、紫子は困惑しすらした。「首吊り死体自体は、校内のあちこちで見つかってるはずだよ」
「え? ホンマに?」
「ああ。君らが見たのはその内の一匹に過ぎない。ここ最近、校内で動物が死亡する事件が頻出しているのは知っているかい?」
紫子は妹に視線を向ける。緑子は「毎週の全校朝会で言ってたよ」と少し沈んだ声で言った。
「四週前は理科室の亀、三週前は談話室の鳥で、二週前は生物部って部活動で飼われてた動物とか虫とかが全部やられたって。先週も手芸部で飼われてた魚がやられたって聞いたけど、それは朝会では言われてなかったな」
「朝会で言いよったんはともかく、手芸部の魚は誰から聞いたん?」
「虹川くん」緑子は一学年上の友人に視線をやった。「お姉ちゃんもいたと思うよ」
「紫子は忘れっぽいからね。というより興味の対象が限られている。たいていのことは『自分達には関係がない』とばかりに意識の外側に追いやってしまうんだな。もう少し余裕を持った生き方をするべきだとボクは思うね。もっとも、君にとって世界とはそれを許さない場所なのだろうけど」
「話忘れとったんは悪かったって」紫子はバツが悪くなって頬をかく。「でもそういうあんたはどこで手芸部の魚が死んだや知ったん?」
「魚じゃなくてホーリーだ」
「ほ、ほおりい?」
「肉食の熱帯魚。いや飼い主はペットの趣味だけは良かったな。色艶もなかなかだったのに、犯人は罪なことをするよ。水槽の中に洗剤を撒いたんだってさ。魚にとって自分の住む水槽は世界の全てだ。そこが全部毒になるんだ。苦しみと死だけが世界を覆って、逃げ場なんてどこにもない。アクリルガラスに何度も身体をぶつけながら、足掻いて足掻いて死んでいくのさ」
「や、やめて」緑子が紫子に縋りついて来た。
「怖い話せんといたってって」紫子は緑子の肩を抱いて眉を顰める。この妹は共感性が強すぎる上に良く幻聴を感じるので、想像力を刺激するような話はご法度だ。「つかなんでそんな話をあんたは知っとるんって、ウチは聞いとるんやけど」
「ボクのクラスメイト……ここのじゃなくてね……に手芸部の奴がいた。そいつはどんなにか自分がそのホーリーを可愛がっていたか、愛していたのかを喚き散らしながら、全員の視線が自分に集中したのを見計らってギャン泣きしたよ。いや、迫真の演技だった」
「ペット死んだらそら泣くんちゃうんか?」
「死んだ二日後だった」虹川は頬を捻じ曲げた。世界そのものを嘲っているような笑い方で、彼女は無表情の他にはこの表情しか人に見せない。「喚き散らし始める直前まで、隣の席の奴と次は小さくてかわいい魚を飼おうと話し合ってたよ。殺されても被害の少ない、安い魚をね」
「……だからなんやねん」
「動物が死んでも人間にはたいした影響がないということだよ。飼い主ですらそうなんだもの。犯人が同一犯だとしたら無駄なことをしているもんだ。動物そのものに悪意があるならともかくとして、飼い主や死骸を見た人間に対する嫌がらせだとすれば無意味極まりない。低能で愛すべき無害だよ」
「いや、糞野郎やな」
「生き物を殺すのが糞野郎なら、普段の食事や、害虫の駆除はどうなるんだい?」
「アホか」
「殺生の問題は一生涯誰とでも議論できる優れた話題だとボクは思うのだがね」
「話がちゃうやろ。生きとるモンを苦しめたり殺したりすることをおもしろがるんは糞野郎や」
「ではその糞野郎にはどんな罰がふさわしい?」
「ウチが決めることとちゃう」
「ねぇお姉ちゃん、虹川くん」緑子が控えめな声で言った。「まるでおんなじ人が全部の事件の犯人みたいな言い方だけど……やっぱりそうなのかな?」
「そうじゃないか?」「そうなんちゃう?」
「そうなのかな。じゃあ、まだ起きるのかな?」
間違いなくそうだろうと思う。だがそれを口にすることはしない。泣きそうな顔をする妹の頭に、紫子は手をやる。
虹川は無表情で沈黙していた。
前篇は過去編です。
尻アス。




